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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第2章 婚約説編

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氷の騎士団長は、父の前で否定できませんでした

父が王都に来た。


知らせを受けた時、レオニスは騎士団詰所で北部東側の巡回表に赤線を引いていた。線は、途中で止まった。


ヴァルグレイ伯爵は、北部を離れない男ではない。王宮への報告、軍務協議、貴族としての義務。王都へ出る理由はいくらでもある。


だが、予定を前倒しにしてまで来る時は、たいてい北部のどこかで予定外のことが起きている。


砦か。補給路か。魔獣の動きか。それとも、まだ報告書に載せていない損害か。


「ヴァルグレイ伯爵閣下は、北部防衛報告を前倒しにされるとのことです。次期慰問品輸送計画についても、王宮と協議を」


家令の言葉は、どれも軍務として筋が通っていた。


レオニスは巡回表を閉じた。王都のヴァルグレイ家滞在邸へ向かう馬車の中でも、頭にあるのは北部東側の地図だった。冬前に通す荷。守れる経路。捨てるべき道。父に問われるなら、答えを用意しておく必要がある。


滞在邸へ着くと、玄関の奥に父の外套が掛けられていた。裾に乾いた泥が残っている。王都の床には似合わない泥だった。


やはり北部の話だ。


そう思って執務室に入ると、父は机の前にいた。広げられているのは、北部東側の地図。第二経路に赤い石が置かれ、第三経路には黒い石が置かれている。


「来たか」

「はい」

「座れ」

レオニスは椅子に腰を下ろした。父は地図から目を上げなかった。

「第三経路は捨てる」

「承知しています」

「不満はないか」

「ありません。今の人員で二本は守れません」

「荷は」

「第二経路へ寄せます。凍る前に通すなら、途中の橋を二つ先に補強する必要があります」

「王宮へは」

「馬車の追加ではなく、車輪の替えを求めます。台数を増やしても、道が持ちません」

「慰問品は」

「先に毛布と薬箱を入れます。嗜好品は後ろで構いません」


父の指が、受入表の端を押さえた。


「ルヴェリエ家の荷もか」

「はい。先方には、受入順の変更を正式に伝えます」

「理由を添えろ」

「もちろんです」


父は短くうなずいた。


会話は、いつもの北部だった。残す道を決める。捨てる道を決める。荷の順を変える。誰が寒い場所で待つのかを考える。


だからこそ、レオニスは違和感に気づくのが遅れた。


父の指が、地図の端へ動いた。


そこに、薄い封書が置かれていた。


地図より小さく、報告書より薄い紙なのに、レオニスはそちらから目を離せなかった。


「次は、家の話だ」


父は封書をレオニスの前へ滑らせた。


「読め」


レオニスは封を開いた。


命令書ではない。だが、軽い紙でもない。


ルヴェリエ侯爵家。

ヴァルグレイ伯爵家。

将来的な縁談。

不都合の有無。


そこで、文字が止まった。


(リリア・ルヴェリエ嬢)


そこだけ、はっきり読めた。


正式な打診ではない。家同士に不都合がないかを、内々に確かめる紙だ。そう読めばいい。そう扱えばいい。


けれど、視線は戻った。


(近い)


紙の上だ。

ただの文字だ。


それでも、彼女の名がヴァルグレイの名の隣にあった。


(近すぎる)


胸の奥が、一瞬だけ熱くなる。


その熱が、怖かった。


(喜ぶな)


レオニスは、紙を机に置き直した。


少し離したところで、何も変わらない。リリアの名は、まだそこにある。


「王太子殿下のご発案でしょうか」

「だろうな」

父は封書を見下ろした。

「王宮の紙だ。雑には返せん」

「……はい」

「ルヴェリエの名がある。お前の名もある」


それだけだった。


父は、縁談を勧めているわけではない。断れとも、受けろとも言っていない。ただ、その紙を家の話として置いた。


それで十分だった。


父は、ふいに尋ねた。


「リリア嬢本人は、この話を知っているのか」


レオニスは紙を見た。


王宮からの内々の照会。

ルヴェリエ侯爵家。

ヴァルグレイ伯爵家。

将来的な縁談。

不都合の有無。


そこに、リリア本人の返事はなかった。


「……分かりません」

「なら、まだ家の都合だ」


父は、それだけ言った。


(彼女が何も言っていない)


その一点だけで、さっき胸に灯った熱が冷えた。


(俺が先に、近づくのか)


それは、望むことではない。


踏み込むことだ。


レオニスは、紙の端を押さえた。


押さえたところで、何も止まらなかった。


「ルヴェリエ家の支援は、北部でも評判がいい」

「はい」

「先日の確認事項も聞いた」


父は、短く並べた。


「片手でほどける紐。夜でも分けられる印。香りを抑えた花」


そして、言った。


「よく見ている」


それだけだった。


レオニスには分かった。


リリアが見ていたのは、飾られた支援ではない。受け取る者の手だ。片手しか使えない兵の指だ。夜の灯りの下で荷を分ける者の目だ。


(リリア嬢は、そういう人だ。誰かが困らない場所を見ている。王都にいながら、北部で包みを開ける者の手元を見ている。だから、家の内側に入れば、きっと見てしまう。遅れた荷を。眠れていない兵を。返事の来ない手紙を。問題ないとしか言わない俺を)


見れば、彼女は放っておかない。

気づいてしまう。

手を伸ばしてしまう。

背負ってしまう。


父は、地図の端に封書を置いた。


北部東側の地図。

第二経路。

黒い石の置かれた第三経路。


その上に、リリアの名がある。


「家の釣り合いは悪くない」

「……はい」

「だが、それだけでは済まん」


レオニスは答えなかった。


父は続けた。


「北部の家に入る者は、待つことを覚える」


待つ。ただ待つだけではない。

雪で遅れる手紙を待つ。負傷者名簿に名前がないことを確かめる。帰還予定の日が過ぎても、玄関の灯を落とさずに待つ。


(リリア嬢が、俺を待つ)


その形が頭に浮かんだ瞬間、息が詰まった。


(だめだ)


それだけが、先に来た。


彼女が灯りを落とせずにいる夜など、作っていいはずがない。しかも、あの人は待つだけでは終わらない。毛布の数を数える。薬箱の順番を見る。負傷者に届く包みの紐を見る。レオニスが切った第三経路の向こうに、誰がいたのかまで考えてしまう。


父は書面の上から手を離した。


「分かっているな」

「分かっています」


答えはすぐに出た。


(だからこそ、入れてはならない)


支援として北部を見てくれる。それで十分すぎる。家の内側まで、彼女を入れる理由は、ない。


「嫌なら、ここで言え」


父の声が落ちた。


「家で断る」


断る道は、目の前にあった。


嫌だ。望まない。そう言えばいい。その一言で、彼女は遠ざかる。彼女の名は、北部の家に結ばれずに済む。王都の噂がどれほど騒いでも、家として断れば終わる。


(終わる)


その言葉だけが、胸の奥で引っかかった。


(リリア嬢との話が、ここで終わる)


終わらせるために言うのだ。


彼女のために。

彼女の名誉のために。

彼女の未来のために。


「私は……」


そこまでは出た。


だが、その先が出ない。


望まない。


たったそれだけの言葉が、出ない。


(リリア嬢を、望まない)


そう言えばいい。


言えば彼女を守れる。言えば彼女を北部から遠ざけられる。言えば、彼女が何も言っていないうちに、こちらから踏み込まずに済む。


だから言え。


レオニスは紙の上の名を見た。


リリア・ルヴェリエ。


ただの文字だ。家同士の確認に必要な一行だ。


なのに、そこだけ何度も読める。


(リリア嬢を傷つけたくないだけか)


違う。


その答えは、あまりにも早く出た。


(違う。俺は、リリア嬢を望んでいる)


だから、怖い。


(望んでいるから、望むと言えない。彼女がまだ知らないかもしれない紙に、自分の望みを載せることが怖い。白百合の名を、自分の家名の隣に置いて、嬉しいと思ってしまう。こんなものは敬意ではない。守ることでもない。俺の欲だ)


認めてはいけない答えだった。


父が名を呼ぶ。


「レオニス」

「……はい」

「お前の沈黙を、家の答えにはしない」


レオニスは顔を上げた。


「断るなら、お前の言葉で断れ」


父は、恋の話をしていない。

誰を好いているのかと聞いているわけでもない。


誰の言葉で断るのか。


それだけを問うている。


「少し、考える時間をいただけますか」

父は短く息を吐いた。

「明朝までだ」

「承知しました」

「曖昧なまま返すな」

「はい」


レオニスは書面を受け取り、立ち上がった。礼を取り、執務室を出る。


扉が閉じるまで、父は何も言わなかった。


廊下に出てから、レオニスはようやく息を吐いた。



自室に戻ると、レオニスは机へ向かった。


考える時間など必要ない。

答えは分かっている。


(彼女を、ヴァルグレイ家に近づけてはならない)


白紙を一枚引き寄せ、ペンを取る。


黒い手袋を外すべきか迷い、そのままにした。手袋というだけで、余計なことを思い出しそうだった。


銀灰色の、小さな百合。


(リリア嬢が縫った)


今は、それではない。


レオニスは目を閉じ、すぐに開いた。紙に文字を落とす。


リリア・ルヴェリエ嬢との縁談について。


そこまでは書けた。


私には、その意思が。


ペンが止まる。


ない。


そう書けばいい。


一文字で済む。

それで終わる。


黒いインクが、ペン先から落ちた。


白い紙に、小さな染みが広がる。


レオニスは紙を握りつぶした。


すぐに、別の紙を取る。


ルヴェリエ侯爵家との縁談について。


止まる。


紙を破る。


次の紙を取る。


リリア・ルヴェリエ嬢。


そこで止まった。


彼女の名だけは、書けた。


(名前だけは、書けるのか)


レオニスは紙を見下ろした。


リリア・ルヴェリエ嬢。


その文字は、さきほどの書面よりも近い。


自分の手で書いたせいだ。


(さっきより近い)


その先に、否定を置けない。


望まない、と書けない。

望む、とも書けない。


どちらも彼女を傷つける気がした。

どちらにも、自分の欲が混じる気がした。


(リリア嬢を、望む)


その言葉を認めた瞬間、紙を見ていられなくなった。


レオニスは紙を破った。


机の上に、破れた紙片が散る。


リリア。


その文字だけが残った紙片が、一つ、手元に落ちていた。


レオニスはそれを見た。


ただの文字だ。

侯爵令嬢の名だ。

内々の照会に記された、縁談候補の名だ。


それだけのはずだった。


それなのに、捨てられなかった。


レオニスは黒手袋の指先で、その紙片をそっと押さえた。


リリア。


声には出さない。

出してはならない。


(呼ぶな)


(望むな)


(消せ)


命令なら、聞くはずだった。


けれど、その名はもう、消せなかった。

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