白百合令嬢は、内々の縁談話に扇を落としました
「お母様。北部支援の件でしょうか」
母の部屋に呼ばれたリリアは、そう尋ねてから、机の上に置かれた封書を見た。封蝋は、王宮の正式なものではない。けれど紙の質も、折り目も、添えられた控えの整い方も、ただの私信ではなかった。
王宮の匂いがする。
そう思った瞬間、リリアの指先が止まった。侯爵夫人は、いつものように穏やかな顔で椅子を示す。
「座りなさい、リリア」
「はい」
リリアは母の向かいに腰を下ろし、膝の上に置いた扇を両手でそっと押さえた。北部支援の件なら、最近は何度も呼ばれている。慰問品の包み方、香りの強い花の扱い、負傷兵が片手でほどきやすい紐の件。確認することはいくらでもあった。
それなのに、今日の母の声は少し違った。叱る声ではない。喜ぶ声でもない。大事なものを壊さないように触れる時の声だった。
「王宮より、内々の照会がありました」
「内々の、照会……」
「正式な打診ではありません。王宮からあなた宛てに届いたものでもありません」
母は、最初にそこをはっきり言った。リリアは小さく息を吸う。正式ではない。自分宛てではない。なら、まだ何かが決まったわけではない。そう分かっているのに、胸の奥が静かに強張っていく。
侯爵夫人は、机の上の書面に指を置いた。
「ルヴェリエ侯爵家と、ヴァルグレイ伯爵家の今後の関係についてです」
その名を聞いた瞬間、リリアの視線が紙の端に吸い寄せられた。ヴァルグレイ伯爵家。その文字は、ただの家名だった。けれどリリアには、黒い軍服の裾や、裂けた手袋や、低く礼をする横顔まで、勝手に思い出させる名前だった。
「今後の、関係……ですか」
「ええ。将来的な縁談の可能性に、不都合はあるか。そういう趣旨です」
扇が、リリアの膝から落ちた。
乾いた音が、部屋に小さく響く。けれどリリアは、すぐには拾えなかった。
(ヴァルグレイ卿。縁談。私と。……私と? いえ、待ってください。待ってはいけません。まず状況を確認しなければなりません。お母様は今、ヴァルグレイ伯爵家との将来的な縁談とおっしゃいました。つまりそれは、ヴァルグレイ卿のお名前と、私の名前が、同じ話の中に置かれているということで。いいえ、置いてはいけません。そんな場所に私の名前を置いてはいけません。あの方は北部の英雄で、王国の盾で、裂けた手袋をそのまま使われてしまうような方で、傷を隠して当然のように立つ方で、私が勝手に遠くから見上げて、勝手に少しでもお役に立ちたいと思って、勝手に銀灰色の百合を縫い込んでしまった方で)
(その方の名の隣に、私)
(無理です)
(無理では?)
(いえ、無理かどうかではありません。存在してよい現象ではありません。これは喜ぶ話ではありません。今、胸が跳ねたことも、頬が熱くなったことも、耳の奥で何かが鳴ったことも、全部なかったことにしなければなりません。これは危険です。とても危険です。ヴァルグレイ卿にご迷惑がかかります)
「あの、私は……」
声がうまく出ない。リリアは床に落ちた扇を見た。拾わなければならない。貴族令嬢として、落としたものをそのままにしておくなど、みっともない。そう分かっているのに、指が動かなかった。
「ヴァルグレイ卿に、ご迷惑が」
ようやく出た言葉は、それだった。侯爵夫人は驚かなかった。ただ、静かに娘を見ている。
「まだ、何も決まっていません」
「ですが、そのようなお話が出るだけでも、ヴァルグレイ卿のお名前に……」
「傷がつくと?」
リリアは唇を結んだ。
そうだ。その通りだ。レオニス・ヴァルグレイ卿は、北部の英雄だ。王国の盾と呼ばれる人だ。国境と民と部下を守るために、血と泥の中で立ち続けてきた人だ。
王都の白百合令嬢との縁談など、きっと余計な噂を増やすだけだ。また社交界が騒ぐ。また、あの方の名が勝手に使われる。そして何より、私のような者が、あの方の人生に並んでよいはずがない。
「私は、ヴァルグレイ卿のご負担になりたくありません」
リリアは、ようやくそれだけを言った。言えた瞬間、少しだけ安心した。これで母には伝わる。これは辞退の意思だ。あの方を守るための、正しい言葉だ。
だが、侯爵夫人は書面を閉じなかった。
「リリア。あなたは先ほどから、ヴァルグレイ卿のことばかり話しています」
「……それは、当然のことです」
「ええ。大切なことです」
母は、リリアの言葉を否定しなかった。否定しないまま、逃げ道だけを静かに塞いだ。
「けれど、私は今、ヴァルグレイ卿のお気持ちを聞いているのではありません。あなたの気持ちを聞いています」
部屋が、静かになった。暖炉の火は小さく燃えている。窓の外では、庭師が白い花の枝を整えている。床には、落ちた扇がまだそのままになっていた。
リリアは、息をするのを忘れそうになった。
自分の気持ち。そんなものは、考えてはいけないと思っていた。ヴァルグレイ卿にとって迷惑か。ヴァルグレイ卿の名誉を損なわないか。ヴァルグレイ卿の人生に、余計なものを添えてしまわないか。
考えるべきことは、いくらでもあった。
けれど、その中に「自分はどうしたいのか」を置いたことはなかった。置いてしまったら、きっと駄目になる。胸の奥にしまっていたものが、名前を持ってしまう。
「私は……」
声が震えた。侯爵夫人は急かさない。
「正式な打診ではありません。けれど、家として無視してよい話でもありません」
「はい」
「あなたが嫌なら、この話はここで止めます」
「止める……」
「ええ。ルヴェリエ侯爵家として、不都合ありと内々にお返事します。それで終わりです」
終わり。
その言葉が胸に落ちた瞬間、リリアの中で、何かが小さく悲鳴を上げた。
(終わる。この話が。ヴァルグレイ卿との縁談という、あまりにも畏れ多く、あまりにも美しく、あまりにも間違っている言葉が、終わる。それでいいのです。それが正しいのです。ヴァルグレイ卿は傷つかない。ヴァルグレイ卿の名誉は守られる。ヴァルグレイ卿の人生に、白百合令嬢などという余計な飾りは添えられない。完璧です。誰が見ても正しいです。私もそう思います。そう思っております。そう思っているはずです)
(なのに、なぜ。なぜ、こんなに痛いのですか)
「嫌なら」と母は言った。嫌なら止める、と。ならば、言えばいい。嫌です、と。それで終わる。
(言いなさい、リリア。あなたは白百合令嬢でしょう。王都の噂に流されてはいけない。あの方を、自分の胸の高鳴りなどで巻き込んではいけない。嫌です。そう言えばいいのです。その一言で終わります。その一言で、あの方に迷惑をかけずに済みます。その一言で、ヴァルグレイ卿の名は守られます。だから、言いなさい)
リリアは口を開いた。
「もちろん、嫌では――」
そこで、言葉が止まった。
(嫌では)
(嫌では、何なのでしょう)
(嫌では、ありません。そう続けるつもりだったのですか。私は今、何を言おうとしたのですか。違います。違うのです。そういう意味ではありません。婚約したいという意味ではありません。あの方の未来に、自分の名を置きたいなどと、そんな恐ろしいことを考えたわけではありません)
(ただ)
(終わるのが)
(嫌だった)
(……嫌だった?)
(今、私は、嫌だと思ったのですか。ヴァルグレイ卿にご迷惑がかからない、正しい終わりを前にして。あの方にご迷惑をかけずに済む答えを前にして。それなのに、私は)
(終わってほしくないと)
(思ってしまったのですか)
「リリア」
母の声が、柔らかく届いた。
「答えは、今すぐでなくても構いません」
その優しさに、リリアはかえって逃げられなくなった。今すぐでなくてもいい。ならば、またヴァルグレイ卿の名誉のために考えられる。あの方に迷惑がかからない答えを探せる。自分の気持ちなど、きれいに畳んでしまえる。
けれど母は、そこまで分かっている顔をしていた。
「ただし、答える時は、ヴァルグレイ卿のためではなく、あなた自身の言葉で答えなさい」
リリアの瞳が揺れた。
床の扇は、まだ落ちたままだった。拾わなければ。そう思うのに、今拾えば、そのまま何もなかった顔をしてしまいそうだった。
「お母様」
「ええ」
「私は、ヴァルグレイ卿にご迷惑をおかけしたくありません」
「ええ」
「ヴァルグレイ卿には、もっと相応しい方が……」
「リリア」
母が、静かに名を呼んだ。
それだけで、リリアは言葉を失った。それは、あなたの気持ちですか。そう問われた気がした。
リリアは、膝の上で指を握りしめた。胸が苦しい。けれど、その苦しさの中に、確かに別のものが混じっていた。
怖い。
畏れ多い。
申し訳ない。
でも。
嫌ではない。
(嫌ではない。嫌ではないのです。違います。進めてほしいという意味ではありません。望んでいるという意味でもありません。ただ、嫌ではないのです。終わると聞いて、痛かったのです。あの方の名が、私から遠ざかると分かって、息が苦しくなったのです。私は、私は、なんてことを)
「……嫌では」
リリアは、かすれた声で言った。母は何も言わない。
「嫌では、ございません」
言ってから、リリアは息を止めた。
部屋の空気が変わったわけではない。母が微笑んだわけでもない。机の上の書面が、正式なものに変わったわけでもない。それでも、その一言は、落とした扇よりも重かった。
リリアは床の扇を見つめたまま、動けなかった。
(いま、何を)
(私は、何を言ってしまったのですか)
侯爵夫人は、ゆっくりと書面を閉じた。
「分かりました」
それだけだった。責めない。喜ばない。先を急がせない。けれど母の声は、リリアの言葉を確かに受け取っていた。
リリアはようやく身をかがめ、落とした扇を拾った。閉じた扇は、手の中で静かだった。けれど、リリアの指先はまだ震えている。
拾ったはずの扇よりも、落としたままの言葉の方が、ずっと重かった。
嫌では、ございません。
その言葉だけが、胸の奥で何度も響いていた。




