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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第2章 婚約説編

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17/24

氷の騎士団長は、婚約説より先に北部へ戻りました

王宮の北棟にある小会議室で、レオニス・ヴァルグレイは北部支援品の一覧に目を通していた。


雨天時の外装、包み紐、薬箱と乾燥花の分別、毛布へ添える香りの弱い花。


昨日、リリア・ルヴェリエが口にした確認事項が、王宮の書記によって簡潔な記録になっている。


文字だけになっても、細部の見方は変わらなかった。


現場で濡れるもの。

片手がふさがった兵にも扱えるもの。

傷病者の邪魔にならないもの。


王都の令嬢が、ただ美しい支援品を送ろうとしているのではない。

北部に届いた後のことまで見ている。


レオニスは、書類の端を指で押さえた。


(ルヴェリエ嬢の確認は、やはり現場で役に立つ)


そう思った時、廊下の向こうで足音が乱れた。


一人ではない。


硬い靴音が二つ。

軽い足音が一つ。

どちらも、王宮の礼儀を守る余裕を捨てている。


レオニスは顔を上げた。


扉の前で短い声がした。


「急報です」


次の瞬間、側近が扉を開けた。


王太子エリオットの許しを待たずに入室するなど、本来ならありえない。

だが、その手には赤い急報印の付いた筒が握られていた。


王太子の表情が変わった。


さきほどまで、王都で流れ始めた婚約説について、どう穏やかに扱うかを相談していた顔ではなくなった。


「読め」


側近が封を切った。


封蝋が割れる音が、小会議室にやけに大きく響いた。


「北部境界線付近に魔獣群。規模は調査中。前哨拠点二か所が警戒態勢に入り、民間荷馬車の通行を停止。軍用便および王宮支援便のみ、中継所まで通行許可。東見張り塔より黒煙。北部方面騎士団に即時対応要請」


誰も、すぐには息をしなかった。


黒煙。


それは、ただ魔獣を見たという知らせではない。

境界線の近くで、すでに何かが燃えたという知らせだった。


王太子が低く言う。


「被害は」

「詳細未着。ただし、東見張り塔からの定時報告が途絶えています」

「前哨拠点は」

「二か所とも警戒態勢。うち一つは避難民の受け入れを開始したとのことです」


会議室の空気が、音を立てずに冷えた。


北部で魔獣群が出た。


レオニスは、書類を閉じた。


「失礼いたします」


椅子から立ち上がる。


王太子がうなずいた。


「行け、ヴァルグレイ卿」

「ただちに北部へ戻ります」


王都の噂も、内々の確認も、今は脇に置く。


北部の境界線が動いた。

騎士団長が戻る。


レオニスは側近へ向けて、閉じた書類を差し出した。


「王宮支援便の第一便は、予定より早く動かせるか」

「確認いたします」

「薬箱を先に。香りの強いものが混ざらないよう、封を確認させろ。包帯は濡らすな」

「承知しました」

「街道は北門から中継所までを優先確保。雨が来る。外装の確認も急がせろ」


側近が一礼し、走るように部屋を出ていく。


王太子は、珍しく言葉を選んでいた。


「ヴァルグレイ卿」

「はい」

「リリアには」


その名が出た瞬間、レオニスの手が止まった。


リリア。


白百合令嬢。

北部支援の細部を見ていた人。

昨日、王宮で「私が確認したいのです」と言った人。


そして今、王都で自分の名と並べられ、噂に巻き込まれている人。


(会って、何を言う)


北部へ戻る。

魔獣群が出た。

東見張り塔の報告が途絶えた。

いつ帰れるか分からない。


それを、彼女に告げる立場に自分はあるのか。


婚約者ではない。

正式な打診もまだだ。

噂だけが先に走り、彼女の名を巻き込んでいる。


(行ってきます、などと言える立場ではない)


レオニスは、短く答えた。


「ルヴェリエ嬢には、王宮から正式な急報が届くはずです」

「それはそうだが」

「余計な心配をおかけするべきではありません」


正しい判断のはずだった。


それでも、レオニスは王太子の目を見返せなかった。


会えば、彼女は心配する。

そして自分は、その顔を覚えたまま北へ行くことになる。


そんな弱さを、今ここに置くわけにはいかなかった。


王太子は、レオニスをじっと見た。


「余計な心配、か」


レオニスは答えなかった。


王太子は責めなかった。

ただ、少しだけ眉を下げた。


「私の名案が、少し騒ぎを大きくしてしまったようだな」

「殿下のご配慮に、責められる点はございません」

「そう言うと思った。だが、リリアはたぶん困っているぞ」

「存じております」


レオニスの声は、そこでわずかに低くなった。


「戻りましたら、改めて場を設けます。ルヴェリエ嬢の名を、噂の中に置いたままにはいたしません」


王太子は目を細めた。


「ならば、まず戻れ。北部を守ってこい」

「御意」


レオニスは一礼し、会議室を出た。


廊下は、すでに別の場所になっていた。


文官が走る。

伝令がすれ違う。

北部方面騎士団の王都駐在兵が、外套を片手に呼び出されていく。


先ほどまで婚約説の扱いを相談していた王宮の空気は、もうどこにもなかった。


「団長」


王都駐在の副官が、曲がり角で待っていた。


「北門の騎馬、十騎まで即時出せます」

「六騎でいい。残りは後発の護衛に回せ」

「随行は」

「最低限。先行して状況を確認する。重装備は後発で送れ」

「補給は」

「街道沿いの中継倉庫を使う。王宮支援便は第一便が整い次第、北部第三拠点へ回せ」

「東見張り塔は」

「報告が途絶えたなら、まず生存確認だ。無理に奪還するな。避難路を開けることを優先する」


指示を出すたび、周囲の兵が散っていく。


レオニスは、歩く速度を落とさなかった。


「団長。ルヴェリエ侯爵家へは、別途お知らせを出しますか」


副官の声だけが、少し慎重になった。


レオニスは一瞬だけ黙った。


知らせるべきだ。

だが、何を。


王宮から急報は届く。

北部支援に関わる家として、ルヴェリエ家にも状況は伝わる。


そこに、自分個人からの言葉を添えれば、それはただの急報ではなくなる。


(彼女の負担を増やすな)


そう考えた。


考えたのに、別の言葉が残る。


(……会わずに行くのか)


副官が返事を待っている。


レオニスは、黒い手袋を引き締めた。


「王宮の正式伝達でよい」

「承知しました」


副官は下がった。


それでよい。


そう思うべきだった。


レオニスは歩き出しながら、昨日のリリアの声を思い出した。


私が確認したいのです。


柔らかい声だった。

けれど、ただ流されている声ではなかった。

北部の荷を、王都の綺麗な贈り物で終わらせない声だった。


彼女なら、ただ心配して終わる人ではない。


その声を思い出したからこそ、余計に会ってはならないと思った。


会えば、無事に戻ると約束したくなる。

だが、戦場へ向かう者が、軽く戻るとは言えない。


戻るために最善を尽くす。


それ以上の言葉を、まだ彼女に渡す資格はない。


王都の北門へ向かう馬車寄せで、レオニスは外套を受け取った。


冬に近い風が、石畳を低く吹き抜ける。

黒い外套の留め具を掛け、剣の位置を確かめる。


そこへ、王宮の側近が小さな包みを持って駆け寄ってきた。


「団長、こちらを。北部支援品一覧の写しです。ルヴェリエ侯爵家からの確認事項も追記されています」

「預かる」


レオニスは包みを受け取った。


紙の端に、書記の整った字で一文が加えられている。


包み紐は、片手でほどける結び方を推奨。


レオニスは、その文に視線を止めた。


昨日、王宮の小会議室でリリアが言っていたことだ。


片手が塞がっている兵にも、負担にならないように。


誰も、そんなところまで見ない。

けれど、彼女は見た。


北門の方で、騎馬のいななきが上がった。


急かすような声ではない。

北へ戻る声だった。


レオニスは、包みを外套の内側へ入れた。


「出る」


北門の開く音がした。


王都の中では、いまも誰かが噂をしているかもしれない。

白百合令嬢と氷の騎士団長。

内々の確認。

婚約説。

今は、という言葉。


だが、門の外へ一歩出れば、風の匂いが変わる。


北へ向かう道がある。


レオニスは馬に乗り、振り返らなかった。



その頃、ルヴェリエ侯爵家では、支援品の倉庫に明かりが増えていた。


リリアは、白い手袋をはめたまま、作業台の上に並べられた荷を見ていた。


包帯。

薬箱。

毛布。

乾燥花の小袋。

雨避けの外装布。


本来なら明日の午前に確認するはずだったものが、今、夜の倉庫に並んでいる。


倉庫番は驚いていた。

仕立て係は眠そうな顔をしていた。

それでも、エステルが一言二言告げるだけで、皆すぐに動き始めた。


「お嬢様、第一便に乗せられる量はここまでです」


エステルが一覧を差し出す。


リリアは頷いた。


「薬箱と毛布は分けてください。乾燥花は毛布の箱へ。外装は二重に。結び目は、強くしすぎないでください」

「ルヴェリエ家第一便は、この形で統一いたします。王宮の支援便に合流できるよう、馬車も軍用中継へ回します」

「お願いします。ほどけなければ、現場で邪魔になります」


言いながら、リリアは自分で一つ結んだ。


細い紐を回し、引き、最後の結び目を少しだけ右へ寄せる。

昨日、慈善音楽会で結んだ小袋より、少し強く。

けれど、片手でもほどけるように。


(ヴァルグレイ卿なら、ほどけるでしょうか)


そう思って、リリアは手を止めた。


違う。

これはヴァルグレイ卿のためだけではない。

北部の兵のためだ。

負傷した誰かのためだ。

雨の中で荷を開ける誰かのためだ。


それでも、最初に浮かんだのは黒い手袋だった。


リリアは、結び目を見つめた。


(いけません。これは北部支援です。私情ではありません。私情ではありませんが、どうか、届いてください)


その時、門番からの伝言を受けた使用人が倉庫へ入ってきた。


「お嬢様。王宮より追加の知らせがございます」


リリアは顔を上げた。


「追加の知らせ?」

「ヴァルグレイ卿は、先ほど王都北門を出られたとのことです」


指先が、紐の上で止まった。


先ほど。


もう、出た。


会えなかった。

告げられなかった。

何を告げるつもりだったのかも分からないまま、レオニスは北部へ向かった。


(もう、行ってしまわれたのですね)


胸の中に浮かんだ言葉は、また声にならなかった。


リリアは、未完成の荷札を見た。


ヴァルグレイ卿へ。


そう書けば、私情になる。


北部方面騎士団へ。


そう書けば、支援になる。


リリアは筆を取った。


北部方面騎士団 第三拠点御中。


そこまで書いて、少しだけ筆先が止まる。


(ご無事で)


書けない。

荷札に書く言葉ではない。


リリアは、筆を置き、代わりに結び目をもう一度確かめた。


「エステル。この第一便を、今夜中に王宮の中継へ届けてください。王宮の支援便と合流できるなら、そのまま北部へ」

「手配いたします」

「それから、包み紐の結び方を、残りの荷にも同じように。ほどけにくく、けれど片手でほどけるように」


エステルは、リリアの手元を見てから静かに言った。


「お嬢様。ヴァルグレイ卿へ、何かお言葉は」

「ありません」


リリアは、すぐに答えた。


今度は早すぎなかった。


「今の私は、何かを言える立場ではありません。けれど、荷なら送れます」


エステルは、それ以上聞かなかった。


倉庫の外で、夜の馬車の支度が始まった。

車輪の音、馬の息、荷を積む低い声が続く。


リリアは、最後の包み紐に手をかけた。


婚約説は、まだ否定できない。

嬉しかったことも、行ってしまうのが嫌だったことも、まだ胸の中で名前を持たない。


けれど今夜、リリアが結べるものはあった。


ルヴェリエ家第一便の荷が、王宮の軍用中継へ向けて夜の門を出ていく。


レオニス・ヴァルグレイは、もう王都にいない。


けれど、リリアの結んだ紐だけが、彼の向かう先を追っていった。



三日後。


王宮の中継伝令を経て、ルヴェリエ侯爵家へ北部第三拠点の受領報告が届いた。


ルヴェリエ家第一便は、届いた。


雨天外装、破損なし。

薬箱、濡れなし。

毛布、使用済み。

包帯、前線へ搬送済み。


リリアは、報告書の文字を一行ずつ追った。


夜の倉庫で整えたものが、北部で開かれた。

誰かが、使った。

誰かの手に、届いた。


それだけで、息をつけるはずだった。


けれど、報告書の最後には、別の一行があった。


北部方面騎士団長レオニス・ヴァルグレイ、前線指揮継続。


──帰還予定、未定。


部屋の中で、誰も声を出さなかった。


王都では、まだ婚約説が流れている。


けれどその日、リリアが何度読み返しても、報告書の最後の一行は変わらなかった。


──帰還予定、未定。

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