氷の騎士団長は、父の前で否定できませんでした
父が王都に来た。
知らせを受けた時、レオニスは騎士団詰所で北部東側の巡回表に赤線を引いていた。線は、途中で止まった。
ヴァルグレイ伯爵は、北部を離れない男ではない。王宮への報告、軍務協議、貴族としての義務。王都へ出る理由はいくらでもある。
だが、予定を前倒しにしてまで来る時は、たいてい北部のどこかで予定外のことが起きている。
砦か。補給路か。魔獣の動きか。それとも、まだ報告書に載せていない損害か。
「ヴァルグレイ伯爵閣下は、北部防衛報告を前倒しにされるとのことです。次期慰問品輸送計画についても、王宮と協議を」
家令の言葉は、どれも軍務として筋が通っていた。
レオニスは巡回表を閉じた。王都のヴァルグレイ家滞在邸へ向かう馬車の中でも、頭にあるのは北部東側の地図だった。冬前に通す荷。守れる経路。捨てるべき道。父に問われるなら、答えを用意しておく必要がある。
滞在邸へ着くと、玄関の奥に父の外套が掛けられていた。裾に乾いた泥が残っている。王都の床には似合わない泥だった。
やはり北部の話だ。
そう思って執務室に入ると、父は机の前にいた。広げられているのは、北部東側の地図。第二経路に赤い石が置かれ、第三経路には黒い石が置かれている。
「来たか」
「はい」
「座れ」
レオニスは椅子に腰を下ろした。父は地図から目を上げなかった。
「第三経路は捨てる」
「承知しています」
「不満はないか」
「ありません。今の人員で二本は守れません」
「荷は」
「第二経路へ寄せます。凍る前に通すなら、途中の橋を二つ先に補強する必要があります」
「王宮へは」
「馬車の追加ではなく、車輪の替えを求めます。台数を増やしても、道が持ちません」
「慰問品は」
「先に毛布と薬箱を入れます。嗜好品は後ろで構いません」
父の指が、受入表の端を押さえた。
「ルヴェリエ家の荷もか」
「はい。先方には、受入順の変更を正式に伝えます」
「理由を添えろ」
「もちろんです」
父は短くうなずいた。
会話は、いつもの北部だった。残す道を決める。捨てる道を決める。荷の順を変える。誰が寒い場所で待つのかを考える。
だからこそ、レオニスは違和感に気づくのが遅れた。
父の指が、地図の端へ動いた。
そこに、薄い封書が置かれていた。
地図より小さく、報告書より薄い紙なのに、レオニスはそちらから目を離せなかった。
「次は、家の話だ」
父は封書をレオニスの前へ滑らせた。
「読め」
レオニスは封を開いた。
命令書ではない。だが、軽い紙でもない。
ルヴェリエ侯爵家。
ヴァルグレイ伯爵家。
将来的な縁談。
不都合の有無。
そこで、文字が止まった。
(リリア・ルヴェリエ嬢)
そこだけ、はっきり読めた。
正式な打診ではない。家同士に不都合がないかを、内々に確かめる紙だ。そう読めばいい。そう扱えばいい。
けれど、視線は戻った。
(近い)
紙の上だ。
ただの文字だ。
それでも、彼女の名がヴァルグレイの名の隣にあった。
(近すぎる)
胸の奥が、一瞬だけ熱くなる。
その熱が、怖かった。
(喜ぶな)
レオニスは、紙を机に置き直した。
少し離したところで、何も変わらない。リリアの名は、まだそこにある。
「王太子殿下のご発案でしょうか」
「だろうな」
父は封書を見下ろした。
「王宮の紙だ。雑には返せん」
「……はい」
「ルヴェリエの名がある。お前の名もある」
それだけだった。
父は、縁談を勧めているわけではない。断れとも、受けろとも言っていない。ただ、その紙を家の話として置いた。
それで十分だった。
父は、ふいに尋ねた。
「リリア嬢本人は、この話を知っているのか」
レオニスは紙を見た。
王宮からの内々の照会。
ルヴェリエ侯爵家。
ヴァルグレイ伯爵家。
将来的な縁談。
不都合の有無。
そこに、リリア本人の返事はなかった。
「……分かりません」
「なら、まだ家の都合だ」
父は、それだけ言った。
(彼女が何も言っていない)
その一点だけで、さっき胸に灯った熱が冷えた。
(俺が先に、近づくのか)
それは、望むことではない。
踏み込むことだ。
レオニスは、紙の端を押さえた。
押さえたところで、何も止まらなかった。
「ルヴェリエ家の支援は、北部でも評判がいい」
「はい」
「先日の確認事項も聞いた」
父は、短く並べた。
「片手でほどける紐。夜でも分けられる印。香りを抑えた花」
そして、言った。
「よく見ている」
それだけだった。
レオニスには分かった。
リリアが見ていたのは、飾られた支援ではない。受け取る者の手だ。片手しか使えない兵の指だ。夜の灯りの下で荷を分ける者の目だ。
(リリア嬢は、そういう人だ。誰かが困らない場所を見ている。王都にいながら、北部で包みを開ける者の手元を見ている。だから、家の内側に入れば、きっと見てしまう。遅れた荷を。眠れていない兵を。返事の来ない手紙を。問題ないとしか言わない俺を)
見れば、彼女は放っておかない。
気づいてしまう。
手を伸ばしてしまう。
背負ってしまう。
父は、地図の端に封書を置いた。
北部東側の地図。
第二経路。
黒い石の置かれた第三経路。
その上に、リリアの名がある。
「家の釣り合いは悪くない」
「……はい」
「だが、それだけでは済まん」
レオニスは答えなかった。
父は続けた。
「北部の家に入る者は、待つことを覚える」
待つ。ただ待つだけではない。
雪で遅れる手紙を待つ。負傷者名簿に名前がないことを確かめる。帰還予定の日が過ぎても、玄関の灯を落とさずに待つ。
(リリア嬢が、俺を待つ)
その形が頭に浮かんだ瞬間、息が詰まった。
(だめだ)
それだけが、先に来た。
彼女が灯りを落とせずにいる夜など、作っていいはずがない。しかも、あの人は待つだけでは終わらない。毛布の数を数える。薬箱の順番を見る。負傷者に届く包みの紐を見る。レオニスが切った第三経路の向こうに、誰がいたのかまで考えてしまう。
父は書面の上から手を離した。
「分かっているな」
「分かっています」
答えはすぐに出た。
(だからこそ、入れてはならない)
支援として北部を見てくれる。それで十分すぎる。家の内側まで、彼女を入れる理由は、ない。
「嫌なら、ここで言え」
父の声が落ちた。
「家で断る」
断る道は、目の前にあった。
嫌だ。望まない。そう言えばいい。その一言で、彼女は遠ざかる。彼女の名は、北部の家に結ばれずに済む。王都の噂がどれほど騒いでも、家として断れば終わる。
(終わる)
その言葉だけが、胸の奥で引っかかった。
(リリア嬢との話が、ここで終わる)
終わらせるために言うのだ。
彼女のために。
彼女の名誉のために。
彼女の未来のために。
「私は……」
そこまでは出た。
だが、その先が出ない。
望まない。
たったそれだけの言葉が、出ない。
(リリア嬢を、望まない)
そう言えばいい。
言えば彼女を守れる。言えば彼女を北部から遠ざけられる。言えば、彼女が何も言っていないうちに、こちらから踏み込まずに済む。
だから言え。
レオニスは紙の上の名を見た。
リリア・ルヴェリエ。
ただの文字だ。家同士の確認に必要な一行だ。
なのに、そこだけ何度も読める。
(リリア嬢を傷つけたくないだけか)
違う。
その答えは、あまりにも早く出た。
(違う。俺は、リリア嬢を望んでいる)
だから、怖い。
(望んでいるから、望むと言えない。彼女がまだ知らないかもしれない紙に、自分の望みを載せることが怖い。白百合の名を、自分の家名の隣に置いて、嬉しいと思ってしまう。こんなものは敬意ではない。守ることでもない。俺の欲だ)
認めてはいけない答えだった。
父が名を呼ぶ。
「レオニス」
「……はい」
「お前の沈黙を、家の答えにはしない」
レオニスは顔を上げた。
「断るなら、お前の言葉で断れ」
父は、恋の話をしていない。
誰を好いているのかと聞いているわけでもない。
誰の言葉で断るのか。
それだけを問うている。
「少し、考える時間をいただけますか」
父は短く息を吐いた。
「明朝までだ」
「承知しました」
「曖昧なまま返すな」
「はい」
レオニスは書面を受け取り、立ち上がった。礼を取り、執務室を出る。
扉が閉じるまで、父は何も言わなかった。
廊下に出てから、レオニスはようやく息を吐いた。
◇
自室に戻ると、レオニスは机へ向かった。
考える時間など必要ない。
答えは分かっている。
(彼女を、ヴァルグレイ家に近づけてはならない)
白紙を一枚引き寄せ、ペンを取る。
黒い手袋を外すべきか迷い、そのままにした。手袋というだけで、余計なことを思い出しそうだった。
銀灰色の、小さな百合。
(リリア嬢が縫った)
今は、それではない。
レオニスは目を閉じ、すぐに開いた。紙に文字を落とす。
リリア・ルヴェリエ嬢との縁談について。
そこまでは書けた。
私には、その意思が。
ペンが止まる。
ない。
そう書けばいい。
一文字で済む。
それで終わる。
黒いインクが、ペン先から落ちた。
白い紙に、小さな染みが広がる。
レオニスは紙を握りつぶした。
すぐに、別の紙を取る。
ルヴェリエ侯爵家との縁談について。
止まる。
紙を破る。
次の紙を取る。
リリア・ルヴェリエ嬢。
そこで止まった。
彼女の名だけは、書けた。
(名前だけは、書けるのか)
レオニスは紙を見下ろした。
リリア・ルヴェリエ嬢。
その文字は、さきほどの書面よりも近い。
自分の手で書いたせいだ。
(さっきより近い)
その先に、否定を置けない。
望まない、と書けない。
望む、とも書けない。
どちらも彼女を傷つける気がした。
どちらにも、自分の欲が混じる気がした。
(リリア嬢を、望む)
その言葉を認めた瞬間、紙を見ていられなくなった。
レオニスは紙を破った。
机の上に、破れた紙片が散る。
リリア。
その文字だけが残った紙片が、一つ、手元に落ちていた。
レオニスはそれを見た。
ただの文字だ。
侯爵令嬢の名だ。
内々の照会に記された、縁談候補の名だ。
それだけのはずだった。
それなのに、捨てられなかった。
レオニスは黒手袋の指先で、その紙片をそっと押さえた。
リリア。
声には出さない。
出してはならない。
(呼ぶな)
(望むな)
(消せ)
命令なら、聞くはずだった。
けれど、その名はもう、消せなかった。




