氷の騎士団長は、婚約説より先に北部へ戻りました
王宮の北棟にある小会議室で、レオニス・ヴァルグレイは北部支援品の一覧に目を通していた。
雨天時の外装、包み紐、薬箱と乾燥花の分別、毛布へ添える香りの弱い花。
昨日、リリア・ルヴェリエが口にした確認事項が、王宮の書記によって簡潔な記録になっている。
文字だけになっても、細部の見方は変わらなかった。
現場で濡れるもの。
片手がふさがった兵にも扱えるもの。
傷病者の邪魔にならないもの。
王都の令嬢が、ただ美しい支援品を送ろうとしているのではない。
北部に届いた後のことまで見ている。
レオニスは、書類の端を指で押さえた。
(ルヴェリエ嬢の確認は、やはり現場で役に立つ)
そう思った時、廊下の向こうで足音が乱れた。
一人ではない。
硬い靴音が二つ。
軽い足音が一つ。
どちらも、王宮の礼儀を守る余裕を捨てている。
レオニスは顔を上げた。
扉の前で短い声がした。
「急報です」
次の瞬間、側近が扉を開けた。
王太子エリオットの許しを待たずに入室するなど、本来ならありえない。
だが、その手には赤い急報印の付いた筒が握られていた。
王太子の表情が変わった。
さきほどまで、王都で流れ始めた婚約説について、どう穏やかに扱うかを相談していた顔ではなくなった。
「読め」
側近が封を切った。
封蝋が割れる音が、小会議室にやけに大きく響いた。
「北部境界線付近に魔獣群。規模は調査中。前哨拠点二か所が警戒態勢に入り、民間荷馬車の通行を停止。軍用便および王宮支援便のみ、中継所まで通行許可。東見張り塔より黒煙。北部方面騎士団に即時対応要請」
誰も、すぐには息をしなかった。
黒煙。
それは、ただ魔獣を見たという知らせではない。
境界線の近くで、すでに何かが燃えたという知らせだった。
王太子が低く言う。
「被害は」
「詳細未着。ただし、東見張り塔からの定時報告が途絶えています」
「前哨拠点は」
「二か所とも警戒態勢。うち一つは避難民の受け入れを開始したとのことです」
会議室の空気が、音を立てずに冷えた。
北部で魔獣群が出た。
レオニスは、書類を閉じた。
「失礼いたします」
椅子から立ち上がる。
王太子がうなずいた。
「行け、ヴァルグレイ卿」
「ただちに北部へ戻ります」
王都の噂も、内々の確認も、今は脇に置く。
北部の境界線が動いた。
騎士団長が戻る。
レオニスは側近へ向けて、閉じた書類を差し出した。
「王宮支援便の第一便は、予定より早く動かせるか」
「確認いたします」
「薬箱を先に。香りの強いものが混ざらないよう、封を確認させろ。包帯は濡らすな」
「承知しました」
「街道は北門から中継所までを優先確保。雨が来る。外装の確認も急がせろ」
側近が一礼し、走るように部屋を出ていく。
王太子は、珍しく言葉を選んでいた。
「ヴァルグレイ卿」
「はい」
「リリアには」
その名が出た瞬間、レオニスの手が止まった。
リリア。
白百合令嬢。
北部支援の細部を見ていた人。
昨日、王宮で「私が確認したいのです」と言った人。
そして今、王都で自分の名と並べられ、噂に巻き込まれている人。
(会って、何を言う)
北部へ戻る。
魔獣群が出た。
東見張り塔の報告が途絶えた。
いつ帰れるか分からない。
それを、彼女に告げる立場に自分はあるのか。
婚約者ではない。
正式な打診もまだだ。
噂だけが先に走り、彼女の名を巻き込んでいる。
(行ってきます、などと言える立場ではない)
レオニスは、短く答えた。
「ルヴェリエ嬢には、王宮から正式な急報が届くはずです」
「それはそうだが」
「余計な心配をおかけするべきではありません」
正しい判断のはずだった。
それでも、レオニスは王太子の目を見返せなかった。
会えば、彼女は心配する。
そして自分は、その顔を覚えたまま北へ行くことになる。
そんな弱さを、今ここに置くわけにはいかなかった。
王太子は、レオニスをじっと見た。
「余計な心配、か」
レオニスは答えなかった。
王太子は責めなかった。
ただ、少しだけ眉を下げた。
「私の名案が、少し騒ぎを大きくしてしまったようだな」
「殿下のご配慮に、責められる点はございません」
「そう言うと思った。だが、リリアはたぶん困っているぞ」
「存じております」
レオニスの声は、そこでわずかに低くなった。
「戻りましたら、改めて場を設けます。ルヴェリエ嬢の名を、噂の中に置いたままにはいたしません」
王太子は目を細めた。
「ならば、まず戻れ。北部を守ってこい」
「御意」
レオニスは一礼し、会議室を出た。
廊下は、すでに別の場所になっていた。
文官が走る。
伝令がすれ違う。
北部方面騎士団の王都駐在兵が、外套を片手に呼び出されていく。
先ほどまで婚約説の扱いを相談していた王宮の空気は、もうどこにもなかった。
「団長」
王都駐在の副官が、曲がり角で待っていた。
「北門の騎馬、十騎まで即時出せます」
「六騎でいい。残りは後発の護衛に回せ」
「随行は」
「最低限。先行して状況を確認する。重装備は後発で送れ」
「補給は」
「街道沿いの中継倉庫を使う。王宮支援便は第一便が整い次第、北部第三拠点へ回せ」
「東見張り塔は」
「報告が途絶えたなら、まず生存確認だ。無理に奪還するな。避難路を開けることを優先する」
指示を出すたび、周囲の兵が散っていく。
レオニスは、歩く速度を落とさなかった。
「団長。ルヴェリエ侯爵家へは、別途お知らせを出しますか」
副官の声だけが、少し慎重になった。
レオニスは一瞬だけ黙った。
知らせるべきだ。
だが、何を。
王宮から急報は届く。
北部支援に関わる家として、ルヴェリエ家にも状況は伝わる。
そこに、自分個人からの言葉を添えれば、それはただの急報ではなくなる。
(彼女の負担を増やすな)
そう考えた。
考えたのに、別の言葉が残る。
(……会わずに行くのか)
副官が返事を待っている。
レオニスは、黒い手袋を引き締めた。
「王宮の正式伝達でよい」
「承知しました」
副官は下がった。
それでよい。
そう思うべきだった。
レオニスは歩き出しながら、昨日のリリアの声を思い出した。
私が確認したいのです。
柔らかい声だった。
けれど、ただ流されている声ではなかった。
北部の荷を、王都の綺麗な贈り物で終わらせない声だった。
彼女なら、ただ心配して終わる人ではない。
その声を思い出したからこそ、余計に会ってはならないと思った。
会えば、無事に戻ると約束したくなる。
だが、戦場へ向かう者が、軽く戻るとは言えない。
戻るために最善を尽くす。
それ以上の言葉を、まだ彼女に渡す資格はない。
王都の北門へ向かう馬車寄せで、レオニスは外套を受け取った。
冬に近い風が、石畳を低く吹き抜ける。
黒い外套の留め具を掛け、剣の位置を確かめる。
そこへ、王宮の側近が小さな包みを持って駆け寄ってきた。
「団長、こちらを。北部支援品一覧の写しです。ルヴェリエ侯爵家からの確認事項も追記されています」
「預かる」
レオニスは包みを受け取った。
紙の端に、書記の整った字で一文が加えられている。
包み紐は、片手でほどける結び方を推奨。
レオニスは、その文に視線を止めた。
昨日、王宮の小会議室でリリアが言っていたことだ。
片手が塞がっている兵にも、負担にならないように。
誰も、そんなところまで見ない。
けれど、彼女は見た。
北門の方で、騎馬のいななきが上がった。
急かすような声ではない。
北へ戻る声だった。
レオニスは、包みを外套の内側へ入れた。
「出る」
北門の開く音がした。
王都の中では、いまも誰かが噂をしているかもしれない。
白百合令嬢と氷の騎士団長。
内々の確認。
婚約説。
今は、という言葉。
だが、門の外へ一歩出れば、風の匂いが変わる。
北へ向かう道がある。
レオニスは馬に乗り、振り返らなかった。
◇
その頃、ルヴェリエ侯爵家では、支援品の倉庫に明かりが増えていた。
リリアは、白い手袋をはめたまま、作業台の上に並べられた荷を見ていた。
包帯。
薬箱。
毛布。
乾燥花の小袋。
雨避けの外装布。
本来なら明日の午前に確認するはずだったものが、今、夜の倉庫に並んでいる。
倉庫番は驚いていた。
仕立て係は眠そうな顔をしていた。
それでも、エステルが一言二言告げるだけで、皆すぐに動き始めた。
「お嬢様、第一便に乗せられる量はここまでです」
エステルが一覧を差し出す。
リリアは頷いた。
「薬箱と毛布は分けてください。乾燥花は毛布の箱へ。外装は二重に。結び目は、強くしすぎないでください」
「ルヴェリエ家第一便は、この形で統一いたします。王宮の支援便に合流できるよう、馬車も軍用中継へ回します」
「お願いします。ほどけなければ、現場で邪魔になります」
言いながら、リリアは自分で一つ結んだ。
細い紐を回し、引き、最後の結び目を少しだけ右へ寄せる。
昨日、慈善音楽会で結んだ小袋より、少し強く。
けれど、片手でもほどけるように。
(ヴァルグレイ卿なら、ほどけるでしょうか)
そう思って、リリアは手を止めた。
違う。
これはヴァルグレイ卿のためだけではない。
北部の兵のためだ。
負傷した誰かのためだ。
雨の中で荷を開ける誰かのためだ。
それでも、最初に浮かんだのは黒い手袋だった。
リリアは、結び目を見つめた。
(いけません。これは北部支援です。私情ではありません。私情ではありませんが、どうか、届いてください)
その時、門番からの伝言を受けた使用人が倉庫へ入ってきた。
「お嬢様。王宮より追加の知らせがございます」
リリアは顔を上げた。
「追加の知らせ?」
「ヴァルグレイ卿は、先ほど王都北門を出られたとのことです」
指先が、紐の上で止まった。
先ほど。
もう、出た。
会えなかった。
告げられなかった。
何を告げるつもりだったのかも分からないまま、レオニスは北部へ向かった。
(もう、行ってしまわれたのですね)
胸の中に浮かんだ言葉は、また声にならなかった。
リリアは、未完成の荷札を見た。
ヴァルグレイ卿へ。
そう書けば、私情になる。
北部方面騎士団へ。
そう書けば、支援になる。
リリアは筆を取った。
北部方面騎士団 第三拠点御中。
そこまで書いて、少しだけ筆先が止まる。
(ご無事で)
書けない。
荷札に書く言葉ではない。
リリアは、筆を置き、代わりに結び目をもう一度確かめた。
「エステル。この第一便を、今夜中に王宮の中継へ届けてください。王宮の支援便と合流できるなら、そのまま北部へ」
「手配いたします」
「それから、包み紐の結び方を、残りの荷にも同じように。ほどけにくく、けれど片手でほどけるように」
エステルは、リリアの手元を見てから静かに言った。
「お嬢様。ヴァルグレイ卿へ、何かお言葉は」
「ありません」
リリアは、すぐに答えた。
今度は早すぎなかった。
「今の私は、何かを言える立場ではありません。けれど、荷なら送れます」
エステルは、それ以上聞かなかった。
倉庫の外で、夜の馬車の支度が始まった。
車輪の音、馬の息、荷を積む低い声が続く。
リリアは、最後の包み紐に手をかけた。
婚約説は、まだ否定できない。
嬉しかったことも、行ってしまうのが嫌だったことも、まだ胸の中で名前を持たない。
けれど今夜、リリアが結べるものはあった。
ルヴェリエ家第一便の荷が、王宮の軍用中継へ向けて夜の門を出ていく。
レオニス・ヴァルグレイは、もう王都にいない。
けれど、リリアの結んだ紐だけが、彼の向かう先を追っていった。
◇
三日後。
王宮の中継伝令を経て、ルヴェリエ侯爵家へ北部第三拠点の受領報告が届いた。
ルヴェリエ家第一便は、届いた。
雨天外装、破損なし。
薬箱、濡れなし。
毛布、使用済み。
包帯、前線へ搬送済み。
リリアは、報告書の文字を一行ずつ追った。
夜の倉庫で整えたものが、北部で開かれた。
誰かが、使った。
誰かの手に、届いた。
それだけで、息をつけるはずだった。
けれど、報告書の最後には、別の一行があった。
北部方面騎士団長レオニス・ヴァルグレイ、前線指揮継続。
──帰還予定、未定。
部屋の中で、誰も声を出さなかった。
王都では、まだ婚約説が流れている。
けれどその日、リリアが何度読み返しても、報告書の最後の一行は変わらなかった。
──帰還予定、未定。




