氷の騎士団長は、支援の意味を知っている
「北部方面騎士団長、レオニス・ヴァルグレイ卿がお見えです」
扉の向こうから、黒い軍装の男が入ってきた。
会議室の扇の音が、ひとつ止まった。
黒髪。青灰色の目。踵をそろえ、過不足のない礼をする姿。右手には、黒い革手袋。
手の甲の端に、小さな百合。
(来てしまわれました)
リリアは、膝の上で重ねた指に力を込めた。
(いいえ、違います。来てくださったのではありません。私のためではありません。北部方面騎士団長として、正式な確認の場にお越しになっただけです)
分かっている。
分かっているのに、息が浅くなる。
レオニスは会議室の中央で立ち止まった。
「北部方面騎士団長、レオニス・ヴァルグレイ。北部支援連携に関する確認のため、参りました」
声は低く、静かだった。
リリアを見ていない。ルヴェリエ侯爵夫人へ礼をし、王宮慈善窓口の文官へ視線を向け、ラングレイ伯爵にも同じ温度で礼をする。
公務の顔だった。
(当然です。これは公務です。ヴァルグレイ卿は、騎士団長としてこの場に立っておられるのです。私がどれほど申し訳なく思っていても、どれほど胸が苦しくても、それはこの場に関係のないことです)
それでも、リリアはレオニスの右手を見てしまう。
黒い手袋。
自分が縫った小さな百合。
その手が、今この会議室にある。
自分のせいで。
「急なお呼び立て、恐れ入ります」
侯爵夫人が穏やかに言った。
「議題は、ルヴェリエ侯爵家と北部方面騎士団との支援連携に、実務上の支障があるかどうか。ならびに、補助窓口を新たに設ける必要があるかどうかです」
「承知しました」
ラングレイ伯爵が、丁寧に身を乗り出した。
「ヴァルグレイ卿。突然の確認、失礼いたします。私どもは、ルヴェリエ侯爵家の北部支援に疑いを差し挟むつもりはございません。ただ、今回の書面だけでは、それが団長閣下のご判断を経た返答なのか、こちらでは分かりません」
「書面、ですか」
「はい。今回の回答も、騎士団長閣下のお名前ではなく、受入担当名義で戻っております。もちろん、手続きとして正しいことは承知しております。ですが、急な品目変更や輸送判断が必要な場合、団長閣下まで速やかに話が届くのか。そこに不安が残るのです」
伯爵は、そこで柔らかく微笑んだ。
「そのため、当家が実務連絡の一部を補佐することも、支援全体の安定につながるのではないかと申し上げた次第です」
会議室が静まった。
リリアは、喉の奥を押さえられたような気がした。
(どうか、違うとおっしゃってください)
思った瞬間、恥ずかしくなった。
(いいえ、違います。私はまた、あの方に助けていただこうとしています。これは私のためではありません。ルヴェリエ家のためでもありません。北部支援のための確認です。私は、ここで何かを願ってはいけません)
レオニスは、伯爵の言葉を最後まで聞いた。
その表情は変わらない。氷の騎士団長と呼ばれる男の顔だった。
「支障はありません」
短い声だった。
会議室の空気が、わずかに動いた。
「受入担当名義での回答は、連携不足を意味しません。騎士団の正式な手順です。必要な判断は、私に上がります」
「しかし、支援側からは、それを確認する術がございません」
「署名が団長名であることだけが、連携の証ではありません」
伯爵の言葉が、そこで止まった。
リリアの胸が、熱くなった。
(そうです。あれは、正しい形だったのですね)
先日の回答書。
北部方面騎士団受入担当。
そこにレオニスの名がないことは、何もおかしくなかった。
むしろ、当然だった。
騎士団への確認に、騎士団として返す。
団長個人の名を出さない。
それが、正しい。
(分かっていたはずです)
それなのに、リリアはあの夜、末尾を見てしまった。
北部方面騎士団受入担当。
その文字を読んで、ほんの一瞬だけ、別の名を探してしまった。
(探しては、いけなかったのに)
レオニス・ヴァルグレイ。
その名がないことに傷ついたのではない。
正しい書面に、勝手にその名を探した自分が恥ずかしかった。
レオニスは、卓上の書類へ視線を落とした。
「ルヴェリエ侯爵家からの確認事項は、遅滞なく処理されています。内容に錯誤もありません。現行の連絡経路に、実務上の支障はありません」
声は変わらない。
変わらないまま、次の言葉だけが、まっすぐ落ちた。
「先日の確認事項は、見事でした」
リリアの指先が止まった。
「確認事項、でございますか」
伯爵が聞き返す。
「片手で開けられるか。夜間に仕分けられるか。香りが負傷兵の負担にならないか。いずれも、北部で実際に扱う者の手を想定していなければ出ない問いです。王都の机の上だけを見ていては、出ません」
声は淡々としていた。
淡々としているのに、一語ずつリリアの胸に落ちてくる。
(覚えていてくださった)
違う。
(いいえ、覚えていらしたのは私ではありません。確認事項です。騎士団長として、必要な内容を覚えておられただけです。分かっています。分かっているのに、どうしてこんなに)
褒められたのは、リリアではない。
確認事項だ。
北部で使うための、ただの問いだ。
そう分かっているのに、胸の奥が勝手に震えた。
「確認を整えたのは、どなたですか」
レオニスの問いに、会議室が静まった。
侯爵夫人はすぐには答えなかった。
王宮文官も書記の手を止めた。
ラングレイ伯爵は、ほんの一瞬だけ目を動かした。
リリアは答えられなかった。
(どうか、言わないでください)
名乗ることはできない。
けれど、他の誰かの名になるのも違う。
心臓が白い手袋の中まで鳴っているようだった。
「……ルヴェリエ様です」
ベアトリスの声だった。
リリアは思わず彼女を見る。
ベアトリスは父の方を見ていなかった。
「先日の仕分けで、ルヴェリエ様が確認なさいました。片手でもほどけるか、夜でも見分けられるか、受け取る方の手間にならないか。わたくしの包みも、その場で直していただきました」
そこで、ベアトリスは卓上の包み布に視線を落とした。
ラングレイ伯爵は、微笑んだままだった。
けれど、返す言葉だけが一拍遅れた。
リリアはベアトリスを見た。
ベアトリスは、まだ父を見ていない。ただ、自分が直した包み布を見ていた。
「そうですか」
レオニスは短く言った。
そして、初めてリリアを見た。
青灰色の目が、まっすぐリリアへ向いた。
リリアの息が止まった。
「リリア・ルヴェリエ嬢」
(名前を)
(今、私の名前を呼ばれました。いいえ、違います。呼ばれたのは私ではありません。これは確認を整えた者への正式な呼称です。公の場で、北部方面騎士団長が、必要な相手の名を正しく口にしただけです。分かっています。分かっているのに、どうして今、心臓が椅子から立ち上がろうとしているのでしょう。待ってください。立ち上がってはいけません。私は座っています。私は微笑んでいます。白百合令嬢です。大丈夫です。大丈夫なはずです。けれど、ヴァルグレイ卿の声で、私の名前が、今)
リリアは、微笑みを崩さなかった。
崩さなかったはずだった。
「見事な確認でした。北部方面騎士団として、感謝申し上げます」
────世界から、音が消えた。
扇の音も、筆の音も、誰かが息をのむ気配も、遠くなる。
ただ、レオニスの声だけが、胸の奥に残っていた。
(褒めて、くださいました)
だめだった。
もう、だめだった。
(ヴァルグレイ卿が。あの方が。私の名を呼んで、私のしたことを見事だとおっしゃいました。いいえ、私ではありません。確認です。確認事項です。北部で使うための問いです。騎士団長として、必要な評価を述べられただけです。分かっています。分かっています。なのに、どうして、胸の中で椅子も卓も会議室も全部ひっくり返っているのでしょう。いま王都中の鐘楼が鳴っています。たぶん鳴っていません。でも鳴っています。私の中では鳴っています。うるさいほどに。息ができないほどに)
(あの方が、私を)
そこまで考えて、リリアは息を整えた。
崩れてはいけない。
この場で崩れたら、ヴァルグレイ卿の言葉まで、王都の噂にされてしまう。
リリアは、微笑んだ。
白百合令嬢として。
「過分なお言葉でございます。北部で実際にお使いになる方々のご負担が、少しでも減ればと考えただけです」
声は震えなかった。
震えなかったはずだ。
「それが支援です」
レオニスは言った。
「見栄えのよい品を送ることだけが支援ではありません。届いた先で、兵の手を止めない。負傷した者に余計な負担をかけない。夜番が迷わず仕分けられる。そうした確認が、北部では必要になります」
伯爵は黙っていた。
レオニスは、伯爵へ視線を戻した。
「現行の連絡経路に支障はありません。補助窓口の追加も、現時点では必要ありません。必要が生じれば、北部方面騎士団より正式に申し入れます」
「……承知いたしました」
ラングレイ伯爵は、静かに頭を下げた。
「騎士団長閣下のお言葉、たしかにうかがいました」
負けを認めた声ではない。
けれど、この場でこれ以上押すことはできない声だった。
侯爵夫人が、穏やかに頷いた。
「では、現行の連絡経路を継続する形で記録をお願いいたします。協力家が増える場合も、窓口は混乱のないよう、これまで通り王宮慈善窓口とルヴェリエ家で整理いたしましょう」
王宮文官が記録を取る。
ペン先が紙を走る音だけが、会議室に戻った。
レオニスは短く礼をした。
「確認は以上でよろしいでしょうか」
「ええ。急なお呼び立て、ありがとうございました」
「職務です」
その一言が、リリアの胸に刺さった。
(そうです。職務です)
分かっている。
それなのに、今日のことを忘れられる気がしなかった。
レオニスは退室した。
黒い軍装の背が扉の向こうに消える。
扉が閉まってから、リリアはようやく息を吸った。
◇
廊下に出ても、レオニスは足を止めなかった。
止めれば、振り返ってしまう。
(泣きそうな顔をしていた)
違う。
(あれは俺が見てよい顔ではない。彼女はルヴェリエ侯爵家の令嬢として、北部支援の席に座っていた。俺は北部方面騎士団長として、連携に支障がないと答えただけだ。そこに、それ以上の意味を持たせてはならない)
黒い手袋の中で、指がわずかに曲がった。
(だが)
伯爵の言葉には、別のものが混じっていた。
不仲だという噂。
王都に流れたそれを、実務上の不安という形に変えて、あの男は卓上に置いた。
(そう見なす)
断定ではない。
だが、北部では、牙が見えてからでは遅い。
雪の上に残った足跡だけで、敵の向きを読む。
(あれは、刃だった)
歩くたび、廊下の空気が冷えていく気がした。
怒りは熱くならない。
熱くなれば、判断を誤る。
(次はない)
レオニスは歩調を崩さなかった。
◇
「ラングレイ伯爵の補助窓口案は、退けられたか」
王太子エリオットは、報告書から顔を上げた。
側近は、慎重に頷く。
「はい。ヴァルグレイ卿ご自身が、現行の連絡経路に支障なしと明言されました」
「ルヴェリエ家の立場は?」
「むしろ強まりました。リリア嬢の確認事項を、騎士団長閣下が公の場で高く評価されましたので」
「そうか。不仲ではないのだな」
「少なくとも、不仲という話は通りにくくなりました」
王太子は、そこで少し考え込んだ。
「だが、それはそれで別の噂になるのではないか」
「……すでに、なりかけております」
「やはりか」
エリオットは、真面目な顔で頷いた。
「なら、婚約させればよいのではないか」
側近は、羽根ペンを止めた。
「……殿下」
「不仲ではない。支援の相性もよい。家同士の筋も通る。曖昧な噂にしておくより、よほどよい」
エリオットは、報告書を軽く叩いた。
「名案だ」
側近は、羽根ペンを置いた。
置いてしまった。
もう、報告書を書くどころではなかった。
王太子は、善意だけでできた顔をしていた。
だからこそ、側近は何も言えなかった。
こうして、白百合令嬢と氷の騎士団長の不仲説は終わった。
代わりに、王都はもっと面倒な話を手に入れようとしていた。
第1章完結です
第二部以降の構想もありますが、続きにつきましては反響を見ながら考えたいと思っております。
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