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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第2章 婚約説編

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16/24

白百合令嬢は、婚約説を否定できない理由に気づいてしまいました

慈善音楽会から戻ったリリアは、自室の机の前で、閉じた扇をそっと置いた。

小袋の紐を結んだ指には、まだ細い感覚が残っている。


今は、ですわね。


令嬢の声が、何度も戻ってくる。


正式な打診ではございません。

今は、それだけです。


事実だけを置いた。余計なことは言わなかった。ヴァルグレイ卿の名を、拒む言葉で傷つけないようにした。

それでも、拾われた。


(今は。そこを拾われるのですね)


不仲説は、笑えば終わった。

婚約説は、否定しても笑われる。


そこまでは分かったのに、次に何を言えばよいのかが分からない。


扉のそばで、エステルが静かに茶器を置いた。

「お嬢様。お疲れのところ恐縮ですが、少しだけ練習いたしましょう」

「事実だけを短く置く練習ですね」

「それも必要です」


リリアは顔を上げた。

「それも」


エステルは、まっすぐリリアを見た。

「もう一つ、必要でございます」


嫌な予感がした。

今日一日で、リリアは嫌な予感が当たりやすくなっていた。


「お嬢様。私に向かって、こうおっしゃってください」


エステルは、少しも表情を変えずに言った。


「ヴァルグレイ卿とは、そのような関係ではございません」


リリアは、膝の上で指を重ねた。

「……それを、今ここで言うのですか」

「お嬢様のお顔色は心配ですが、練習は必要です」


逃げられなかった。


リリアは背筋を伸ばした。

社交界で何度も使われる、丁寧な否定の言葉。誰かを責めるわけでも、辱めるわけでもない。


ヴァルグレイ卿とは、そのような関係ではございません。


言えばよい。


「ヴァルグレイ卿とは」


そこまでは出た。


「そのような」


そこで止まった。扇の房が、膝の上で小さく揺れる。

関係ではございません。

ただそれだけの言葉が、どうしても出てこなかった。


(ヴァルグレイ卿とは、そのような関係ではございません)


頭の中では言える。

きちんと言える。

文字にすれば、何の問題もない一文だ。


(これは否定です。ヴァルグレイ卿を拒む言葉ではありません。私が勝手に並べられたお名前を、元の場所へ戻すだけの言葉です。あの方にご迷惑をかけないための、必要な言葉です)


それなのに、口に出そうとすると違う意味になる。

ヴァルグレイ卿とは、そのような関係ではございません。

その一文が、まるで彼の差し出してもいない手を、リリアの方から払う言葉のように聞こえてしまう。


(違います。違うのです。私は、あの方を拒みたいわけではなくて)


そこまで考えて、リリアは止まった。


拒みたいわけではない。


では、何なのか。


エステルの声は優しい。

けれど、逃がす気はない。


「もう一度どうぞ」

「ヴァルグレイ卿とは、そのような……」


また止まった。


「今日の控室より、長い間でございます」

「測らないでください」

「社交界は測ります」

「社交界は、もう少し別のことをなさってください」

「おそらく、別のこともなさった上で測ります」


リリアは、返す言葉を失った。


エステルは一歩近づいた。

「お嬢様。本当に否定なさりたいのですか」


リリアは、すぐに顔を上げた。

「もちろんです」


その返事だけは、早かった。

早すぎた。


エステルの目が、わずかに細くなる。

リリアは唇を開きかけた。けれど、その先にある言葉だけが出てこない。


違う。

否定しなければならない。


このままでは、ヴァルグレイ卿に迷惑がかかる。王都中に名前を並べられ、北部方面騎士団長としての名まで、軽く扱われてしまう。

そのはずなのに、言葉だけが出てこない。


(なのに、なぜ言えないのですか)


「お嬢様は、否定したいのでしょうか。それとも、ヴァルグレイ卿にご迷惑をおかけしたくないのでしょうか」


リリアは、そこで止まった。

答えは簡単なはずだった。


「同じことではありませんか」

「違います。否定したいのであれば、先ほどの一文が出ます。ご迷惑をおかけしたくないのであれば、言葉を選びます」

「私は、言葉を選んでいるだけです」


エステルは、リリアの手元を見た。

「その手袋では、嘘が隠せておりません」


リリアは、自分の手を見下ろした。

白い手袋の上からでも分かるほど、指先が扇の端を押さえている。

扇を押さえるほど、その一文が出てこなかった。


(違います。私は嬉しいから否定できないのではありません。ヴァルグレイ卿の名誉を守りたいだけです。王都の噂で、あの方のお名前が軽く扱われるのが嫌なのです)


リリアは、そう自分に言い聞かせた。


氷の騎士団長。

北部を守る方。

血と泥の匂いを背負いながら、それを王都の広間に持ち込まない方。


そんな人の名前が、令嬢たちの笑顔の中で、ふわふわと軽く結ばれていく。

それが嫌だった。


「私は、ヴァルグレイ卿の名誉を守りたいだけです。王都の噂で、あの方のお名前が軽く扱われるのが嫌なのです」


エステルは口を挟まなかった。


「氷の騎士団長であり、北部を守る方です。私のことで、余計な笑い話にされるべきではありません。だから、否定が必要なのです」


そう言い切ったはずなのに、リリアはそこで言葉を探した。


否定したい。

迷惑をかけたくない。

あの方の名を守りたい。


どれも嘘ではない。

けれど、それだけではない。


(では、なぜ今、嫌ではなかったことまで思い出しているのですか)


慈善音楽会の控室が、頭に戻ってくる。


まあ、やはり。ヴァルグレイ卿とお話しなさったのですね。

お二人で、よくお話しになれたのですわね。

ヴァルグレイ卿も、頼もしく思われたでしょうね。


そのたびに困った。困ったはずだった。否定しようとして、言葉を選んで、疲れた。

なのに、一番奥に残っているのは、嫌悪ではなかった。


(困りました。本当に困りました。皆様に、ヴァルグレイ卿とよく話せていたと言われました。お二人で、と言われました。内々のご確認、と言われました。違いますと申し上げなければならないのに、違います、だけでは済まない気がしたのです)


リリアは、扇から手を離した。


(だって、嫌ではなかったのです)


「お嬢様?」


「嫌では、なかったのです」


声に出してから、リリアは自分で驚いた。

エステルは、口を挟まなかった。


「皆様に、ヴァルグレイ卿とよく話せていた、と言われました。お二人で、と言われました。内々のご確認、と言われました。困りました。本当に困りました。どう否定すればよいのか、分からなくなりました」


リリアは、膝の上の扇を見つめた。


「でも、嫌ではなかったのです」


もう一度言うと、「名誉を守りたいだけです」という言い訳が、少しだけ薄くなった。


「それが、困るのです」


エステルは、ようやく小さくうなずいた。

「なぜ、困るのでしょう」


「だって」


リリアは、すぐには続けられなかった。


だって。


嫌ではない。

嬉しい。


それを認めたら、もう「ヴァルグレイ卿の名誉を守りたいだけです」とは言えなくなる。


「だって、私は」


リリアは、声を落とした。


「少し、嬉しかったのです」


言ってしまった。


エステルは、すぐには口を挟まなかった。


「お二人で、よくお話しになれたのですね、と言われた時、違いますと申し上げなければならないのに。王太子殿下がご安心なさったと聞いた時、誤解ですと申し上げなければならないのに。どこかで、少しだけ」


リリアは、手袋の指を重ねた。


「嬉しいと、思ってしまいました」


言葉にすると、逃げられなくなる。

噂にされるのは困る。

レオニスに迷惑をかけるのも怖い。


それでも、名前を並べられた時、リリアはすぐに「違います」とは言えなかった。

それが一番、困る。


(ヴァルグレイ卿とは、そのような関係ではございません)


また、頭の中でだけ言えた。


(言えます。頭の中では、何度でも言えます。けれど声にした瞬間、あの方の名を遠くへ置いてしまう気がするのです。近づきたいなどと、思ってよい立場ではないのに。遠ざける言葉だけが、どうしても怖いのです)


エステルは、静かに言った。

「お嬢様。今の言葉は、社交界ではどのように分類されるか、お分かりですか」


リリアは目を開けた。

「……言わないでください」

「肯定に近いかと」

「言わないでくださいと申しました」

「失礼いたしました」


エステルは、少しも失礼した顔ではなかった。


リリアは扇を手に取った。

「でも、これは違います。まだ、違います」

「何と違うのでしょう」

「その」


また、止まった。


好き。

恋。

婚約。

望む。


そのどれにも、まだ手を伸ばせない。


「分かりません。ただ、嫌ではないのです。嬉しいと、思ってしまったのです。でも、それでヴァルグレイ卿にご迷惑をかけるのは嫌です。だから、私は否定をしなければ」


「お嬢様」


エステルの声が、少しだけやわらかくなった。

「否定するための言葉は、今は置いておきましょう」

「置いておいて、よいのですか」

「今のお嬢様に、あの一文は難しすぎます」


リリアは反論できなかった。

今日のリリアを一番困らせたのは、たった一文だった。


ヴァルグレイ卿とは、そのような関係ではございません。


それだけが、どうしても言えなかった。


その時、廊下の向こうが少し騒がしくなった。


普段なら、ルヴェリエ家の使用人は足音を乱さない。客人が来ても、手紙が届いても、銀盆の音一つ立てずに運ぶ。

だが、今の足音は違った。


急いでいる。


エステルが扉へ向いた。

「失礼いたします」


入ってきたのは、年配の侍女だった。息を乱してはいない。けれど、顔色がいつもより硬い。


「エステル。お嬢様へ、王宮より急ぎの伝令でございます」


リリアは椅子から立ち上がった。

「王宮から?」


年配の侍女は、封をした伝言筒をエステルへ渡した。エステルが封蝋を確認する。

王宮の封蝋の下に、赤い急報印が重ねられていた。北部方面騎士団に関する知らせにだけ使われる印だった。


リリアは、その小さな印から目を離せなかった。


エステルは伝言筒を開き、文面に目を通した。

いつも表情を変えないエステルの眉が、わずかに動いた。


「エステル」

「お嬢様」


声が低い。


「北部境界線付近に、魔獣群が出たとのことです」


リリアは、赤い急報印から目を離せなかった。


魔獣群。


その言葉だけで、さきほどまでの会話が止まった。


「被害は」


リリアは、思わず聞いていた。

エステルは文面を追った。


「詳細はまだ。北部方面騎士団が対応に入るとのことです」


北部方面騎士団。

その名の中心にいる人を、リリアは知っている。


知っているなどと言ってよいのか分からない。


けれど、声を知っている。

黒い手袋を知っている。

雨天時の外装も、包み紐も、香りの弱い花も、同じ目で見てくれた人だった。


「ヴァルグレイ卿は」


聞く前に、答えは分かっていた。

それでも、聞かずにはいられなかった。


エステルは、一拍置いて言った。


「本日中に、北部へ戻られるそうです」


リリアは、扇を握ったまま動けなかった。


さきほどまで、リリアは一つの文を言えずに困っていた。

ヴァルグレイ卿とは、そのような関係ではございません。

その一文は、まだ喉の奥に残っている。


王太子殿下の声も、令嬢たちの笑顔も、その瞬間だけ遠くなった。


(行ってしまわれるのですか)


北部方面騎士団長なのだから、当然だ。

魔獣群が出れば、あの方は北部へ向かう。


(分かっています。分かっております。王都の噂より、私の困惑より、北部の方々の命が先です。そんなことは、分かっているのです)


リリアは、そう思おうとした。


(嫌です)


声には出なかった。

けれど、はっきりと思った。


エステルは、何も言わなかった。


リリアは、扇を机に置いた。

「エステル。明後日発送分の中で、今夜、北部へ出せるものはありますか」

「第一便なら。倉庫番と仕立て係を起こします。奥様へのご報告は、私から」

「お願いします」


リリアは立ち上がった。

「雨天時の外装を、もう一度確認します。包帯と薬箱は、乾燥花から離してください。毛布の方には、香りの弱いものだけを。包み紐は、片手でほどける結び方に統一します」


エステルは、机の上の扇を見た。

「否定の練習は」


言えなかった言葉は、まだ喉の奥に残っている。

けれど今、先に口にするべき言葉は別にあった。


「後にします」


リリアは、作業机の上の白い手袋を取った。


「北部へ送る荷を、整えます」


婚約説は、否定できなかった。


でも、北部へ送る荷なら、今すぐ結べる。

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