氷の騎士団長は、白百合を北部へ近づけない
カン、カン、カン――!!
北部急報から、四日目の夕刻。
王都へ「帰還予定、未定」の報告を返したあとも、北部第三拠点の鐘は鳴りやまなかった。
雨を吸った鐘の音は低い。
濡れた鉄を叩く音が、石壁の奥まで沈んでいく。
レオニス・ヴァルグレイは、第三拠点の臨時指揮所にいた。
机には、北部東側の地図が広げられている。
東見張り塔。
第二防柵。
南の避難路。
治療所。
補給馬車の退避路。
赤い駒は、朝より二つ増えていた。
青い駒は、じりじりと西へ下がっている。
扉の外では、兵の足音が途切れない。
負傷者が治療所へ運ばれる。
避難民が倉庫脇の雨除けへ入れられる。
泥に沈んだ荷車を、兵が肩で押している。
屋根の下には、白い荷札のついた空箱が寄せられていた。
ルヴェリエ侯爵家第一便。
薬箱は治療所へ入った。
包帯は前線へ半数が運ばれた。
毛布は避難民と負傷兵へ回された。
雨天外装に破損はない。
乾燥花は薬箱に混じっていない。
包帯は十本ずつ分けられていた。
大きく何かを変えたわけではない。
少し濡れにくい。
少し開けやすい。
少し迷わず分けられる。
北部では、その少しが遅れを減らす。
副官クライヴが、油紙に挟んだ使用記録を机へ置いた。
「ルヴェリエ侯爵家第一便、使用記録です」
レオニスは目を通した。
薬箱、治療所へ搬入済み。
包帯、前線へ半数搬送済み。
毛布、避難民および負傷兵へ配布開始。
雨天外装、破損なし。
乾燥花、薬箱への混入なし。
最後の一行で、指が止まる。
乾燥花、薬箱への混入なし。
(……そこまで見ていたのか)
香りのあるものが、傷病者の呼吸を邪魔しない。
王都で彼女が気にしたことが、ここでひとつ事故を減らしている。
レオニスは、王都で初めて会った日のことを思い出した。
白い手袋。
静かな礼。
人の目を荒立てない声。
王都の庭に咲く、白百合のような令嬢。
(想像通りだった)
北部の泥から遠い人だと思った。
血の匂いも、濡れた毛布の重さも、彼女の世界には届かないものだと思っていた。
だから、近づけてはならないと思った。
北部の名を持つ男が、王都の白百合のそばに立つべきではない。
彼女の世界へ、血と泥の匂いを持ち込むべきではない。
そう決めていれば、楽だった。
けれど、違った。
リリアは荷の外装を見た。
薬箱と乾燥花を分けた。
包帯の束を見た。
雨のあと、誰がどの手で箱を開けるのかまで考えていた。
(白百合は、飾られている花ではなかった)
荷札の先にある泥まで、見ようとしている。
だから怖い。
ここへ来れば、彼女は見る。
泥を見る。
血を見る。
足りない薬箱を見る。
凍えた子どもの手を見る。
戻らない者の名を見る。
それでも、目を逸らさない。
そういう人だと、もう知ってしまった。
カン、カン、カン。
短い鐘が鳴った。
クライヴが新しい報告板を地図の上へ置く。
「東側です。第二防柵、後退。突破ではありません。ですが、小型が南の避難路へ回っています」
レオニスは地図の南側へ視線を落とした。
「治療所周辺にも出ています。薬草箱を動かした直後です。温めた毛布を出した時も、動きが変わったと報告がありました」
指揮所の空気が重くなる。
普通の魔獣なら、血へ向かう。
人へ向かう。
馬へ向かう。
だが、今回は違う。
治療所。
避難路。
補給馬車。
薬草箱。
魔石。
毛布。
北部を支えるものから、噛み切ろうとしている。
第三拠点は、もう安全な後方ではなかった。
「非戦闘員の退避を早める」
レオニスは、地図の南側へ駒を動かした。
「第二防柵は捨てる。兵を残すな。南の道は避難民専用にしろ。補給馬車は西へ回せ。ぬかるみでも構わない」
クライヴが扉の外へ合図を送る。
レオニスは、治療所の印へ目を移した。
「火は増やせ。ただし薬草箱から離す。魔石は三つに分けろ。温める毛布は半分でいい」
命令はすぐに下へ流れた。
外で荷馬車の向きが変わる。
治療所前の箱が分けられる。
温められていた毛布の半分が火から離される。
雨除けの下にいた避難民が、さらに奥の中継所へ送られていく。
民間人を入れるどころではない。
今いる者を、下げなければならなかった。
そこへ、書記兵が王宮中継の封を持って入ってきた。
封を開いたのはクライヴだった。
彼は文面を素早く読み、必要なところだけを拾った。
「王都側から照会です。支援団体と各貴族家の支援責任者について、後方拠点での現地確認を認められるか、確認が来ています」
レオニスは顔を上げた。
「民間人の現場入りか」
「はい。目的は、混載防止、仕分け確認、破損確認。場所は第三拠点、または周辺中継所です」
リリアの名は出ていない。
ルヴェリエ家の名もない。
ただの事務照会だった。
支援団体。
貴族家支援責任者。
後方拠点。
現地確認。
この状況であれば、答えは決まっている。
第三拠点は、後方ではなくなりつつある。
治療所周辺にも魔獣が出た。
南の避難路も裂かれている。
補給馬車の退避路にも影がある。
非戦闘員の退避を始めている。
民間人を入れる余地はない。
「不可だ」
レオニスは言った。
クライヴは、すぐに頷いた。
「民間支援関係者すべて、ですね」
「すべてだ。支援品は中継所まで。以後は騎士団で引き受ける」
軍務として、それ以外の答えはなかった。
それなのに。
レオニスの脳裏には、白い手袋が浮かんだ。
(ルヴェリエ嬢も同じだ)
民間人を入れる余地はない。
ルヴェリエ嬢だけを例外にはできない。
分かっている。
分かっているのに、ペンを取る手が一瞬だけ止まった。
彼女なら、来ようとするかもしれない。
雨天外装は足りたのか。
薬箱は濡れなかったのか。
毛布は、先に必要な者へ回ったのか。
王都で控えを読み、次の荷を考え、そして言う。
確認が必要です、と。
(だから、なおさら駄目だ)
レオニスはペンを取った。
王都への軍務回答。
支援団体への制限。
北部方面騎士団長としての判断。
そうでなければならなかった。
北部第三拠点および周辺後方区画は、現在、民間人の安全を保証できる状態にない。
すでに非戦闘員の退避を開始している。
当面、民間人および非軍属支援関係者の立ち入りは一律認めない。
支援品は指定中継所まで搬入。以後の確認、仕分け、配布は北部方面騎士団が引き受ける。
ペン先が止まる。
正しい。
第三拠点は危険だ。
後方区画も危険だ。
魔獣は前線だけを見ていない。
治療所も、避難路も、補給も、支援品も狙われている。
だから、民間人は入れない。
正しい。
それでも、通達の一文が重かった。
民間人および非軍属支援関係者の立ち入りは一律認めない。
その中に、リリア・ルヴェリエも入る。
レオニスは署名を入れた。
レオニス・ヴァルグレイ。
カン、カン、カン――!!
署名を書き終えた瞬間、外で鐘が鳴った。
今度の音は近い。
石壁を震わせ、机の上の水滴を細かく揺らした。
東側の、さらなる後退を告げる音だった。
クライヴが扉を開ける。
「東側、さらに下がります」
レオニスは立ち上がった。
机の上に、まだ乾ききらない通達が残っている。
文書には、リリアの名はない。
ただ、軍務として民間人を禁じただけだ。
それだけのことだった。
それだけのことが、胸の奥に残った。
雨の匂い。
泥の匂い。
薬草の匂い。
血の匂い。
そのすべてを背にして、レオニスは指揮所を出た。
通達は、その日のうちに王宮中継へ送られた。




