白百合令嬢は、氷の騎士団長の手を取りました
あの日、白い縄の向こうでレオニスが治療幕屋へ入ってから、季節がひとつ変わった。
北部第三拠点を襲った魔獣群は、王都中央騎士団と北部方面騎士団の合同討伐によって鎮圧された。
東森道の封鎖は解かれた。
南方退避路には、また荷車が通るようになった。
第三拠点の外壁には、まだ補修の跡が残っている。
けれど、王宮軍務局から届く報告書には、もう「所在不明」という文字はない。
ルヴェリエ侯爵家の支援室には、今日も北部方面騎士団からの受領報告が届いていた。
毛布、第三拠点へ搬入済み。
薬箱、治療幕屋へ配布済み。
火起こし用、南方退避路の臨時宿営地にて使用。
リリア・ルヴェリエは、その一枚一枚に目を通していた。
以前なら、北部からの封を開けるたびに、指先が少しだけ強ばった。
どこかに、またあの文字があるのではないかと思った。
帰還予定、未定。
以後、所在不明。
けれど今は違う。
リリアは報告書の最後まで読み、静かに息を吐いた。
行方不明、なし。
その文字を見つけるたびに、胸の奥で何かがほどける。
「お嬢様」
エステルが扉のそばで声をかけた。
「ヴァルグレイ卿がお見えです」
リリアの手が止まった。
筆先から、墨が一滴だけ落ちそうになる。
慌てて筆を上げると、エステルがそっと報告書をずらした。
「……本日、でしたか」
「はい。本日です」
エステルの返事は静かだった。
けれど、その目は少しだけ笑っている。
リリアは立ち上がった。
鏡を見に行く時間はない。
髪は乱れていないはず。
手袋は白。
花飾りは、小さなものを一つだけ。
(落ち着いてください、リリア・ルヴェリエ)
(今日は北部支援の報告確認の日です。そうです。ただのご来訪です。ええ。ただの。ヴァルグレイ卿が、我が家に、正式に、いらしているだけで)
そこで、リリアは考えるのをやめた。
考えれば考えるほど、歩き方が分からなくなる。
応接室へ向かう廊下は、いつもより長く感じた。
白い壁も、磨かれた床も、王都の穏やかな昼の光も、あの日の指定中継所とはまるで違う。
泥もない。
雨もない。
白い縄もない。
それなのに、扉の前で足が止まりかけた。
エステルが、そっと扉を開ける。
「リリア様をお連れしました」
レオニス・ヴァルグレイは、立って待っていた。
北部の泥は、もうどこにもない。
黒い正装。
銀の留め具。
きちんと整えられた髪。
左腕も、外から見ればほとんど分からない。
けれど、リリアには分かった。
礼をする時、左手の動きだけが、ほんの少し遅れる。
あの日、赤くにじんでいた止血布を思い出す。
「リリア嬢」
レオニスが礼をした。
「ヴァルグレイ卿」
リリアも礼を返す。
顔を上げた時、先に目に入ったのは、彼の右手だった。
黒い手袋。
以前のものではない。
革は新しく、形も崩れていない。
けれど、手の甲の端に、銀灰色の小さな百合があった。
リリアは、言葉を忘れた。
「……また、百合が」
小さな声だった。
レオニスは自分の右手を見る。
「前のものは、修繕に出しています」
「あの、では、これは」
「新しく仕立てました」
「なぜ、同じところに」
問いかけてから、リリアは少しだけ後悔した。
聞かなくてもよいことだったかもしれない。
けれど、もう声は出てしまった。
レオニスは、まっすぐ答えた。
「あの場所が、一番守られていたので」
リリアは、白い手袋の指先を握った。
北部の泥の中で残っていた百合が、今もそこにあった。
「ルヴェリエ侯爵には、先にお許しをいただきました」
レオニスが言った。
リリアはまばたきをした。
「父に、ですか」
「はい」
(父上)
(お許し)
(何のお許しでしょうか)
答えは、もう目の前にあった。
けれど、心の準備が追いつかない。
レオニスが一歩近づいた。
「リリア・ルヴェリエ嬢」
名前を呼ばれただけで、指先が熱くなる。
レオニスは、黒い手袋の右手を胸に当てた。
「どうか、私と婚約していただけますか」
リリアは、返事の仕方を忘れた。
窓の外では、王都の午後がいつも通りに明るかった。
けれど、リリアの中だけが、ひっくり返っていた。
(婚約)
(いま、婚約とおっしゃいましたか)
(いえ、聞き間違いではありません。ヴァルグレイ卿は確かに、私と婚約していただけますか、とおっしゃいました。私と。婚約。私と。婚約)
(落ち着いてください、リリア・ルヴェリエ。ここは応接室です。床に膝をつく場所ではありません。叫ぶ場所でもありません。父上は許可済み。つまり、これは不意打ちでありながら正式。正式でありながら不意打ち。いえ、正式なら不意打ちではないのでしょうか。どちらですか。分かりません。いま何を考えても、婚約という二文字に戻ってきます)
(噂ではなく)
(社交界の勝手な話でもなく)
(王太子殿下の善意の暴走でもなく)
(ご本人の口から)
(ヴァルグレイ卿が、私に)
(私に、です)
(どうしましょう)
(うれしい)
(うれしい、です)
リリアは口を開いた。
「わ、わたくしで、ご迷惑では――」
「迷惑なら、ここには来ません」
レオニスの返事は早かった。
リリアは言葉を失った。
黒い手袋。
銀灰色の百合。
静かな灰青の目。
「あなたと、これから先を歩きたい」
短い言葉だった。
飾りもない。
甘い言い回しでもない。
リリアは、白い手袋の指先を握った。
逃げるための言葉が、そこで止まった。
あの日、二人の間には白い縄があった。
今、リリアの前にあるのは、差し出せる自分の手だけだった。
リリアは、その手を見た。
白い手袋。
震えている。
それでも、隠さなかった。
顔を上げる。
「はい」
一言目は、思ったより小さかった。
けれど、ちゃんと声になった。
「私も、あなたと同じ場所に立ちたいです」
レオニスの目が、わずかに見開かれた。
リリアは、自分から右手を差し出した。
少し怖かった。
けれど、手を引かなかった。
レオニスは、その手を見た。
それから、黒い手袋の右手を差し出す。
手の甲の端に、銀灰色の小さな百合がある。
リリアの白い手袋を、レオニスの黒い手袋がそっと包んだ。
強すぎない。
けれど、離さないと分かる力だった。
「よろしくお願いいたします」
リリアが言うと、レオニスは静かに頷いた。
「こちらこそ」
短い返事だった。
応接室の扉の向こうで、エステルが小さく息をついた気配がした。
たぶん、笑っている。
リリアも少しだけ笑った。
その時、廊下の向こうから、聞き慣れた明るい声がした。
「いやあ、間に合ってよかった!」
リリアの笑みが固まった。
エステルが扉の外で、珍しく何も言わない。
次の瞬間、扉が開いた。
王太子エリオットが、両手に白百合の花束を抱えて立っていた。
「リリア嬢、ヴァルグレイ卿。婚約、おめでとう!」
リリアは、レオニスの手を握ったまま、まばたきをした。
「……王太子殿下」
「正式発表前に来てしまってすまない。だが、どうしても直接祝いたくてね」
エリオットは満面の笑みで花束を差し出した。
「やはり、お二人は大変よくお似合いだと思っていたんだ」
リリアは白い手袋の指先に力を入れた。
(王太子殿下)
(善意・・・)
(本当に、最初から最後まで、善意)
レオニスは、しばらく黙っていた。
「……殿下」
「なんだい、ヴァルグレイ卿」
「まだ、ルヴェリエ侯爵家内での話です」
「もちろん分かっている」
エリオットは、少しも分かっていない顔で頷いた。
「だから、王宮にはまだ言っていない。私が来ただけだ」
リリアは、危うく花束ではなく自分の額を押さえそうになった。
レオニスの黒い手袋が、リリアの手を包んだまま、ほんの少しだけ力を込めた。
リリアはその力に気づいて、笑ってしまった。
王都では、また噂になるだろう。
けれど、もう構わなかった。
リリアは、レオニスの手を握り返した。
今度は、噂ではなかった。




