白百合令嬢は、待ちました
王都東門が開いたのは、夜明け前だった。
空はまだ暗い。けれど門の前には、すでに馬と荷車が並んでいた。
王都中央騎士団の第一陣は先に出る。
王宮軍務局の支援隊列は、その後方につく。
リリア・ルヴェリエは、白い花の飾りを外していた。
髪も、いつものようには結っていない。外套は動きやすいもの。手袋は、白ではなく薄い灰色だった。
エステルが、汚れても目立ちにくいものを選んだ。
「ルヴェリエ侯爵家代理人ですね」
王宮軍務局の隊列長が、名簿を見ながら言った。
「リリア・ルヴェリエです」
「指定中継所までです。隊列から離れないでください。騎士団の進路に入らない。伝令を止めない。負傷者搬送の馬車には近づかない」
「承知しました」
隊列長は、リリアの顔を一度見た。
白百合令嬢。
王都では、そう呼ばれていた。
けれど、隊列長はその名を口にしなかった。
「北部は、王都の庭ではありません」
「承知しています」
「現地で判断を変えないでください。指示は隊列長から出します」
リリアは、灰色の手袋の指先を握った。
父の言葉が、耳に残っている。
レオニス卿の名を聞いても、馬車を降りるな。
一つでも破れば、その場で王都へ帰す。
これは許可ではない。条件付きの監視だ。
「隊列から離れません」
リリアは答えた。
「指定中継所まで。そう父にも約束しました」
隊列長は、それ以上何も言わなかった。
合図の笛が鳴る。
王都中央騎士団の旗が、暗い空の下で動いた。その後ろを、支援隊列の荷車が続く。
リリアは馬車の中で、膝の上に支援一覧を置いた。
薬箱。
毛布。
食糧。
火起こし用。
雨天外装。
いつもなら、文字を見れば確認できた。
数を数えれば、手が動いた。
けれど今朝は、どの行を見ても、別の文字が重なる。
以後、所在不明。
リリアは支援一覧を閉じた。
読んでも、あの一行は消えない。
王都を出ると、道の音が変わった。
石畳ではない。馬車の車輪が、固い土を踏む音になる。朝露を含んだ道は、ところどころ黒く湿っていた。
最初にすれ違ったのは、空の荷車だった。
荷台の端に、泥が固まっている。車輪には、北部の土らしい黒い泥が厚くついていた。
次に、毛布をかぶった子どもがいた。
母親らしい女が、その肩を抱いている。子どもの足元は裸足ではなかった。けれど、靴の片方だけが別のものだった。
リリアは、思わず窓の布を少し上げた。
「お嬢様」
向かいに座るエステルが、低く呼んだ。
リリアは布を戻した。
「分かっています」
降りてはいけない。
声をかけてはいけない。
隊列を止めてはいけない。
それでも、見てしまう。
濡れた包帯を押さえて歩く兵がいる。
荷車に横たわる老人がいる。
毛布の端を握ったまま眠っている子どももいた。
毛布の端に、青い印が見えた。
ルヴェリエ家のものではない。
けれど、リリアは自分の膝の上に置いた荷札を見た。
北部方面騎士団 指定中継所御中。
窓の外の子どもは、毛布の端を握ったまま眠っていた。
「リリア様」
護衛騎士が馬車の外から声をかけた。
「この先、指定中継所まで休憩は一度だけです。降りる場合も、隊列内でお願いします」
リリアは頷いた。
返事の代わりに、荷札の端を押さえる。
昨日あれほど震えていた指は、今はその紙を落とさずに持っている。
落ち着いたのではない。
ここで勝手に動けば、誰かの手をふさぐと分かっただけだった。
指定中継所まで。
その言葉だけを、リリアは何度も胸の内で繰り返した。
その日は、指定中継所までは届かなかった。
王都の石畳は遠くなり、道の両側には低い林と濡れた畑が増えた。
支援隊列は途中の軍用宿営地で夜を越した。
リリアはほとんど眠れなかった。
目を閉じるたびに、報告書の最後の一行が戻ってくる。
以後、所在不明。
夜が明けても、その文字は消えなかった。
翌日の午後、空が重くなった。
北部へ近づくにつれて、風が冷たくなる。朝には乾きかけていた外套の裾が、細かな雨でまた重くなった。
指定中継所は、低い丘の手前にあった。
石造りの砦ではない。大きな倉庫と仮設の幕屋を組み合わせた場所だった。
王宮軍務局の旗の下で、文官が地図を抱えて走っている。
北部方面騎士団の印が入った幕屋の前には、負傷者搬送用の馬車が横づけされていた。
泥のついた外套の騎士が、搬入を待つ荷車を手で誘導している。
そこは前線ではない。
けれど、王都でもなかった。
「支援関係者は、こちらです」
隊列長が指示を出した。
荷車の横に、白い縄が張られている。
その内側に、机が並んでいた。
支援関係家の待機場所。
リリアは、その白い縄を見た。
ただの縄だった。けれど今のリリアには、父の言葉よりもはっきり見えた。
ここまで。
この内側まで。
「ルヴェリエ侯爵家の荷札確認を」
王宮軍務局の文官が言った。
リリアは支援一覧を開いた。
「薬箱は赤、毛布は青、食糧は茶、火起こし用は黒です。指定中継所で再仕分けできるよう、外装と内札に同じ印を入れています」
文官が頷く。
「助かります。第三拠点向けと南方退避路向けを分けます。毛布は退避路側へ多めに回します」
第三拠点。
その言葉だけで、リリアの指が止まりかけた。
けれど、止めなかった。
「第三拠点向けは、青印のうち厚手のものを優先してください。薄手は退避路で人数分に分けやすいはずです」
言い終えてから、自分で少し驚いた。
声は震えなかった。
王都で、父の前であれほど泣いたのに。
今、第三拠点と聞いても、ここでは泣かなかった。
泣く場所ではない。
走る場所でもない。
リリアは、白い縄の内側で支援一覧を持ち直した。
その時、外の幕屋から騎士の声が聞こえた。
「東森道からの伝令はまだか」
リリアは顔を上げた。
東森道。
レオニスが、別働隊を率いた場所。
文官が小さく首を振った。
「まだです。別働隊の帰還報告は入っていません」
別働隊。
帰還報告なし。
リリアの手から、支援一覧が少しずれた。
エステルが、そっと横から支えた。
「お嬢様」
「大丈夫です」
大丈夫ではない。
それでも、支援一覧を床に落とすわけにはいかなかった。
リリアは白い縄を見た。
この縄を越えれば、東森道へ近づけるわけではない。
レオニスに会えるわけでもない。
ただ、誰かの仕事を増やすだけだ。
それでも、足は動きたがった。
東森道。
別働隊。
帰還報告なし。
その言葉だけで、体が勝手に前へ出そうになる。
リリアは、荷札を握った。
北部方面騎士団 指定中継所御中。
父に言った。
探しに行かない。
勝手に動かない。
隊列長の指示に従う。
言ったのは、自分だ。
行きたいと言ったのも、自分だ。
ならば、ここで約束を破るわけにはいかない。
「ルヴェリエ嬢」
隊列長が、こちらを見た。
「こちらの控え机で待機を。続報が入れば、支援関係家にも共有します」
リリアは一歩だけ下がった。
白い縄の内側へ。
リリアは白い縄の結び目を見た。
またげば越えられる。
けれど、越えた瞬間、自分はレオニスの邪魔になる。
雨が強くなった。
指定中継所の屋根布を叩く音が増える。
泥の匂いが濃くなる。
王都から来た騎士たちは、外套の裾を押さえながら走っている。
北部の騎士たちは、走り方が違った。
滑る場所を知っている。
荷車を通す場所を知っている。
負傷者の馬車を先に通すために、声を張らずに手だけで合図を出す。
王都の騎士たちは剣を持っている。
北部の騎士たちは、泥の上で人を動かしている。
東側から伝令は、三度来た。
一度目は、南方退避路の橋が一つ使えないという報告だった。
二度目は、第三拠点へ回す薬箱の追加要請だった。
三度目は、負傷者搬送の馬車を先に通せという指示だった。
どれも必要な報告だった。
どれも、レオニスの報告ではなかった。
そのたびに、誰かが「東森道」と言った。
そのたびに、リリアは顔を上げた。
そのたびに、白い縄を見て、足を止めた。
別働隊の帰還報告は、まだ入っていない。
その言葉だけが、何度も同じ場所に戻ってくる。
雨は、降ったり弱まったりを繰り返した。
支援関係家の者たちは、交代で控え机についた。文官は濡れた紙を替え、騎士は泥を払う暇もなく次の指示を受けた。
リリアも、荷札を書き直した。
第三拠点向け。
南方退避路向け。
治療幕屋向け。
書いている間だけは、手が止まらなかった。
けれど、誰かが外で走る音を立てるたび、筆先が紙の上で止まった。
団長か。
その声を、待ってしまう。
待ってはいけない形で、待ってしまう。
リリアは、何度も白い縄を見た。
午後の終わりが近づくころ、雨が少し弱まった。
屋根布から落ちる水滴の音が、ぽた、ぽた、と間を空ける。
誰かが「団長」と呼ぶたび、リリアは顔を上げてしまう。
その声の先に、レオニスはいなかった。
「東側、伝令!」
外で声が上がった。
リリアは反射的に立ち上がった。
エステルが名を呼ぶより先に、リリアは白い縄を見た。
越えない。
そう決めてから、外へ顔を向けた。
泥の道を、騎士が走ってくる。
腕章は北部方面騎士団のものだった。
息が荒い。
外套は泥で重くなっている。
「東森道より報告!」
周囲の騎士と文官が、一斉に動いた。
リリアは荷札を握ったまま、白い縄の内側に立っていた。
「別働隊のものか!」
誰かが叫んだ。
伝令の声が、雨音の中を裂いた。
「団長の隊より伝令! 東森道より帰還中です!」
リリアの手が震えた。
白い縄は、目の前にある。
一歩で越えられる。
けれど、リリアは越えなかった。
荷札を握ったまま、白い縄の内側で顔を上げた。




