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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第2章 婚約説編

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14/24

白百合令嬢と氷の騎士団長は、婚約の話を避け続けました

翌朝、リリアは朝食の席で、母から王宮の予定を告げられた。

昨夜のうちに、王宮からルヴェリエ侯爵家へ使いがあったらしい。


「正式な婚約打診ではありません」


侯爵夫人は、落ち着いた声でそう言った。


リリアは、小さく息を戻した。

正式ではない。ならば、まだ昨日の自分を回収できる。


「本日、王宮で内々の同席確認がございます」


戻した息が、止まった。


「……同席、確認?」


「あなたとヴァルグレイ卿に、無理に進められて困る事情がないかを、簡単に確認するだけです」


簡単に。


母はそう言った。


(同席確認。つまり、同じ部屋に座り、同じ紙を前にして、ヴァルグレイ卿との縁談について、困る事情があるかどうかを聞かれるということですか。お母様は簡単にとおっしゃいましたが、簡単とは、心臓が正常な速度で動いている方だけに許される言葉ではありませんか。私の心臓は、すでに朝食の席から王宮まで走っております)


リリアは膝の上の扇を握った。


「お母様。私は、何を申し上げれば」


「嫌なら、嫌と申し上げればよいのです」


嫌なら、嫌。それだけ。

昨日、言えなかったことを、今日、王宮で言えばよい。


(嫌なら、です。嫌ではない場合は、どうすればよろしいのでしょうか)


聞けなかった。聞いたら終わる気がした。


「それから、リリア」


侯爵夫人の声が、少しだけ柔らかくなった。


「ヴァルグレイ卿に気を遣うことと、あなたの気持ちを無かったことにすることは、同じではありません」


リリアは、扇を握る指に力を入れた。


「……はい」


分かっている。分かっているのに、まだ分けられない。


ヴァルグレイ卿にご迷惑をかけたくない。

ヴァルグレイ卿の名誉を守りたい。

ヴァルグレイ卿の未来を、自分の噂で曇らせたくない。


そのどれも本当だ。

けれど、その下にある「嫌ではない」を、まだ自分のものとして持てない。


馬車が用意され、王宮の門が近づいていく。


リリアは扇を握ったまま、窓の外を見ていた。


(これは正式な婚約打診ではありません。内々の確認です。つまり、婚約ではありません)


(婚約ではないのに、なぜ私の心臓は婚約の速度で動いているのでしょう)


王宮の小応接室の前で、王太子殿下の側近が頭を下げた。


「ルヴェリエ嬢。殿下がお待ちです」


殿下。


リリアは、その一言で足元を見た。


「……王太子殿下が、いらっしゃるのですか」

「はい。今回のお話は、殿下からの内々の確認ですので」


内々とは。


リリアの中で、内々という言葉が、急に王宮の天井くらい高くなった。


扉が開く。


明るい声が、先に届いた。


「おお、ルヴェリエ嬢。急に呼び立ててすまない」


王太子エリオット殿下が、長椅子の前でにこやかに立っていた。


その斜め後ろに、黒い騎士服の人影がある。


レオニス・ヴァルグレイ卿だった。


(いらっしゃる。黒い騎士服で、背筋を伸ばして、王太子殿下の後ろに、何事もないようなお顔でいらっしゃる。私は今から、この方の前で、縁談に困る事情があるかどうかを聞かれるのですか。困る事情。あります。心臓です。私の心臓が、すでに職務を放棄しかけています。白百合令嬢としての私が、まだ席に着いてもいないのに、内側から崩れそうです)


リリアの指先から、扇が落ちかけた。


レオニスが、こちらを見た。その視線は一瞬だけ、落ちかけた扇に向かった。

けれど彼は、手を伸ばさなかった。


伸ばさないでくれた。


ここで拾われたら、リリアは王宮の床に沈むしかない。


「ルヴェリエ嬢」

低い声が、扇ではなくリリアに向けられる。

「ご無理のないように」

「……はい」


それだけで、扇を握り直す力が戻った。


「うむ。無理はよくない」


王太子殿下が、なぜか満足そうにうなずいた。


リリアは、さらに扇を握った。


小応接室には、婚約の話を避けたい二人と、なぜか満足そうな王太子殿下がそろった。


王太子殿下は、軽く手を振った。


「堅くならなくてよい。本来なら側近に任せるところだが、今回は私が言い出した話だからな」


言い出した。


リリアは、扇の上で指を止めた。


「とはいえ、今日は正式な婚約打診ではない。ただ、将来的な縁談として、大きな不都合がないかを確認したいだけだ」


リリアは小さくうなずいた。


正式ではない。先ほども聞いた。

聞いたのに、王太子殿下の口から出ると重い。


「ご両家には、すでに内々に話を通してある。今日は、本人たちの気持ちも聞いておきたくてな」


本人たち。


リリアは、思わず横を見そうになった。


見てはいけない。隣ではない。向かい側でもない。

ただ、同じ小応接室にいるだけだ。


けれど、同じ小応接室にいる。


(同じ部屋に)


膝の上の指に、力が入った。


レオニスは、いつも通り静かだった。黒い騎士服に、黒い手袋。背筋は少しも崩れていない。


ただ、卓上の薄い書類を見ている時間が、わずかに長い。


(ヴァルグレイ卿も、困っていらっしゃる)


そう思った瞬間、リリアの胸が冷えた。


この場で自分がうっかり喜んでいる場合ではない。


これは、ヴァルグレイ卿の名誉と未来に関わる話だ。

自分が変な反応をすれば、彼が断りづらくなるかもしれない。


王太子殿下は、明るい顔のまま尋ねた。


「では、まずルヴェリエ嬢。ヴァルグレイ卿との縁談について、強く拒む事情はあるか?」


来た。

リリアは唇を開いた。


嫌です。違います。そのような恐れ多い話は。ヴァルグレイ卿にご迷惑が。

どれかを言えばよい。


「その、私は……」


喉が、動かない。


(嫌では、ございません)


また、昨日の自分が出てきた。


違う。

あれは母の前で、うっかり出てしまった本音である。

王太子殿下の前で再提出してよい言葉ではない。


王太子殿下は、急かさなかった。


「急がせるつもりはない。ヴァルグレイ卿はどうだ?」


今度は、レオニスが問われた。


リリアは息を止めた。


レオニスは、すぐには答えなかった。


「……ルヴェリエ嬢に、不利益がない形であることが最優先かと存じます」


低く、静かな声だった。


リリアは目を伏せた。


(不利益。私の。ヴァルグレイ卿が、私の不利益を)


嬉しい、と思いそうになって、慌てて胸の中で首を振る。


これは優しさだ。

騎士として、貴族として、当然の配慮だ。

ここで喜んではいけない。


王太子殿下は、ぱっと顔を明るくした。


「なるほど。相手の不利益を先に考える。よいことだな」


よいこと。


リリアの手の中で、扇が小さく鳴った。


「では、お二人とも、現時点で大きな支障はなさそうだな」


「お待ちください」


リリアは反射で声を出していた。


王太子殿下が顔を上げる。

レオニスも、こちらを見た。


見られた。


(終わりました)

いや、まだ終わっていない。


何か言わなければ。

婚約の話ではない、安全な話を。


「北部支援の荷の外装について、ひとつ確認してもよろしいでしょうか」


一瞬、小応接室が静かになった。


王太子殿下が、目を瞬かせる。


「外装?」

「はい。次期慰問品輸送計画に関わることですので」


苦しい。


今ここで出す話題として、あまりにも逃げている。

逃げているが、北部支援の話なら嘘ではない。

嘘ではないので、安全である。


(安全です。婚約の話ではありません。北部支援の話です)


王太子殿下は、少し考えたあと、すぐにうなずいた。


「北部支援の件か。急ぎなら、今ここで確認してよいぞ。ちょうどヴァルグレイ卿もいる」


通った。


リリアは、扇を握ったまま、慎重に息を吸った。


レオニスが、静かに向き直る。


「雨天時の外装でしょうか」


即座に返ってきた。


リリアは、思わず顔を上げた。


「はい。前回お送りした包みは、外側を厚手の紙で覆いましたが、長雨の場合、角から崩れるのではないかと」

「崩れます」

「やはり」

「荷台の端に積まれた場合、角から水を吸います。外装そのものより、角の補強が必要です」

「では、布を重ねるより、角を補強した方がよろしいでしょうか」

「その方がいい。油紙を内側に一枚入れてください。外側に置くと滑ります」

「内側に、油紙を一枚」

「荷台でずれにくくなります」


話せる。


婚約の話は無理でも、北部支援の話なら話せる。


王太子殿下が、にこにこと二人を見ていた。


「ふむ。話が早いな」


リリアは、その一言で我に返りかけた。


けれど王太子殿下は、止めなかった。

むしろ楽しそうにうなずいている。


「包み紐についても、もう一点だけ」


言ってから、リリアは自分の逃げ道をさらに掘ったことに気づいた。


レオニスは、止めなかった。


「片手でほどけるものですね」

「はい。ただ、前回の形ですと、手袋をしている方には輪が小さいかもしれません」

「その通りです」


その通りです。


リリアは、その一言だけで一瞬、呼吸を忘れた。


(通じました)


(通じてしまいました)


「負傷兵は、指先に力が入らない者もいます。輪を大きくするなら、結び目は右寄りに。左腕を吊っている者が、右手で引く場合が多い」

「右手を負傷している方も、いらっしゃいますよね」

「その場合、介助者がほどくことになります。本人がほどける可能性を高くするなら、右寄りです」

「では、包みの種類ごとに結び目の位置を変えるのは」

「混乱します」


言い終えてから、リリアは少し恥ずかしくなった。


けれどレオニスは、否定するために否定しているわけではなかった。


「位置より、紐の触感を変えた方がいい」

「触感……」

「薬箱と毛布で紐を変える。夜でも手で分かります」

「夜間仕分けですね」

「はい」


リリアは、卓上の茶器を忘れていた。


王宮の小応接室であることも、王太子殿下がいることも、最初の話題が縁談だったことも、一瞬だけ遠のいた。


今あるのは、北部へ送る荷のことだけだった。


王太子殿下が、またうなずいた。


「なるほど。夜でも分かるようにするのか。よい工夫だ」


よい工夫。


リリアの胸に、その言葉が一度触れて、それ以上にレオニスの横顔が刺さった。


「花についても、最後にひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか」


最後に。


自分で言いながら、リリアは最後という言葉にすがった。


レオニスは、少しだけ視線を落とした。


「施療所に置く場合のことでしょうか」

「はい。慰問として花を添える場合、香りが強すぎると、ご迷惑かと」

「強い香りは避けた方がいい。薬の匂いが分かりにくくなる」

「では、香りの弱い乾燥花を、小さく」

「薬箱とは分けてください」

「毛布の方へ?」

「その方がいい。まったくないより、淡いものは喜ばれます」


リリアは、うなずいた。


(婚約の話ではありません。これは北部支援の話です。荷の角、包み紐、夜間仕分け、香りの弱い花。どれも支援の話です。なのに、どうしてでしょう。ヴァルグレイ卿が一つ返してくださるたび、私の中の何かが、はい、それです、そこを見てほしかったのです、と勝手にうなずいてしまうのです。私は婚約の話から逃げたはずなのに、逃げた先で、この方と同じものを見てしまっています)


胸が熱い。


ヴァルグレイ卿が、退屈そうにしていない。

面倒そうでもない。

こちらの細かすぎる確認を、細かすぎるものとして流さない。


当たり前のように受け取って、当たり前のように返してくれる。


王太子殿下が、満足そうにうなずいた。


「二人とも、よく見ているな」


リリアは、そこで現実に戻った。


二人とも。


今、王太子殿下は、二人とも、と言った。


「も、申し訳ございません。話が逸れました」

「よい。必要な確認なのだろう」


王太子殿下は、たいへん寛大だった。


寛大すぎた。


「それで、雨天時の包みは、試作を持ち込めるのか?」


リリアは、思わず答えていた。


「はい。油紙を内側に入れたものと、角を補強したものをお持ちできます」

「両方あると比較できます」

「紐も三種類、付けます」

「助かります」


助かります。


リリアは、また胸を押さえたくなった。


助かる、と言われた。

ヴァルグレイ卿に。

自分の考えた包みが、北部の助けになると言われた。


(間違いなく、北部支援の話です。ですが)


リリアは、茶器の縁を見つめた。


(こんなに、満たされる話だったでしょうか)


レオニスが、静かに言った。


「ルヴェリエ嬢の確認事項は、現場で役に立ちます」


リリアは固まった。


息をするのを忘れた。


「……恐れ入ります」

「こちらが礼を申し上げるべきです」


やめてください。


そう言いかけた。


そんなふうに真っ直ぐ言われたら、胸が持たない。


「いえ、私は、ただ」

「ただ、ではありません」


レオニスの声は低かった。


「北部に届く荷は、届いてからが本番です。開ける者がいる。運ぶ者がいる。分ける者がいる。ルヴェリエ嬢は、そこを見てくださっている」


リリアは、喉の奥が詰まった。


(だめです。これは褒め言葉として受け取ってはいけません。これは北部支援に対する実務的評価です。分かっています。分かっているのに、ヴァルグレイ卿が、私の見ていた場所を見つけてくださった。飾りではなく、手元を。慰めではなく、現場を。そんなふうに言われたら、私は今日の縁談確認を一生忘れられなくなってしまいます)


ヴァルグレイ卿に、見ている場所を見つけられた。


(これは婚約の話ではありません。北部支援の話です。ですが、今の言葉は)


今の言葉だけで、何日でも生きられる気がした。


「うむ」


王太子殿下が、明るくうなずいた。


「実に良いな」


良い。


何が。


リリアは、扇の上で指を止めた。


「殿下」

「ん?」

「先ほどの件は、その、まだ、何も……」


何も決まっておりません。


そう言うつもりだった。


けれど、王太子殿下は笑顔で手を振った。


「分かっている。今日は正式な打診ではない。内々の確認だ」


リリアは、少しだけ安心しかけた。


「はい」

「だから、今日のところは十分だ」


十分。


何が。


リリアは、また扇を握った。


王太子殿下は、まっすぐレオニスを見た。


「ヴァルグレイ卿も、ルヴェリエ嬢に不利益がないことを最優先に考えている」

「はい」

「ルヴェリエ嬢も、北部支援について、ヴァルグレイ卿と問題なく話せている」

「それは、北部支援の話でして」

「うむ。大事な話だ」


王太子殿下は、にこにこしている。


リリアは、否定の入口を探した。


婚約の話ではありません。

縁談についてはまだ何も。

ヴァルグレイ卿にご迷惑が。


どれも、王太子殿下の笑顔の前で、うまく形にならなかった。


レオニスも、静かに口を開いた。


「殿下。ルヴェリエ嬢のお立場に、過度な負担がないようお願いいたします」

「もちろんだ」


王太子殿下は、力強くうなずいた。


「無理に進めるつもりはない。そこは安心してほしい」


安心。


してよいのだろうか。


「本日は、ここまでにしよう」


王太子殿下が立ち上がる。

リリアも立ち上がった。

レオニスも、静かに立つ。


退出前、ほんの一瞬だけ、視線が合った。


「ルヴェリエ嬢」

「はい」

「先ほどの試作ですが」

「はい」

「無理のない範囲でお願いします」

「……はい」

「北部支援は、急がせるものではありません」


その一言で、また胸が詰まった。


レオニスは、リリアの作るものだけを見ているのではない。

作るリリアの負担まで、見ている。


「ありがとうございます。ですが、私が確認したいのです」

「……そうですか」

「はい。私が、確認したいのです」


そこで会話は終わった。


婚約の話は、最後まで一度もできなかった。


けれど、王太子殿下はたいへん満足そうだった。


「うむ」


王太子殿下は、笑顔でうなずいた。


「二人とも、よく話せているではないか。大きな支障はなさそうで安心した!」


リリアは、扇を握ったまま固まった。


安心。


どこに。


何を。


王太子殿下の笑顔は、王宮の窓から差し込む昼の光より明るかった。

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