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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第3章 北部編

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氷の騎士団長は、白百合を見つけました

「団長の隊より伝令! 東森道より帰還中です!」


雨の中で、その声だけが通った。


リリアは、白い縄の内側で荷札を握っていた。

足が一歩、前に出かける。


白い縄が、目に入った。


越えない。


リリアは、その場に立ち直した。


泥の道を走ってきた騎士は、隊列長の前で膝をついた。

外套は泥を吸い、肩には枝で裂けた跡がある。


「報告を」


隊列長が言った。


伝令の騎士は、濡れた手で胸の書付を押さえた。


「別働隊生存。東森道より帰還中。避難民の南方退避、成功。負傷者三名。行方不明なし」


行方不明なし。


荷札の端が、少し曲がった。


所在不明。

帰還予定、未定。


その次に来た言葉が、行方不明なし。


「団長は」


隊列長が確認した。


「ご健在です。負傷者を連れて、後方から戻られます。日没前後には」


ご健在。


リリアは、その言葉を胸の奥で繰り返した。

けれど、まだ笑えなかった。


まだ、会えていない。


「治療幕屋を空けろ。負傷者搬送用の馬車を東側へ。薬箱、毛布、湯を用意。支援関係者は待機場所から出るな」


指定中継所が、一気に動いた。


リリアは支援一覧を開く。


「第三拠点向けの厚手毛布を、治療幕屋へ回してください。薬箱は赤印のうち、包帯が多いものを先に。火起こし用は黒印を、湯のそばへ」


文官が頷いた。


「助かります」


リリアは、ようやく息をした。


探しに行くことはできない。

駆け寄ることもできない。


それでも、ここでできることはある。


リリアは、白い縄の内側で荷札を書き直した。


治療幕屋。

東側搬入口。

帰還者用。


夕方に向けて、雨は細くなった。

東側の搬入口には板が敷かれ、担架と毛布が並ぶ。


リリアは、控え机のそばに立っていた。

隣にはエステルがいる。


「座られますか」


「いいえ」


座れば、立ち上がれなくなる気がした。


「ここで待ちます」


日が落ちかけたころ、東側の見張りが声を上げた。


「帰還隊!」


空気が変わった。


騎士たちが走る。

文官が帳面を開く。

治療幕屋の布が、大きく上げられる。


最初に見えたのは、泥だった。


泥に濡れた外套。

足を引きずる騎士。

肩を借りて歩く騎士。

それでも、自分の足で進もうとする者たち。


「負傷者を先に」


低い声がした。


リリアの指が、荷札を折りそうになった。


その声を、知っている。


泥の中から、レオニス・ヴァルグレイが歩いてきた。


黒い外套は泥で重く、裾は裂けている。

左腕には、何度も巻き直した跡のある止血布。

頬には乾いた血と雨の跡。


それでも、レオニスは自分の足で立っていた。


「負傷者三名。治療幕屋へ」


レオニスは、まだリリアを見ていなかった。

まず部下を見ていた。


「クライヴ、脚の者を先に寝かせろ。薬箱は赤印のものを使え。厚手毛布を回せ」


「すでに準備されています」


クライヴが答えた。


レオニスの目が、そこで動いた。


白い縄の内側。

控え机。

灰色の手袋。

荷札を握るリリア。


命令が、一拍だけ遅れた。


「……なぜ」


声は低かった。


「なぜ、ここに」


隊列長が一歩前へ出かけた。

リリアは、その前に答えた。


「指定中継所までです。父にも、隊列長にも、そう約束しました」


レオニスは白い縄を見た。

それから、リリアの足元を見る。


リリアは、一歩も越えていない。


レオニスは何かを言いかけた。

けれど、先に隊列長へ向き直った。


「東森道別働隊、帰還。避難民の南方退避、完了。負傷者三名。行方不明、なし」


隊列長が頷く。


「受領した。詳細は後でよい。団長も治療を」


「負傷者を先に」


「それはもう動いている。団長もだ」


レオニスは答えようとした。


けれど、その前に、左足が半歩だけ沈んだ。


泥のせいではなかった。


クライヴがすぐに腕を伸ばす。

レオニスはそれを右手で制した。


「問題ない」


その声は低く、乱れてはいなかった。


けれど、左腕の止血布から、雨とは違う赤が落ちた。


リリアは、白い縄に手をかけていた。


「レオニス様」


呼んでから、自分で息を止めた。


レオニスも、止まった。


荷車の音も、文官の声も、遠くなった気がした。


リリアは白い縄を越えていない。

ただ、両手で縄を握っている。


灰色の手袋が、白い縄に食い込んでいた。


レオニスは、ゆっくりとリリアを見た。


「……その名で」


言いかけて、やめた。


リリアの頬に、涙が一粒落ちた。


慌てて拭おうとして、できなかった。

手は、まだ白い縄を握っていた。


「すみません」


声がうまく出なかった。


「でも、今は、そう呼ばせてください」


レオニスの右手が、わずかに動いた。


黒い手袋。

泥のついた指先。

手の甲の端に残る、銀灰色の小さな百合。


けれど、レオニスは白い縄を越えなかった。


「……越えては、いないのですね」


「はい」


リリアは涙を拭かなかった。


「約束しました」


レオニスは、少しだけ目を伏せた。


「なら、いい」


それだけだった。


叱られなかった。

帰れとも言われなかった。


ただ、その声が思っていたより静かで、リリアは返事を忘れた。


隊列長が、低く咳払いをした。


「団長。治療を」


「負傷者は」


「もう入っている」


クライヴが言った。


「団長もです」


レオニスは短く息を吐いた。

それから、白い縄の向こうにいるリリアへ視線を戻す。


泥だらけの外套。

血のにじむ左腕。

疲労の影が落ちた顔。


氷の騎士団長。


王都でそう呼ばれていた人は、綺麗な噂の中にはいなかった。


けれど、目をそらしたくなかった。


「ご無事で、よかったです」


声は小さくなった。

最後の「よかったです」だけが、うまく整わなかった。


「無事とは言い難い姿です」


「それでも」


リリアは、白い縄を見た。

指先が、少しだけ動く。


越えない。


「お戻りくださいました」


レオニスは答えなかった。


その目が、一度だけリリアの灰色の手袋に落ちる。

それから、自分の右手へ戻った。


リリアも、つられてそこを見た。


黒い手袋。


泥を吸って、革はくすんでいる。

手の甲の端が少し裂けていた。


それでも、銀灰色の小さな百合は残っていた。


「……使ってくださっていたのですね」


レオニスは、すぐには答えなかった。


雨が、裂けた革の上を滑る。

銀灰色の百合が、泥の中でかすかに見えた。


「約束しましたから」


リリアは、白い縄を握る手に力を込めた。


胸の奥が、痛い。

痛いのに、少しだけあたたかい。


「ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらです」


レオニスは、治療幕屋へ運ばれていく青印の毛布を見た。

赤印の薬箱が開かれている。

湯のそばには、黒印の火起こし用が置かれていた。


「助けられました」


リリアは、ようやく白い縄から手を離した。

灰色の手袋の指先に、縄の跡が残っている。


「なら」


声が、少しだけ震えた。


「来て、よかったです」


レオニスがリリアを見る。


泥のついた外套。

血のにじむ左腕。

濡れた包帯。


リリアは、目をそらさなかった。


「……怖くは」


レオニスは、そこで言葉を切った。


「ありませんでしたか」


リリアは、すぐには答えられなかった。


泥の匂いがした。

血のにじむ布が見えた。

治療幕屋から、誰かのうめき声が聞こえた。


「怖いです」


小さく言うと、レオニスの目が揺れた。


「でも、知らないままでいる方が、いやでした」


レオニスは黙っていた。


黒い手袋の指が、またわずかに動く。

けれど、その手はリリアには届かない。


リリアも、手を伸ばさなかった。


隊列長が、今度ははっきりと言った。


「団長」


レオニスは目を伏せた。


「……治療を受けます」


クライヴが、ほとんど安堵したように肩を下げた。


レオニスが歩き出す。

治療幕屋へ向かう途中で、もう一度だけ振り返った。


白い縄の内側に、リリアが立っている。


白い花飾りはない。

灰色の手袋で、曲がった荷札を持っている。


レオニスは何も言わなかった。


リリアも、言えなかった。


銀灰色の小さな百合は、リリアの目の前にあった。


白い縄は、まだ二人の間にあった。

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