氷の騎士団長は、白百合を見つけました
「団長の隊より伝令! 東森道より帰還中です!」
雨の中で、その声だけが通った。
リリアは、白い縄の内側で荷札を握っていた。
足が一歩、前に出かける。
白い縄が、目に入った。
越えない。
リリアは、その場に立ち直した。
泥の道を走ってきた騎士は、隊列長の前で膝をついた。
外套は泥を吸い、肩には枝で裂けた跡がある。
「報告を」
隊列長が言った。
伝令の騎士は、濡れた手で胸の書付を押さえた。
「別働隊生存。東森道より帰還中。避難民の南方退避、成功。負傷者三名。行方不明なし」
行方不明なし。
荷札の端が、少し曲がった。
所在不明。
帰還予定、未定。
その次に来た言葉が、行方不明なし。
「団長は」
隊列長が確認した。
「ご健在です。負傷者を連れて、後方から戻られます。日没前後には」
ご健在。
リリアは、その言葉を胸の奥で繰り返した。
けれど、まだ笑えなかった。
まだ、会えていない。
「治療幕屋を空けろ。負傷者搬送用の馬車を東側へ。薬箱、毛布、湯を用意。支援関係者は待機場所から出るな」
指定中継所が、一気に動いた。
リリアは支援一覧を開く。
「第三拠点向けの厚手毛布を、治療幕屋へ回してください。薬箱は赤印のうち、包帯が多いものを先に。火起こし用は黒印を、湯のそばへ」
文官が頷いた。
「助かります」
リリアは、ようやく息をした。
探しに行くことはできない。
駆け寄ることもできない。
それでも、ここでできることはある。
リリアは、白い縄の内側で荷札を書き直した。
治療幕屋。
東側搬入口。
帰還者用。
夕方に向けて、雨は細くなった。
東側の搬入口には板が敷かれ、担架と毛布が並ぶ。
リリアは、控え机のそばに立っていた。
隣にはエステルがいる。
「座られますか」
「いいえ」
座れば、立ち上がれなくなる気がした。
「ここで待ちます」
日が落ちかけたころ、東側の見張りが声を上げた。
「帰還隊!」
空気が変わった。
騎士たちが走る。
文官が帳面を開く。
治療幕屋の布が、大きく上げられる。
最初に見えたのは、泥だった。
泥に濡れた外套。
足を引きずる騎士。
肩を借りて歩く騎士。
それでも、自分の足で進もうとする者たち。
「負傷者を先に」
低い声がした。
リリアの指が、荷札を折りそうになった。
その声を、知っている。
泥の中から、レオニス・ヴァルグレイが歩いてきた。
黒い外套は泥で重く、裾は裂けている。
左腕には、何度も巻き直した跡のある止血布。
頬には乾いた血と雨の跡。
それでも、レオニスは自分の足で立っていた。
「負傷者三名。治療幕屋へ」
レオニスは、まだリリアを見ていなかった。
まず部下を見ていた。
「クライヴ、脚の者を先に寝かせろ。薬箱は赤印のものを使え。厚手毛布を回せ」
「すでに準備されています」
クライヴが答えた。
レオニスの目が、そこで動いた。
白い縄の内側。
控え机。
灰色の手袋。
荷札を握るリリア。
命令が、一拍だけ遅れた。
「……なぜ」
声は低かった。
「なぜ、ここに」
隊列長が一歩前へ出かけた。
リリアは、その前に答えた。
「指定中継所までです。父にも、隊列長にも、そう約束しました」
レオニスは白い縄を見た。
それから、リリアの足元を見る。
リリアは、一歩も越えていない。
レオニスは何かを言いかけた。
けれど、先に隊列長へ向き直った。
「東森道別働隊、帰還。避難民の南方退避、完了。負傷者三名。行方不明、なし」
隊列長が頷く。
「受領した。詳細は後でよい。団長も治療を」
「負傷者を先に」
「それはもう動いている。団長もだ」
レオニスは答えようとした。
けれど、その前に、左足が半歩だけ沈んだ。
泥のせいではなかった。
クライヴがすぐに腕を伸ばす。
レオニスはそれを右手で制した。
「問題ない」
その声は低く、乱れてはいなかった。
けれど、左腕の止血布から、雨とは違う赤が落ちた。
リリアは、白い縄に手をかけていた。
「レオニス様」
呼んでから、自分で息を止めた。
レオニスも、止まった。
荷車の音も、文官の声も、遠くなった気がした。
リリアは白い縄を越えていない。
ただ、両手で縄を握っている。
灰色の手袋が、白い縄に食い込んでいた。
レオニスは、ゆっくりとリリアを見た。
「……その名で」
言いかけて、やめた。
リリアの頬に、涙が一粒落ちた。
慌てて拭おうとして、できなかった。
手は、まだ白い縄を握っていた。
「すみません」
声がうまく出なかった。
「でも、今は、そう呼ばせてください」
レオニスの右手が、わずかに動いた。
黒い手袋。
泥のついた指先。
手の甲の端に残る、銀灰色の小さな百合。
けれど、レオニスは白い縄を越えなかった。
「……越えては、いないのですね」
「はい」
リリアは涙を拭かなかった。
「約束しました」
レオニスは、少しだけ目を伏せた。
「なら、いい」
それだけだった。
叱られなかった。
帰れとも言われなかった。
ただ、その声が思っていたより静かで、リリアは返事を忘れた。
隊列長が、低く咳払いをした。
「団長。治療を」
「負傷者は」
「もう入っている」
クライヴが言った。
「団長もです」
レオニスは短く息を吐いた。
それから、白い縄の向こうにいるリリアへ視線を戻す。
泥だらけの外套。
血のにじむ左腕。
疲労の影が落ちた顔。
氷の騎士団長。
王都でそう呼ばれていた人は、綺麗な噂の中にはいなかった。
けれど、目をそらしたくなかった。
「ご無事で、よかったです」
声は小さくなった。
最後の「よかったです」だけが、うまく整わなかった。
「無事とは言い難い姿です」
「それでも」
リリアは、白い縄を見た。
指先が、少しだけ動く。
越えない。
「お戻りくださいました」
レオニスは答えなかった。
その目が、一度だけリリアの灰色の手袋に落ちる。
それから、自分の右手へ戻った。
リリアも、つられてそこを見た。
黒い手袋。
泥を吸って、革はくすんでいる。
手の甲の端が少し裂けていた。
それでも、銀灰色の小さな百合は残っていた。
「……使ってくださっていたのですね」
レオニスは、すぐには答えなかった。
雨が、裂けた革の上を滑る。
銀灰色の百合が、泥の中でかすかに見えた。
「約束しましたから」
リリアは、白い縄を握る手に力を込めた。
胸の奥が、痛い。
痛いのに、少しだけあたたかい。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらです」
レオニスは、治療幕屋へ運ばれていく青印の毛布を見た。
赤印の薬箱が開かれている。
湯のそばには、黒印の火起こし用が置かれていた。
「助けられました」
リリアは、ようやく白い縄から手を離した。
灰色の手袋の指先に、縄の跡が残っている。
「なら」
声が、少しだけ震えた。
「来て、よかったです」
レオニスがリリアを見る。
泥のついた外套。
血のにじむ左腕。
濡れた包帯。
リリアは、目をそらさなかった。
「……怖くは」
レオニスは、そこで言葉を切った。
「ありませんでしたか」
リリアは、すぐには答えられなかった。
泥の匂いがした。
血のにじむ布が見えた。
治療幕屋から、誰かのうめき声が聞こえた。
「怖いです」
小さく言うと、レオニスの目が揺れた。
「でも、知らないままでいる方が、いやでした」
レオニスは黙っていた。
黒い手袋の指が、またわずかに動く。
けれど、その手はリリアには届かない。
リリアも、手を伸ばさなかった。
隊列長が、今度ははっきりと言った。
「団長」
レオニスは目を伏せた。
「……治療を受けます」
クライヴが、ほとんど安堵したように肩を下げた。
レオニスが歩き出す。
治療幕屋へ向かう途中で、もう一度だけ振り返った。
白い縄の内側に、リリアが立っている。
白い花飾りはない。
灰色の手袋で、曲がった荷札を持っている。
レオニスは何も言わなかった。
リリアも、言えなかった。
銀灰色の小さな百合は、リリアの目の前にあった。
白い縄は、まだ二人の間にあった。




