王太子殿下は、名案を思いついてしまいました
「殿下」
側近は、ようやく声を出した。
王宮の執務室には、まだ先ほどの言葉が残っている。
なら、婚約させればよいのではないか。
王太子エリオットは、自分が火種を投げたという顔をしていなかった。
むしろ、国の小さな不具合を一つ正したような、晴れやかな顔で報告書を閉じている。
側近は、手元の事務控えを見た。
白い紙が、これほど恐ろしく見えたことはない。
「ただいまのお言葉は、記録に残してよろしい種類のものでしょうか」
「なぜだ?」
王太子は本気で不思議そうだった。
「不仲ではなかった。支援の相性もよい。ルヴェリエ家とヴァルグレイ家なら、家としての筋も通る。噂が勝手に二人を傷つけるくらいなら、家同士で筋を通した方がよいだろう」
「お考え自体は、筋が通っております」
筋が通っているから困るのだ。
側近は、心の中だけでそう付け足した。
王太子の言葉には、悪意がない。
リリア・ルヴェリエ嬢を利用しようという打算も、レオニス・ヴァルグレイ卿を政治の駒にしようという冷たさもない。
むしろ逆だ。
王都の噂に振り回されるより、王家がきちんと家同士の話として扱った方が、二人の名誉を守れる。
不仲説などという曖昧なものに任せるより、よほど誠実だ。
正しい。
正しすぎる。
だから、止めにくい。
「ですが、いきなり婚約として進めるのは早計です。ご本人たちへの直接の打診も避けるべきかと」
「では、どうする」
「まずは、両家当主へ内々に。不都合がないかを探る程度に留めます。婚約ではなく、縁談としての可能性確認でございます」
言ってから、側近は胃の奥が冷えるのを感じた。
止めたつもりだった。
だが今、自分は王太子の思いつきに、貴族社会で通用する形を与えてしまった。
王太子は、ぱっと表情を明るくした。
「なるほど。婚約ではない。縁談として、不都合がないかを家同士で確認するだけだな」
「……はい。あくまで、内々に」
「あくまで内々に」
王太子は満足そうにうなずいた。
側近は、事務控えの上でペン先を止めた。
最初に浮かんだ文字は、婚約だった。
すぐに線を引いて消す。
強すぎる。
次に、縁談と書きかけた。
それも、まだ強い。
側近は少し考え、書き直した。
――将来的な家同士の連携に関する内々の確認。
弱い。
弱いはずだ。
少なくとも、王太子殿下の「婚約させればよい」よりは、はるかに穏当である。
それなのに、紙面に並べると、妙に逃げ道がなかった。
ルヴェリエ侯爵家。
ヴァルグレイ伯爵家。
北部支援。
王都社交。
不仲説の沈静化。
両家の関係強化。
どの言葉も、単体ではただの事務用語だった。
だが並べれば、一本の道になる。
しかも、その道の先に、リリア・ルヴェリエ嬢とレオニス・ヴァルグレイ卿が立たされている。
「ルヴェリエ侯爵家には、王宮からの命令ではなく、内々の照会としてお届けします。侯爵閣下宛てに。ただし、ご令嬢の意向確認は侯爵夫人を通されるのが自然でしょう」
「うむ」
「ヴァルグレイ伯爵家へは、北部の本邸宛てに照会を出します。伯爵閣下が王都へお越しになる場合は、北部防衛報告や慰問品輸送協議の名目を整えられるはずです」
「ちょうどよいではないか」
ちょうどよくない。
側近は、心の中だけで言った。
「念のため申し上げますが、殿下。これは正式打診ではございません」
「分かっている」
「ご本人たちへ直接、王宮からお話を通すものでもございません」
「分かっている」
王太子は、少しだけ笑った。
「だからまず、家に聞くのだろう?」
側近は、答えに詰まった。
その通りだった。
縁談は、まず家同士の話だ。
本人の心だけで進むものではない。
だが、本人の心を抜きにして決めてよいものでもない。
だから厄介なのだ。
側近は事務控えの余白に、細い字で書き添えた。
――内々確認。
――ルヴェリエ侯爵家。
――ヴァルグレイ伯爵家。
――縁談の件。
最後の四文字を書いた瞬間、紙の上に小さな火種が置かれたように見えた。
王太子エリオットは、そんな側近の胸中など知らない。
「これで、不仲などというつまらぬ噂も落ち着くだろう」
殿下は、善意だけでできた顔をしていた。
だからこそ、側近は何も言えなかった。
◇
ルヴェリエ侯爵家に、その話が届いたのは、翌日の午後だった。
正式な婚約打診ではない。
王宮からの命令書でもない。
王太子の名で飾り立てられた派手な封書でもない。
ただ、王宮の側近筋から侯爵家へ渡された、内々の照会だった。
北部支援をめぐる今後の協力体制について。
ルヴェリエ侯爵家とヴァルグレイ伯爵家の関係強化について。
その一環として、将来的な縁談の可能性に不都合はあるか。
そういう、どこまでも慎重な文面で整えられていた。
ルヴェリエ侯爵は、それを読み終えると、しばらく黙っていた。
そして、書面を妻へ渡した。
「君も読んでおいた方がいい」
侯爵夫人は、夫の表情だけで、おおよその中身を察した。
書面を開く。
読み進める。
最後の一文まで目を通したところで、夫人は静かに息を吐いた。
「……王太子殿下らしいこと」
責める声ではなかった。
呆れた声でもなかった。
ただ、あまりにも善意がまっすぐすぎる者に向ける、少し困った声だった。
リリアとレオニスの不仲説は、ようやく薄れはじめた。
北部支援をめぐる余計な疑いも、消えつつある。
そこへ、今度は婚約の可能性。
王都は、静かな時間を人に与えない。
夫人は、机の上に書面を置いた。
家として考えれば、悪い話ではない。
ルヴェリエ家は王都社交と支援の窓口に強い。
ヴァルグレイ家は北部防衛の名家。
レオニス・ヴァルグレイ卿の功績も、人となりも、申し分ない。
だが、家として悪くないことと、娘の心が傷つかないことは、同じではない。
リリアは、ヴァルグレイ卿の名が出るだけで、平静を装いながら指先を迷子にする。
先日の会議のあとも、落ち着いた顔をしていた。
けれど母には分かった。
あの子は、自分のことより先に、相手に迷惑がかかることを恐れる。
この話を告げたら、きっとまず喜ばない。
喜ぶ前に、青ざめる。
――ヴァルグレイ卿にご迷惑が。
そう言う娘の顔が、見えるようだった。
「どう思う」
侯爵が尋ねた。
夫人は、すぐには答えなかった。
窓の外では、庭師が白い花の枝を整えている。
風に揺れる花は美しい。
だが、庭の外へ移せば、同じように咲くとは限らない。
「家として勝手に断るのは簡単です」
夫人は言った。
「進めるのも、きっと簡単でしょう。理由はいくらでもありますもの」
侯爵は黙っている。
「けれど、あの子の心を置いて進める話ではありません」
夫人は、書面の端を指で押さえた。
「本人に聞きましょう」
娘が嫌なら、ここで止める。
娘が迷うなら、急がせない。
娘が自分の気持ちを自分で分かっていないのなら、母として、その時間を奪わない。
夫人は侍女を呼ぶため、鈴に手を伸ばした。
◇
同じ頃、北部のヴァルグレイ伯爵家にも、王宮からの内々の照会が届いていた。
王都より早馬で運ばれた書面は、北部の執務室で開かれた。
ヴァルグレイ伯爵は、暖炉の火のそばでそれを読んだ。
窓の外には、王都より早く冷える空が広がっている。
机上には、王宮へ送る予定だった北部防衛報告の下書きと、次期慰問品の受入表が置かれていた。
伯爵は、書面を最後まで読み終えても、すぐには口を開かなかった。
王太子殿下の思いつきだけなら、書面で済ませた。
軽い噂への対処なら、家令に返答を整えさせてもよかった。
だが、そこにはルヴェリエ侯爵家の名があった。
リリア・ルヴェリエ嬢の名があった。
そして、息子レオニスの名があった。
ならば、これは家の話だ。
ヴァルグレイ伯爵家は、北部の家である。
王都の華やかな社交とは遠い。
冬は早く、春は遅い。
祝宴の招待状より、負傷の報せの方が先に届くこともある。
王都の白百合を北部へ迎えるとは、飾りを得ることではない。
寒さも、不在も、血の報せも、家に入れることだ。
伯爵は、書面を静かに畳んだ。
レオニスは、何も言わないだろう。
望むことがあっても、望むと言わない。
自分の名が誰かの重荷になると思えば、迷わず身を引く。
そういう息子だ。
だからこそ、家で勝手に断ることもできない。
家で勝手に進めることもできない。
伯爵は、控えていた家令に目を向けた。
「王都へ行く」
「王都へ、でございますか」
「北部防衛報告を前倒しにする。慰問品輸送計画の協議も、王宮へ申し入れろ」
家令は一礼した。
「日程を整えます」
「急げ」
短い言葉だった。
だが、家令はそれ以上を尋ねなかった。
伯爵は、畳んだ書面にもう一度目を落とした。
「レオニスに聞く」
その言葉は、北部の執務室に静かに落ちた。
まだ婚約は決まっていない。
正式な打診ですらない。
ただ、内々の確認だったはずのものが、二つの家に届いた。
そして二つの家は、それぞれ同じ結論にたどり着いた。
本人に聞く。
王都の噂は、まだそのことを知らない。
リリアも、レオニスも、まだ知らない。
けれど次に呼ばれるのは、もう書面でも、家名でもない。
リリアと、レオニスだった。




