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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第2章 婚約説編

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15/24

王都は、否定されない噂が大好きです

王宮から戻ったリリアは、自室の椅子に座ったまま、しばらく扇を握っていた。


閉じた扇の骨が、指に当たっている。

痛くはない。

けれど、手放す気になれなかった。


王太子殿下の声が、まだ耳の奥に残っている。


二人とも、よく話せているではないか。

大きな支障はなさそうで安心した。


(安心。どこに。何を)


リリアは扇を膝の上に置こうとして、途中で止めた。


婚約の話は、していない。

正式な打診でもなく、内々の確認だった。


それなのに、思い出すのは、雨天時の外装、包み紐、香りの弱い乾燥花のことばかりだった。


どれも、北部へ荷を届けるための確認だ。

リリアの名を、ヴァルグレイ卿の隣に置く話ではない。


(なのに、なぜ私は、王宮から帰ってきただけで、一日分の社交を終えたような気持ちになっているのでしょう)


扇を持つ指に、また力が入った。


そこへ、扉の外からエステルの声がした。


「お嬢様。失礼いたします」

「どうぞ」


エステルは銀盆を持って入ってきた。

盆の上には、封書が三通と、小さな伝言札が二枚置かれている。


リリアは、嫌な予感がした。


「エステル。それは」

「本日、お嬢様がお戻りになってから届いたものです」

「今日だけで、ですか」

「はい」


エステルは表情を変えずに、銀盆を机へ置いた。


「お茶会のお誘いが二件。北部支援についてのお問い合わせが一件。あとは、明日の慈善音楽会でぜひお話を、との伝言です」

「北部支援について」


リリアの指から、扇を握る力が少しだけ抜けた。


(北部支援なら、答えられます。婚約の話ではありません)


エステルは、一通目の封書を手に取った。


「こちらは、ロシュフォール伯爵令嬢からです。『王宮にてヴァルグレイ卿と北部支援について有意義なお話をなさったと伺いました。ぜひ、詳しくお聞かせくださいませ』とのことです」


リリアの指が止まった。


「……伺いました?」

「はい」

「誰から、でしょうか」

「そこまでは」


エステルは、二通目を開いた。


「こちらは、ミレー男爵夫人からです。『王太子殿下もご安心なさったと伺い、わたくしまで嬉しくなりました』と」


リリアは、椅子の背にそっと寄りかかった。


ご安心。


王太子殿下が、ご安心。


(何に。どこに。私は婚約の話を避けました。避け続けました。北部支援の話しかしておりません。ですが、たしかに話しました。ヴァルグレイ卿と。雨天時の外装について。包み紐について。花の香りについて。あれを、話が弾んだ、と呼ばれたら、私は反論できるのでしょうか)


「お嬢様」


エステルの声で、リリアは我に返った。


「顔色が、白百合より白くなっております」

「白百合より白い顔色は、令嬢として正しいのでしょうか」

「体調としては心配です」

「そうですね」


リリアは、扇を開こうとして、やめた。


(開いたら、顔を隠してしまいます。隠したら、エステルに全部見抜かれます)


エステルは、三通目に視線を落とした。


「こちらは、明日の慈善音楽会の控室で、ぜひヴァルグレイ卿のお話を、と」

「待ってください」


リリアは、思わず手を上げた。


「ヴァルグレイ卿のお話を、とは」

「そのように書かれております」

「北部支援の話ではなく?」

「文面上は、ヴァルグレイ卿のお話です」


リリアは、扇を膝に押しつけた。


「違います。私は、ヴァルグレイ卿とそのような……」


言葉が止まった。


(そのような。そのような、何でしょう。関係ではない。婚約ではない。特別ではない。そこまでは分かります。けれど、昨日までの私なら、もっと早く言えた気がするのです。そのような関係ではございません、と)


今は、口に出す前に、その言葉だけが喉の奥で止まってしまう。


エステルは静かにリリアを見ていた。


「お嬢様」

「はい」

「今の間は、社交界では肯定に分類されます」


リリアは、扇を落としかけた。


「肯定ではありません」

「では、もう一度どうぞ」

「ヴァルグレイ卿とは、そのような……」


そこでまた止まった。


エステルは、うなずいた。


「肯定に分類されます」

「エステル」

「はい」

「社交界の分類は、もう少し優しくならないのでしょうか」

「噂に優しさを求めるのは、暖炉に雪解けを期待するようなものです」


リリアは黙った。


(勝てません。少なくとも今の私では、エステルの分類から逃げられません)


「ですが、否定は必要です」


リリアは扇を握り直した。


「このままでは、ヴァルグレイ卿にご迷惑がかかります」

「どのように否定なさいますか」

「それは、北部支援の話でして、と」

「おそらく、『お二人で熱心に北部支援についてお話しになったのですね』と返されます」

「では、王太子殿下のご判断は、あくまで内々の確認で」

「『内々に進んでいるのですね』と受け取られます」

「まだ何も決まっておりません、と」

「『まだ』が付きます」


リリアは口を閉じた。


(まだ。たしかに、今、自分でそう言いかけました)


「エステル」

「はい」

「社交界は、敵なのでしょうか」

「敵ではございません。ただ、よく燃えます」


扇の骨が、また小さく鳴った。


翌日の慈善音楽会で、リリアはその言葉の意味を知った。


音楽会そのものは、王都の令嬢たちが孤児院や施療所への支援金を集めるための、穏やかな催しだった。


白い花が飾られ、弦楽の音が流れ、誰も声を荒らげない。

笑顔は柔らかく、挨拶は丁寧で、茶器の音まで上品だった。


けれど、リリアが控室に入った瞬間、いくつかの視線がこちらを向いた。


悪意はない。

棘もない。

ただ、明らかに待っていた目だった。


「ルヴェリエ様」


最初に声をかけてきたのは、ロシュフォール伯爵令嬢だった。


「昨日は王宮にいらしたとか」

「はい。北部支援の件で、少し確認がありまして」


まず北部支援を前に出す。


(北部支援を先に出せました。これなら、まだ大丈夫です)


ロシュフォール伯爵令嬢は、ぱっと表情を明るくした。


「まあ、やはり。ヴァルグレイ卿とお話しなさったのですね」


(大丈夫では、ありませんでした)


「いえ、その、王太子殿下もいらっしゃいましたので」

「殿下もご同席で?」


周りの令嬢たちの目が、さらに柔らかく輝いた。


(まずいです。王太子殿下のお名前を出した瞬間、皆様の目が、内々の確認ではなく婚約の準備を見る目になりました)


「正式なものではございません」

「もちろんですわ。内々のご確認ですものね」


内々。


その言葉が、昨日よりもさらに高い天井を作った。


リリアは、扇を開きかけて、止めた。


(ここで顔を隠せば、照れていると思われます。隠さなければ、今の顔を見られます。どちらにしても、負けている気がいたします)


「それは、北部支援の話でして」


リリアは、できるだけ落ち着いて言った。


ロシュフォール伯爵令嬢は、にこりと微笑んだ。


「ええ。お二人で、よくお話しになれたのですわね」


届かない。


否定が、否定として届かない。


(私の言葉は、相手の耳に入った瞬間、花飾りを付けられて戻ってくるのですね)


「違います」と言いたかった。


けれど、その一言を強く言えば、ヴァルグレイ卿の名をこの部屋の中心に置くことになる。

もっと多くの人が聞く。

もっと多くの人が見る。


リリアは、言葉を飲み込んだ。


「北部へ送る荷は、雨に弱いものもありますので」

「まあ。そういうところまでお気づきになるのですね」

「必要なことです」

「ヴァルグレイ卿も、頼もしく思われたでしょうね」


また戻ってきた。


北部支援の話をしても、最後にはヴァルグレイ卿の話になる。


リリアは、扇を閉じたまま、胸の前で押さえた。


その時、横から涼しい声が入った。


「皆様、ルヴェリエ様をあまり囲んではお気の毒ですわ」


リリアが振り向くと、ベアトリス・グランフェルトが立っていた。


淡い青のドレスに、白い手袋。

笑顔は美しい。

けれど、その目は、周りの令嬢たちの熱より少しだけ冷静だった。


「ベアトリス様」

「ごきげんよう、ルヴェリエ様」


ベアトリスは優雅に一礼してから、他の令嬢たちへ視線を向けた。


「北部支援のお話は、後ほど支援品の展示卓でも伺えるでしょう。今からすべて聞いてしまっては、楽しみが減ってしまいますわ」

「まあ、それもそうですわね」

「では、また後ほど」


令嬢たちは、名残惜しそうにしながらも離れていった。


「助かりました」

「いいえ。半分はわたくしのためですわ」

「半分?」

「このまま見ていたら、ルヴェリエ様が扇を握りつぶすところでしたもの。見届けるには惜しい扇です」


リリアは、自分の手元を見た。


たしかに、扇の骨が少しきしんでいる。


「……婚約説は、不仲説より厄介ですわ」


ベアトリスは、声を落として言った。


「不仲説より、ですか」

「ええ。不仲説は、笑い合えば消えます。けれど婚約説は、笑えば満更ではないと取られます」


リリアは、開きかけた扇を閉じた。


笑えば、満更ではない。

否定すれば、照れている。

そのどちらにも、自分の顔が置かれてしまう。


「では、否定すれば」

「照れていると取られますわ」

「黙れば」

「認めたと取られます」

「困った顔をすれば」

「初々しいと取られますわね」


(逃げ道が、全部飾り紐で結ばれております)


「では、どうすればよろしいのでしょうか」


ベアトリスは、にこりと微笑んだ。


「分かりませんわ。だから厄介なのです」

「ベアトリス様」

「はい」

「今、助言ではなく、とどめを刺されましたか」

「社交界では、現状把握も大切ですわ」


ベアトリスは悪びれなかった。


だが、その声に意地悪さはなかった。

からかいはある。

面白がってもいる。

けれど、リリアを笑いものにする目ではなかった。


ベアトリスは、周囲ではなく、リリアだけを見て言った。


「ルヴェリエ様は、ヴァルグレイ卿の名誉を守りたいのでしょう」


リリアは黙った。


「……はい」

「でしたら、強く否定しすぎるのも危険ですわ」

「なぜですか」

「ヴァルグレイ卿が、ルヴェリエ様から拒まれたように聞こえるからです」


リリアは、そこで初めて「そのような関係ではございません」という言葉を飲み込んだ。


(それは、考えていませんでした。いいえ、考えたくなかったのです)


「わたくしが『そのような関係ではございません』と申し上げたら」

「言い方によっては、ヴァルグレイ卿が望んでいたのに、ルヴェリエ様が退けたように聞こえます」

「そんなつもりは」

「なくても、聞く側が勝手に飾ります」


リリアは、扇を見下ろした。


噂は、優しくない。

けれど、悪意だけで動いているわけでもない。


リリアが置いた言葉に、誰かが花を添える。

誰かがリボンを巻く。

最後には、リリア自身が置いていない意味まで、そこに乗っていた。


「では、何も言えないではありませんか」

「何も言わないのも、認めたと取られますわ」

「逃げ場がございません」

「ええ」


ベアトリスは、なぜか楽しそうにうなずいた。


「これほど上品に退路を塞ぐのが、社交界ですもの」


リリアは、笑えなかった。


「ただ、一つだけ」


ベアトリスは、少し声をやわらげた。


「ヴァルグレイ卿にご迷惑がかからない言い方を選ぶなら、相手を否定するのではなく、事実だけを短く置くことですわ」

「事実だけ」

「昨日は北部支援について確認いたしました。正式な打診ではございません。今はそれだけです、と」

「それだけで、止まりますか」

「止まりません」

「ベアトリス様」

「でも、余計には燃えにくいですわ」


火は消えない。

けれど、リリアの手で大きくしないことはできる。


リリアは、その言葉を胸の中で繰り返した。


(昨日は北部支援について確認いたしました。正式な打診ではございません。今はそれだけです)


それだけ。

(それだけのはずなのに、なぜこんなに難しいのでしょう)


音楽会が始まる前、リリアは支援品の展示卓へ移動した。


卓の上には、孤児院へ送る布、施療所へ送る包帯、乾燥花を入れる小袋が並べられている。


リリアは、小袋の紐を整えた。


香りは弱い。

薬箱とは分ける。

毛布の方へ添える。


昨日、ヴァルグレイ卿と話したことが、手元に残っている。


それだけで、胸が少し熱くなる。


(いけません。これは北部支援です。北部支援の確認です)


「ルヴェリエ様」


別の令嬢が、展示卓の向こうから声をかけてきた。


「こちらの乾燥花、香りが控えめで素敵ですわね」

「ありがとうございます。施療所では、香りが強すぎると薬の匂いが分かりにくくなるそうですので」

「まあ。ヴァルグレイ卿から伺ったのですか」


リリアは、小袋の紐を結びかけたまま止まった。


(ここでも、ですか)


「北部の現場で、必要なことを確認しただけでございます」

「まあ。必要なことを、ヴァルグレイ卿と確かめ合えるのですもの。心強いですわね」


否定の言葉は、まっすぐ飛ばない。

途中で花を結ばれ、リボンを巻かれ、本人が知らない意味を付けられて戻ってくる。


それでも、言葉を選ばなければならない。


ヴァルグレイ卿の名を、勝手に傷つけないために。


リリアは、結びかけの紐から指を離し、令嬢へ向き直った。


「昨日は、北部支援について確認いたしました」


令嬢が微笑む。


「ええ」

「正式な打診ではございません」

「もちろんですわ」

「今は、それだけです」


リリアは、そこで口を閉じた。


それ以上は言わなかった。


(ヴァルグレイ卿とは、そのような関係ではございません)


その言葉は、喉の奥に置いたままにした。


(強く言えば、彼を拒んだように聞こえます。弱く言えば、照れているように聞こえます。迷えば、肯定にされます。だから、今は。事実だけを、置きます)


令嬢は少しだけ目を細め、それから上品に微笑んだ。


「承知いたしました。今は、ですわね」


リリアは、手元の小袋を見た。


(今は。そこも拾われるのですね)


言い返したかった。

けれど、言い返せば、また燃える。


リリアは黙って、小袋の紐を結んだ。


細く、ほどけにくくならないように。

けれど、簡単に崩れないように。


(噂も、このように結べればよいのに)


音楽会の最初の曲が、広間から流れ始めた。


ベアトリスが少し離れた場所から、こちらを見ている。

エステルは壁際で、心配そうにリリアの手元を見ている。


リリアは、結び終えた小袋を一つ、展示卓の端へ置いた。


不仲説は、笑えば終わった。


婚約説は、否定しても笑われる。


そのことを知ったリリアは、次の小袋を手に取り、今度は結び目を少しだけ右へ寄せた。

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