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私の推し、私のことが好きすぎる  作者: あゆと
第3章 北部編

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22/24

氷の騎士団長は、泥の中で白百合を思いました

東森道は、第三拠点の東側にある。


平時なら、巡回騎士が半日で抜ける細い森道だった。

今は、道ではなくなっていた。


雨で土が崩れている。

馬車の轍は泥に埋まり、踏み固められていたはずの道は、黒い沢のようになっていた。


レオニス・ヴァルグレイは、黒い手袋で剣の柄を握り直した。


右手の手袋は、泥を吸って重い。

手の甲の端には、魔獣の爪がかすめた跡があった。


左腕の布も濡れている。

雨ではない。

止血布の下から、まだ血がにじんでいた。


「団長、左腕が」


後ろの騎士が言いかけた。


「動く」


レオニスは短く答えた。

それ以上の確認は要らない。

動くなら使う。動かなくなれば、別の手を使う。


魔獣群は、第三拠点東側に出た。


避難民は、まだ南へ下がりきっていなかった。

第三拠点の近くで迎え撃てば、退避の列を背後に残したまま戦うことになる。


だから、レオニスは別働隊を出した。


第三拠点から東へ。

東森道へ。

魔獣群を、民の列から引き離すために。


判断は、間違っていなかった。


避難民の南方退避は成功した。

魔獣群は、民ではなく、レオニスたち別働隊を追った。


問題は、そのあとだった。


地図にあった小橋は流されていた。

南へ戻る斜面には、崩れた土砂が落ちていた。

第三拠点との合図に使うはずだった見張り台は、黒煙を上げたあと沈黙している。


雨は足跡も血の跡も消した。


第三拠点へ戻れなければ、そう記録される。


所在不明。


「負傷者を中央へ」

レオニスは言った。

「足の遅い者を置くな。後ろは俺が見る」

「団長が後ろでは」

「魔獣が追うなら、後ろだ」


誰も言い返さなかった。

言い返す時間があれば、負傷者の肩を支える方が早い。


クライヴが泥の中を戻ってきた。

副官の外套も、すでに色が分からないほど濡れている。


「南へ抜ける道は使えません。沢沿いに下れば、指定中継所側へ出られる可能性があります。ただ、夜のうちに沢を渡るのは危険です」

「岩陰を探す」

「火は」

「小さく。煙を上げるな。魔獣より先に、こちらの位置を知らせることになる」


クライヴが頷いた。


「第三拠点への伝令は」

「今は出せない」


レオニスは雨の向こうを見た。


「伝令を一人で走らせれば、魔獣の餌にするだけだ」


遠くで、枝の折れる音がした。


全員が止まる。

雨音の中に、低い唸りが混じった。


レオニスは右手で合図した。


声を出すな。

姿勢を低く。

負傷者を動かすな。


泥の中で、騎士たちが息を殺す。

レオニスは一歩だけ後ろへ下がった。


雨の幕の向こうに、黒い影が揺れた。

人より大きい。狼ではない。肩が高く、首が短い。魔獣だ。


一体。


群れの残りではない。

追跡から外れた個体だ。


レオニスは剣を抜いた。


左腕に力を入れる必要はない。

右で斬る。

左は、痛むだけなら邪魔にはならない。


魔獣が泥を蹴った。


レオニスは前へ出た。


雨が剣筋を鈍らせる。

泥が足を取る。

魔獣の爪が外套を裂いた。


それでも、踏み込みは外さない。


一閃。


魔獣の首筋に刃が入った。

黒い血が雨に混じる。


倒れた魔獣が泥を跳ね上げた。

レオニスは剣を振って血を払った。


「進め」


それだけ言う。

部下たちは、何も言わずに動き出した。


勝ったのではない。

足を止めずに済んだだけだ。


一度目の夜は、沢沿いの岩陰で越えた。


火は使えなかった。

雨は止まず、魔獣の唸りは夜の間じゅう遠くで続いた。

負傷者の熱を見て、包帯を替え、夜明けを待った。


二日目、沢の水は引かなかった。


東森道へ戻る斜面は崩れたままだった。

見張り台からの合図もない。

第三拠点へ抜ける道は、魔獣の足跡で踏み荒らされていた。


別働隊は、沢沿いを下るしかなかった。


レオニスひとりなら、沢を渡れた。


剣を捨て、外套を捨て、負傷した左腕を使わなければいい。

泥に沈む前に斜面を上がり、夜のうちに指定中継所へ戻ることもできた。


だが、別働隊には負傷者が三人いた。


置いていくという選択は、最初からなかった。


二度目の夜が、東森道に落ちようとしていた。


崩れた古い祠の跡があった。

屋根は半分落ちている。けれど、岩壁が風をさえぎる。

雨を完全には防げないが、負傷者を寝かせる場所にはなる。


「ここで止まる」


レオニスは言った。


「しかし、団長」

「この脚で夜道を歩かせれば、朝までに死ぬ」


右脚に牙傷を負った騎士が、唇を噛んだ。

歩いていたのが不思議な深さだった。


「毛布を」


クライヴが荷を開く。


中から出てきた毛布の端に、青い印があった。


レオニスの目が、そこで止まった。


青印。

毛布。


赤印の薬箱。

茶印の食糧。

黒印の火起こし用。


王都から届いた支援品の印だった。


「濡れていません」


クライヴが薬箱を開いた。


外装は泥をかぶっている。

けれど、中の包帯は乾いていた。

薬瓶も割れていない。


雨天外装。

薬箱と乾燥花の分別。

包み紐の位置。

濡れた手でも開けられる結び。


王都の小会議室で、彼女が確認していたことを思い出す。


雨のあと、誰がどの手で箱を開けるか。


あの時、レオニスは少し驚いた。

白百合令嬢と呼ばれる人が、泥の中の手元まで見ていたからだ。


今、その箱を、部下が開けている。


リリア・ルヴェリエの名は、どこにもない。

荷札には、個人名など書かれていない。


北部方面騎士団 指定中継所御中。


正しい宛先だった。


レオニス個人へではない。

必要な場所へ届くように、彼女は荷を送った。


レオニスは、青印の毛布を負傷兵の肩にかけた。

兵は礼を言おうとしたが、痛みで言葉にならなかった。


「黙っていろ。体力を使うな」


兵は目だけで頷いた。


レオニスは、薬箱の蓋を閉じるクライヴの手元を見た。


乾いた包帯。

割れていない瓶。

雨の中でも読める印。


彼女の荷は、ここまで届いている。


北部の泥の中まで。


それなのに。


レオニスは、剣を握る右手を見た。


黒い手袋は泥を吸い、革の表面には魔獣の爪がかすめた跡がある。

手の甲の端も、少し裂けていた。


それでも、銀灰色の小さな百合は残っていた。


泥と雨でくすんでいる。

花の形は、王都で初めて見た時ほどはっきりしない。


それでも、そこにある。


リリア・ルヴェリエが贈った手袋。

手の甲を守るように、そっと縫われていた小さな百合。


手袋、確かに頂戴いたしました。

大切に身につけさせていただきます。

手の甲の補強まで、お心遣い痛み入ります。


あの返礼を書いた時の自分を、レオニスは覚えている。


花の名は書かなかった。

誰が縫ったのかも尋ねなかった。


けれど、気づいていた。


あの小さな百合が、ただの飾りではないことを。

彼女が、傷を負った手の甲を見ていたことを。

そして、何も言わずに、そこを守ろうとしてくれたことを。


レオニスは、泥の中で右手を握り直した。


(大切に身につけると、書いた)


その手袋は、今、泥と血を吸っている。

銀灰色の百合も、雨に打たれてくすんでいる。


それでも、まだ裂け落ちてはいない。


(このまま終わらせるな)


所在不明。


第三拠点へ戻れなければ、そう記録される。

王宮軍務局へ上がる。

支援関係家へ共有される。


ルヴェリエ侯爵家にも届く。


(あの人が、読むかもしれない)


レオニスは、右手を握った。


彼女の荷は届いている。

彼女の字も、ここにある。

彼女の百合も、この手にある。


だが、それを残したまま、自分が紙の上で消えるわけにはいかなかった。


「団長」


クライヴが低く呼んだ。


「少し休んでください。見張りは交代できます」

「まだいい」

「団長」

「全員を連れて戻る。それまで倒れる気はない」


クライヴは口を閉じた。


声は少し掠れていた。

左腕の止血布は、もう何度も替えた跡がある。

外套は泥で重く、裾は裂けていた。


それでも、命令の声だけは折らなかった。


雨が、祠の欠けた石に当たる。

ぽつ、ぽつ、と不規則な音がした。


火は小さくした。

煙が上がらないよう、岩陰の奥で布を立てる。

濡れた外套から、泥と血の匂いが立ちのぼる。


部下たちは声を抑えて動いている。

負傷者の包帯を替え、毛布をかけ、食糧を分ける。


青。

赤。

茶。


印は、暗い中でも見分けやすかった。


レオニスは、雨の外に目を向けた。


「……戻る」


声に出していた。


近くにいたクライヴが振り向きかけたが、レオニスは視線を動かさなかった。


(戻る)


部下を連れて。

退避成功を報告して。

補給路をつなぎ直して。

第三拠点を立て直す。


それだけで十分だった。


十分だったはずだ。


雨の向こうで、また枝が折れた。


レオニスは剣を取った。


「見張りを起こせ。火を消すな。だが大きくするな」

「魔獣ですか」

「近い」


クライヴが部下を起こす。

負傷者を岩陰の奥へ寄せる。


レオニスは祠の外へ出た。


雨が顔を打つ。

泥が靴を沈める。

左腕が、遅れて痛みを返した。


剣を右手で握る。


黒い森の奥で、低い唸りがした。


一体ではない。

二体、あるいは三体。


夜の魔獣は、姿より先に音が来る。

泥を踏む重い音。

濡れた毛皮が枝に触れる音。

呼吸に混じる、獣ではない濁り。


レオニスは、半歩だけ前に出た。


部下を守るため。

負傷者を朝まで生かすため。

北部方面騎士団長として。


そのはずだった。


けれど、剣を握ったまま、口が勝手に動いた。


「……白百合の君」


雨音に消えるほど、小さな声だった。


呼んでから、レオニスは黙った。


なぜ今、と思う余裕はなかった。


ただ、思ってしまった。


(リリア・ルヴェリエ)


会いたい、と思った。


その一語だけは、命令にならなかった。


レオニスは剣を構えた。


魔獣の影が、雨の奥から飛び出す。


一体目の爪を受け流し、首の下へ刃を入れる。

二体目が横から来る。

左腕は使えない。体ごと引いて、泥の上で足を滑らせるふりをした。


魔獣が踏み込む。

その瞬間、右足を軸に返す。


剣が腹を裂いた。


三体目は、クライヴの矢が目を射た。

ひるんだところを、レオニスが喉を落とす。


雨の中に、魔獣の音が消えた。


「負傷者は」

「無事です」

「なら、朝までここを動かない」


レオニスは剣を下ろした。


左腕の止血布が、また赤くなっている。

クライヴが何か言おうとした。


「朝まで持てばいい」


先に言うと、クライヴは黙った。


夜は長かった。


雨は止まない。

火は何度も消えかけた。

負傷者は熱を出し、薬箱の中の薬が一つ減った。


レオニスは、眠ったとは言えなかった。


目を閉じても、雨音と魔獣の足音で何度も起きた。

負傷者の熱を見て、火を小さく直し、沢の音を聞いた。


体は休んでいない。


それでも、立っていた。


夜明け前、沢の音が変わった。


水が少し引いている。


クライヴが地図を広げた。

濡れないように、青印の毛布の端を使って手元を覆う。


「沢沿いに下れば、東森道の旧標柱へ出られます。そこから先は崩れた道を迂回しますが、伝令ひとりなら指定中継所まで抜けられます」


「何人出せる」


「一人なら。二人出せば、負傷者を支える手が足りなくなります」


レオニスは頷いた。


「一人でいい」


若い騎士が前へ出た。

肩に擦り傷はあるが、足は動く。


「行けます」


「指定中継所へ走れ」

レオニスは言った。

「別働隊生存。東森道より帰還中。避難民の南方退避、成功。負傷者三名。行方不明なし」


若い騎士の目が揺れた。


「行方不明、なし」


「ああ」


レオニスは短く言った。


「そう報告しろ」


それは、第三拠点から王宮へ向かったであろう言葉への返答だった。


所在不明。


その報告を、誰が読むか。

王宮軍務局。

支援関係家。

ルヴェリエ侯爵家。


(リリアが、読むかもしれない)


読むな、と言える立場ではない。

届かせたくないと願っても、軍務の報告は止まらない。


ならば、次の報告を届けるしかない。


行方不明、なし。


「団長は」


若い騎士が言った。


「全員を連れて戻る」


レオニスは、黒手袋で剣を握り直した。


「先に走れ。伝令を止めるな。途中で魔獣を見ても、こちらへ戻るな。指定中継所へ入れ」

「はっ」


騎士が走り出す。

泥を蹴り、沢沿いの道へ消えていく。


レオニスは、その背を見送った。


雨の向こうに、まだ見えない道がある。


(戻る)


部下を連れて。

報告を持って。

北部の補給路を、切らせないために。


それから。


レオニスは、胸の奥でその名を呼んだ。


(リリア・ルヴェリエ)


白百合の君に、もう一度会いたかった。

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