白百合令嬢は、一世一代のわがままを言いました
「お嬢様!」
エステルの声で、リリアは机に手をついていることに気づいた。
床には、さきほどの報告書が落ちている。拾おうとして、指先が動かなかった。
――北部緊急報告・王宮軍務局共有――
北部方面騎士団長レオニス・ヴァルグレイ。
第三拠点東側にて、別働隊を率い魔獣群を誘導。
避難民の南方退避、成功。
以後、所在不明。
――
エステルが報告書を拾い上げた。
最後の一行を見て、表情を変える。けれど、声は荒げなかった。
「旦那様をお呼びします」
「待ってください。私は」
「大丈夫ではありません」
エステルの声は、いつもより硬かった。
「お嬢様は、今、大丈夫ではありません」
リリアは言い返せなかった。
椅子へ座らされる。机の上には、書きかけの荷札があった。
北部方面騎士団 指定中継所御中。
その文字を見ても、意味が遠かった。
所在不明。その行だけが、何度も目の前に戻ってくる。
どこにいるのか分からない。
生きているのか分からない。
怪我をしているのか分からない。
誰かと一緒なのか、ひとりなのかも分からない。
何も分からない。
分からないのに、自分は王都にいる。民間人として止められている。
正しい。全部、正しい。
それでも。
支援室の扉が開いた。
「リリア」
父の声だった。
ルヴェリエ侯爵は、早足で部屋に入ってきた。取り乱してはいない。けれど、いつもの穏やかな顔ではなかった。
「顔色が悪い」
「申し訳ありません」
「謝ることではない」
父はエステルから報告書を受け取り、目を通した。
驚きはなかった。
「お父様は、ご存じだったのですか」
「王宮軍務局から、当主宛にも同じ報告が来ている」
父は報告書を机に置いた。
「北部方面騎士団長所在不明。支援関係家への緊急共有も、すでに出ている」
自分だけが読んだ紙ではない。
王宮も知っている。侯爵家も知っている。支援関係家にも回っている。
「王都の援軍は決まった」
父が言った。
「援軍が」
「ああ。王都中央騎士団の派遣は決定済みだ。準備も整っている。早ければ今夜、第一陣が出る」
リリアは、少しだけ息を吸えた。
誰かが北部へ向かう。誰かが、あの方のいるかもしれない場所へ向かう。
けれど、父の表情は緩まなかった。
「ただし、目的はレオニス卿ひとりの救出ではない」
リリアは、報告書を見た。
以後、所在不明。
「指定中継所の防衛。南方退避路の確保。避難民の誘導。北部方面騎士団の補給路維持。王都援軍の第一目的は、北部全体を崩さないことだ」
援軍は出る。
けれど、それはレオニスだけを迎えに行くためではない。
「では、ヴァルグレイ卿は」
「捜索は続いている」
「見つかったのですか」
父は、短く答えた。
「まだだ」
まだ。
それは、絶望ではなかった。けれど、安心でもなかった。
「お父様」
「北部へ行くことは許さない」
リリアが言う前に、父は言った。
エステルも口を挟まない。
父は、報告書ではなく、リリアの顔を見ていた。
「王都援軍は遊びではない。北部は令嬢が見物に行く場所でもない。お前が行けば、守る者が増える」
「分かっています」
「分かっているなら、言うな」
「分かっていても、お願いしています」
父の眉が、わずかに動いた。
リリアは、手袋の中で指を握った。もう一度、父を見る。
「王都援軍が出るなら、支援品の搬入も増えます。指定中継所で、貴族家からの荷と王宮軍務局の荷が重なれば、混乱が起きるかもしれません」
「それは代理で足りる」
父は即座に言った。
「王宮軍務局の支援隊列には、各支援家から責任者、または代理人を一名出せる。通常なら、我が家からは執事を出す。荷札も、一覧も、指示書も、代理で運べる。お前である必要はない」
正しい。
支援だけなら、自分でなくていい。
指定中継所までの受け渡しも、執事に任せればいい。
王都で待つのが、侯爵令嬢として一番正しい。
分かっている。
分かっているのに、手袋の中で指が丸まった。
「支援だけなら、そうです」
父は黙っていた。
「でも」
リリアは机の上の報告書を見た。
以後、所在不明。
その一行から、目をそらせなかった。
「いやです」
父の眉が動いた。
「リリア」
「いやです!」
自分の声に、自分で驚いた。
父に向かって、そんな声を出したことは一度もなかった。
けれど、もう戻せなかった。
「ここで待っているのは、いやです。次の紙を待つのは、いやです。帰還予定未定の次に、所在不明と書かれて、その次に何が届くのかを、王都で待っているのは、いやです」
涙が落ちた。
白い手袋の上に、ひとつ。
それでも、止まらなかった。
「ご無事だと、書かれるかもしれません。で、でも、そうでないかもしれません。お怪我を、されているかもしれません。もう、剣を握れないかもしれません」
父の顔が、わずかに険しくなった。
「リリア」
「分かっています。言ってはいけないことを、言っています」
リリアは、父の顔を見られなかった。
「でも、考えてしまうのです。足は。腕は。声は。目は。あの方は、ちゃんと戻ってこられるのかと」
そこまで言って、声が崩れた。
「いや、です」
涙が、白い手袋に落ちる。
ひとつではなかった。
「そんなことを、王都で紙だけ待っているのは、いやです」
エステルが一歩近づきかけた。
父が片手で止めた。
リリアは、椅子の前に膝をついた。
令嬢として正しくない。
父の前で、支援室の床に膝をつくなど、してはいけない。
それでも、立っていられなかった。
「私は、ずっと、迷惑をかけないようにしてきました」
声が震えた。
「お名前を出さないようにして、噂にならないようにして、近づきすぎないようにして、笑われても、誤解されても、それでよいと思っていました」
そこで、声が切れた。
「でも、いなくなられるのは、いやです。戻ってこられても、あの方があの方でなくなるかもしれないと思うのも、いやです」
父は何も言わなかった。エステルも、何も言わなかった。
「戻ってきてほしいのです。もう一度、声を聞きたいのです。わ、わたくしの名前を、呼んでほしいのです」
最後の言葉だけ、うまく言えなかった。
リリアは唇を押さえた。
押さえたのに、涙は止まらなかった。
「私は、あの方をお慕いしています」
その一言を口にしたら、もう取り消せなかった。
「ヴァルグレイ卿を、失いたくありません」
父は、まだ黙っていた。
リリアは、床に膝をついたまま頭を下げた。
「連れて行ってください」
「リリア」
「前線には行きません。指定中継所までで構いません。王宮軍務局の支援隊列に入ります。護衛も受けます。勝手に動きません」
そこまでは言えた。
けれど、次の言葉だけは喉で止まった。
ヴァルグレイ卿を探しに行きません。
言わなければならない。
言わなければ、父は許さない。
リリアは、白い手袋を握った。
「ヴァルグレイ卿を、探しに行くことも、しません」
その言葉だけは、父の顔を見ずに言った。
「それでも、王都で何も知らずに待つより、少しでも近い場所で待ちたいのです」
父は、長く黙っていた。
リリアは顔を上げられなかった。
やがて、父が低く言った。
「リリア」
「はい」
「顔を上げなさい」
リリアは顔を上げた。
父の顔は厳しかった。けれど、怒っているだけではなかった。
「泣いて願えば通ると思うな」
リリアは、うなずいた。
「北部は危険だ。指定中継所でも安全とは限らない。お前が行けば、守る者が増える」
「分かっています」
「それでも行きたいのだな」
リリアは涙を拭かなかった。
拭けば、また令嬢の顔に戻ってしまう気がした。
「行きたいです」
父は目を伏せた。
「お前は、こういう時まで我慢するのだな」
その声だけが、父親のものだった。
「そんな顔をするまで、黙っていたのか」
リリアは、何も言えなかった。
父はすぐに表情を戻した。
「前線には行かせない。指定中継所までだ。王宮軍務局の支援隊列に入り、侯爵家の護衛を付ける。隊列長の指示に従え」
リリアはうなずいた。
「レオニス卿の名を聞いても、馬車を降りるな」
その条件だけは、すぐにはうなずけなかった。
父は待たなかった。
「一つでも破れば、その場で王都へ帰す」
リリアは、白い手袋を握ったまま、もう一度うなずいた。
「分かりました」
「これは許可ではない。条件付きの監視だ」
「それでも、行かせてください」
父は、最後に言った。
「リリア。行きたいと言ったのは、お前だ」
リリアは、涙を拭かなかった。
拭けば、今の言葉まで整えてしまいそうだった。
「はい」
「ならば、誰のせいにもするな。私にも、王宮にも、レオニス卿にもだ」
リリアは、父を見た。
「はい。わたくしが、行きたいと申し上げました」
父はしばらく娘を見ていた。
「ならば、その言葉を持って行きなさい」
リリアは深くうなずいた。
「支度をしなさい」
父が言った。
「第一陣は今夜出る。支援隊列は、その後方につく」
リリアは、机に手を置いて立ち上がった。
エステルが、そっとそばに来る。
「お嬢様。旅装の準備を」
「お願いします」
白い花の飾りは、箱へ戻した。
香り袋も置いていく。
エステルが用意したのは、動きやすい外套と、汚れてもよい手袋だった。
リリアはその横に、王宮軍務局へ提出する支援一覧と、指定中継所用の荷札を置いた。
最後に、一枚だけ荷札を取る。
北部方面騎士団 指定中継所御中。
その文字を見つめる。
今度は、送るためではない。
自分も、その先へ向かうためだった。




