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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第2章 婚約説編

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王太子殿下は、名案を思いついてしまいました

「殿下」


側近は、ようやく声を出した。


王宮の執務室には、まだ先ほどの言葉が残っている。


なら、婚約させればよいのではないか。


王太子エリオットは、自分が火種を投げたという顔をしていなかった。

むしろ、国の小さな不具合を一つ正したような、晴れやかな顔で報告書を閉じている。


側近は、手元の事務控えを見た。


白い紙が、これほど恐ろしく見えたことはない。


「ただいまのお言葉は、記録に残してよろしい種類のものでしょうか」


「なぜだ?」


王太子は本気で不思議そうだった。


「不仲ではなかった。支援の相性もよい。ルヴェリエ家とヴァルグレイ家なら、家としての筋も通る。噂が勝手に二人を傷つけるくらいなら、家同士で筋を通した方がよいだろう」


「お考え自体は、筋が通っております」


筋が通っているから困るのだ。


側近は、心の中だけでそう付け足した。


王太子の言葉には、悪意がない。

リリア・ルヴェリエ嬢を利用しようという打算も、レオニス・ヴァルグレイ卿を政治の駒にしようという冷たさもない。


むしろ逆だ。


王都の噂に振り回されるより、王家がきちんと家同士の話として扱った方が、二人の名誉を守れる。

不仲説などという曖昧なものに任せるより、よほど誠実だ。


正しい。

正しすぎる。


だから、止めにくい。


「ですが、いきなり婚約として進めるのは早計です。ご本人たちへの直接の打診も避けるべきかと」


「では、どうする」


「まずは、両家当主へ内々に。不都合がないかを探る程度に留めます。婚約ではなく、縁談としての可能性確認でございます」


言ってから、側近は胃の奥が冷えるのを感じた。


止めたつもりだった。

だが今、自分は王太子の思いつきに、貴族社会で通用する形を与えてしまった。


王太子は、ぱっと表情を明るくした。


「なるほど。婚約ではない。縁談として、不都合がないかを家同士で確認するだけだな」


「……はい。あくまで、内々に」


「あくまで内々に」


王太子は満足そうにうなずいた。


側近は、事務控えの上でペン先を止めた。


最初に浮かんだ文字は、婚約だった。

すぐに線を引いて消す。


強すぎる。


次に、縁談と書きかけた。

それも、まだ強い。


側近は少し考え、書き直した。


――将来的な家同士の連携に関する内々の確認。


弱い。

弱いはずだ。

少なくとも、王太子殿下の「婚約させればよい」よりは、はるかに穏当である。


それなのに、紙面に並べると、妙に逃げ道がなかった。


ルヴェリエ侯爵家。

ヴァルグレイ伯爵家。

北部支援。

王都社交。

不仲説の沈静化。

両家の関係強化。


どの言葉も、単体ではただの事務用語だった。

だが並べれば、一本の道になる。


しかも、その道の先に、リリア・ルヴェリエ嬢とレオニス・ヴァルグレイ卿が立たされている。


「ルヴェリエ侯爵家には、王宮からの命令ではなく、内々の照会としてお届けします。侯爵閣下宛てに。ただし、ご令嬢の意向確認は侯爵夫人を通されるのが自然でしょう」


「うむ」


「ヴァルグレイ伯爵家へは、北部の本邸宛てに照会を出します。伯爵閣下が王都へお越しになる場合は、北部防衛報告や慰問品輸送協議の名目を整えられるはずです」


「ちょうどよいではないか」


ちょうどよくない。


側近は、心の中だけで言った。


「念のため申し上げますが、殿下。これは正式打診ではございません」


「分かっている」


「ご本人たちへ直接、王宮からお話を通すものでもございません」


「分かっている」


王太子は、少しだけ笑った。


「だからまず、家に聞くのだろう?」


側近は、答えに詰まった。


その通りだった。


縁談は、まず家同士の話だ。

本人の心だけで進むものではない。


だが、本人の心を抜きにして決めてよいものでもない。


だから厄介なのだ。


側近は事務控えの余白に、細い字で書き添えた。


――内々確認。

――ルヴェリエ侯爵家。

――ヴァルグレイ伯爵家。

――縁談の件。


最後の四文字を書いた瞬間、紙の上に小さな火種が置かれたように見えた。


王太子エリオットは、そんな側近の胸中など知らない。


「これで、不仲などというつまらぬ噂も落ち着くだろう」


殿下は、善意だけでできた顔をしていた。


だからこそ、側近は何も言えなかった。



ルヴェリエ侯爵家に、その話が届いたのは、翌日の午後だった。


正式な婚約打診ではない。

王宮からの命令書でもない。

王太子の名で飾り立てられた派手な封書でもない。


ただ、王宮の側近筋から侯爵家へ渡された、内々の照会だった。


北部支援をめぐる今後の協力体制について。

ルヴェリエ侯爵家とヴァルグレイ伯爵家の関係強化について。

その一環として、将来的な縁談の可能性に不都合はあるか。


そういう、どこまでも慎重な文面で整えられていた。


ルヴェリエ侯爵は、それを読み終えると、しばらく黙っていた。

そして、書面を妻へ渡した。


「君も読んでおいた方がいい」


侯爵夫人は、夫の表情だけで、おおよその中身を察した。


書面を開く。

読み進める。

最後の一文まで目を通したところで、夫人は静かに息を吐いた。


「……王太子殿下らしいこと」


責める声ではなかった。

呆れた声でもなかった。

ただ、あまりにも善意がまっすぐすぎる者に向ける、少し困った声だった。


リリアとレオニスの不仲説は、ようやく薄れはじめた。

北部支援をめぐる余計な疑いも、消えつつある。


そこへ、今度は婚約の可能性。


王都は、静かな時間を人に与えない。


夫人は、机の上に書面を置いた。


家として考えれば、悪い話ではない。

ルヴェリエ家は王都社交と支援の窓口に強い。

ヴァルグレイ家は北部防衛の名家。

レオニス・ヴァルグレイ卿の功績も、人となりも、申し分ない。


だが、家として悪くないことと、娘の心が傷つかないことは、同じではない。


リリアは、ヴァルグレイ卿の名が出るだけで、平静を装いながら指先を迷子にする。

先日の会議のあとも、落ち着いた顔をしていた。

けれど母には分かった。


あの子は、自分のことより先に、相手に迷惑がかかることを恐れる。


この話を告げたら、きっとまず喜ばない。

喜ぶ前に、青ざめる。


――ヴァルグレイ卿にご迷惑が。


そう言う娘の顔が、見えるようだった。


「どう思う」


侯爵が尋ねた。


夫人は、すぐには答えなかった。


窓の外では、庭師が白い花の枝を整えている。

風に揺れる花は美しい。

だが、庭の外へ移せば、同じように咲くとは限らない。


「家として勝手に断るのは簡単です」


夫人は言った。


「進めるのも、きっと簡単でしょう。理由はいくらでもありますもの」


侯爵は黙っている。


「けれど、あの子の心を置いて進める話ではありません」


夫人は、書面の端を指で押さえた。


「本人に聞きましょう」


娘が嫌なら、ここで止める。

娘が迷うなら、急がせない。

娘が自分の気持ちを自分で分かっていないのなら、母として、その時間を奪わない。


夫人は侍女を呼ぶため、鈴に手を伸ばした。



同じ頃、北部のヴァルグレイ伯爵家にも、王宮からの内々の照会が届いていた。


王都より早馬で運ばれた書面は、北部の執務室で開かれた。


ヴァルグレイ伯爵は、暖炉の火のそばでそれを読んだ。

窓の外には、王都より早く冷える空が広がっている。

机上には、王宮へ送る予定だった北部防衛報告の下書きと、次期慰問品の受入表が置かれていた。


伯爵は、書面を最後まで読み終えても、すぐには口を開かなかった。


王太子殿下の思いつきだけなら、書面で済ませた。

軽い噂への対処なら、家令に返答を整えさせてもよかった。


だが、そこにはルヴェリエ侯爵家の名があった。

リリア・ルヴェリエ嬢の名があった。

そして、息子レオニスの名があった。


ならば、これは家の話だ。


ヴァルグレイ伯爵家は、北部の家である。

王都の華やかな社交とは遠い。

冬は早く、春は遅い。

祝宴の招待状より、負傷の報せの方が先に届くこともある。


王都の白百合を北部へ迎えるとは、飾りを得ることではない。

寒さも、不在も、血の報せも、家に入れることだ。


伯爵は、書面を静かに畳んだ。


レオニスは、何も言わないだろう。

望むことがあっても、望むと言わない。

自分の名が誰かの重荷になると思えば、迷わず身を引く。


そういう息子だ。


だからこそ、家で勝手に断ることもできない。

家で勝手に進めることもできない。


伯爵は、控えていた家令に目を向けた。


「王都へ行く」


「王都へ、でございますか」


「北部防衛報告を前倒しにする。慰問品輸送計画の協議も、王宮へ申し入れろ」


家令は一礼した。


「日程を整えます」


「急げ」


短い言葉だった。

だが、家令はそれ以上を尋ねなかった。


伯爵は、畳んだ書面にもう一度目を落とした。


「レオニスに聞く」


その言葉は、北部の執務室に静かに落ちた。


まだ婚約は決まっていない。

正式な打診ですらない。


ただ、内々の確認だったはずのものが、二つの家に届いた。


そして二つの家は、それぞれ同じ結論にたどり着いた。


本人に聞く。


王都の噂は、まだそのことを知らない。

リリアも、レオニスも、まだ知らない。


けれど次に呼ばれるのは、もう書面でも、家名でもない。


リリアと、レオニスだった。

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