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第九話:山からの使者と、猫の「商談」

 雨上がりの「木漏れ日の村」は、まるで磨き上げられた宝石のように輝いていた。

 世界樹の葉から滴る雫が、午後の柔らかな光を反射して、空中を虹色の粒子が舞っている。濡れた苔は深く鮮やかな緑色を湛え、そこかしこから立ち上がる蒸気には、濃厚な森の生命力と、ボタンの庭から漂うハーブの香りが混ざり合っていた。

 ハルは、広場の端にある大きな切り株の陰で、自慢の白い毛並みを丁寧にグルーミングしていた。雨上がりの湿気は、ラグドール特有のふさふさな毛を少しだけ「ぼわっ」と膨張させてしまう。

「……よし、これで左前足のセットは完璧だ」

 自画自賛しながら毛並みを整えていると、里の入り口に設置された「風鈴の警報」が、チリン、チリンと軽やかな音を立てた。これは魔物のような邪悪な存在ではなく、知性を持った「来客」が里の境界線を越えたことを知らせる合図だ。

「おや、珍しい。エルフの里以外から誰か来るなんて」

 ハルが耳をそばだてると、ドス、ドス、という重い足音が聞こえてきた。それは猫たちの音のない歩法とは対極にある、頑強な意志を感じさせる足音だった。

 やがて、世界樹の根のアーチをくぐって現れたのは、一人のずんぐりむっくりとした老人だった。

 身長はハルたちの三倍ほど。しかし、横幅はその二倍はある。地面に届きそうなほど長い、編み込まれた立派な髭。背中には、自分の身体よりも大きな革の荷負い籠を背負っている。

「……ふむ。ここが噂に聞く、世界樹の隠れ里か。地獄の番犬が守る魔境かと思えば、なんとまあ、呑気な空気が流れておるわい」

 ドワーフの行商人、ガルドだった。彼はドワーフ族の国「アイアン・マウンテン」から、希少な鉱石や金属細工を運んで旅をする、歴戦の商人である。

 ガルドは広場の中央に立つと、腰に手を当てて周囲を見渡した。

 彼の目には、日向ぼっこをしながら欠伸をする三毛猫、木の上で毛玉を追いかける黒猫、そして切り株の上で熱心に毛並みを整えているラグドールが映っていた。

「おい、猫公ども。この里の責任者はどこにおる。わしは取引に来たんだ。……まさか、言葉が通じぬわけではあるまいな?」

 ガルドが野太い声で吠えるように言うと、広場の奥から、一匹の茶トラ白の猫がのっそりと現れた。村長のゴロだ。

 ゴロは二本足で堂々と立ち上がると、首に巻いた赤いスカーフをピシッと整え、ガルドを見上げた。そのサイズは、ガルドの膝より少し上くらい。「抱っこサイズ」の極みである。

「ようこそ、アイアン・マウンテンの友よ。……俺がこの里の村長、ゴロだ。旅の疲れはあるだろうが、まずは腰を下ろして、ボタンの淹れた茶でも飲んでいけ」

 ゴロの声は、穏やかだが不思議な威厳に満ちていた。ガルドは驚きに髭を震わせ、思わず後ずさりした。

「……ほう。これほど流暢に、しかも知性ある言葉を話すケットシーは初めて見たわ。よかろう、まずは喉を潤すとしよう」

 こうして、世界樹のふもとでの奇妙な「商談」が始まった。

 場所は、世界樹の根の下に作られた、風通しの良い会議室。

 ガルドは、自分専用に用意された特大の石のベンチに座り、目の前に置かれた小さな木のテーブルを見つめた。そこには、ボタンが用意した「冷やしミント蜂蜜茶」と、ロッソが焼いた「ドライベリーのクッキー」が並んでいる。

「……ふむ。美味い。ドワーフの喉にも、この清涼感は悪くないな」

 ガルドが茶を飲み干したところで、ゴロが本題を切り出した。

 ゴロの隣には、黒猫の大工棟梁クロも座っている。クロは鋭い目つきで、ガルドが足元に置いた荷負い籠を睨んでいた。

「さて、ガルドさん。あんたが担いできたその籠の中に、俺たちが欲しがっている『星銀鋼ほしぎんこう』は入っているのかい?」

「ほう、星銀鋼を知っておるか。ドワーフの山でも年に数キロしか採れぬ、最高級の熱伝導率と硬度を誇る金属だ。……だが、猫公。ありゃあ、勇者の剣や王侯貴族の宝飾品を作るためのもんだ。お前さんたちのような……失礼ながら、平和を絵に描いたような連中に、何が必要なのだ?」

 ガルドがニヤリと笑って尋ねると、クロが鼻を鳴らし、前足の鋭い爪を「シャキッ」と出した。

「決まってんだろ。最高の包丁と、最高の鍋を作るためだ」

「……は?」

 ガルドは耳を疑った。

「俺たちのシェフ、ロッソが作る料理は天下一品だ。だが、今は鉄の鍋を使ってるせいで、火の通りにムラが出る。世界樹の繊細な魚の味を引き出すには、星銀鋼の熱伝導がどうしても必要なんだよ」

 クロは真面目な顔で続けた。

「それに、俺が作る家具の継ぎ目を削るには、星銀鋼を混ぜた特製のノミが必要だ。……あんた、この村の居心地がいいと思っただろう? それは、俺たちが『快適さ』を極めるために、最高の道具を使ってるからなんだよ」

 ガルドは呆然とした。ドワーフの感覚では、希少金属は常に「戦争」や「権威」のために使われるものだった。それを「料理」や「お昼寝の環境作り」のために使おうという発想は、前代未聞だった。

「……くっ、くっくっ……。面白い! 料理と昼寝のために星銀鋼を欲しがるか! だがな、猫公。商売は商売だ。ありゃあ、金貨で買おうと思えば、この籠いっぱいの黄金が必要になるぞ。お前さんたちに、何が出せる?」

 そこで、村長ゴロが前に出た。ゴロは前世で数々の難解なプロジェクトをまとめ上げてきた、やり手のPMプロジェクトマネージャーだった。

「金貨、なんていう無機質なものは持ち合わせていないが……。代わりに、あんたの腰にあるその古い短剣、少し見せてくれないか?」

 ガルドが怪訝そうに短剣を差し出すと、ゴロはそれをじっと観察した。

「……なるほど。いい仕事だ。だが、重心が少しだけ前すぎて、長旅では手が疲れる。それに、この柄の皮巻、汗を吸って滑りやすくなっているな。……クロ」

 呼ばれたクロが、懐から一つの小さな木箱を取り出した。

 中に入っていたのは、世界樹の枝から削り出され、特殊な魔力のコーティングを施された「グリップパーツ」だった。

「これを、あんたの短剣の柄に填めてみな。滑り止めだけじゃない。持ち手の魔力と共鳴して、重さを感じさせなくする。……ドワーフの技術は素晴らしいが、俺たちは『使う側の心地よさ』に関しては、あんたらの数歩先を行ってる」

 ガルドが半信半疑で自分の短剣にそのパーツを装着した瞬間、彼の表情が変わった。

「な……!? 何だ、この馴染み方は! 短剣が、まるでわしの腕の一部になったかのようだ!」

 さらにゴロが畳み掛ける。

「それだけじゃない。ボタンの庭で採れた『最高級の乾燥またたびの粉』も付けよう。ドワーフの里にだって、猫はいるだろう? 猛獣の調教にも使えるし、何より、その粉を少し酒に混ぜれば、どんな安酒も極上の香りに変わる」

 ゴロの交渉術は完璧だった。

 希少価値、実用性、そして「付加価値」の提示。前世のビジネススキルが、猫の身体を通じて遺憾なく発揮されていた。

 ガルドは短剣を何度も振り、それから目の前の茶とクッキーを見つめた。

 この里の連中は、ただの猫ではない。

 見た目は抱きしめたくなるほど愛らしいが、その内側には、ドワーフの長老にも負けないほどの「知恵」と「こだわり」が詰まっている。

「……参った。降参だ」

 ガルドは髭を豪快に笑い飛ばしながら、荷負い籠から、銀色に光る小さな金属の塊を取り出した。

「よかろう。この星銀鋼、あんたらのお遊び……いや、『究極の日常』のために譲ってやろう。その代わり、この里で一晩、わしをもてなせよ! その『星銀鋼で作った鍋』とやらの味を、この舌で確かめさせてもらう!」

「ああ、歓迎するよ。……ハル、ロッソに伝えてきてくれ。今夜は特別な賓客だ。とっておきの銀魚の香草蒸しを作ってくれ、とな」

 ハルは「任せてください!」と尻尾をピンと立てて、広場を駆け出した。

 その夜、里の中央広場には、ドワーフの巨体と数十匹の猫たちが集まり、盛大な宴が催された。

 クロが即興で星銀鋼を加工して作り上げた鍋からは、かつてないほど繊細な香りが立ち上っている。ロッソの腕前は、最高級の道具を得たことで、さらに一段上の次元へと到達していた。

「……う、美味い! なんという火の通りだ! 魚の身が、雲のように柔らかいぞ!」

 ガルドは大声で笑い、ボタンがハチミツを混ぜた特製の酒を飲み干した。

 ハルは、宴の端っこでゴロの隣に座り、幸せそうに魚を頬張っていた。

「……ゴロさん、すごい商談でしたね。あんなに頑固そうなドワーフを、あっさり言いくるめちゃうなんて」

「ハル、これは『言いくるめた』んじゃない。『相互利益』だ。俺たちは最高の道具を手に入れ、ガルドさんは最高の体験と技術を手に入れた。……商売ってのは、全員が幸せになって初めて成功と言えるんだよ」

 ゴロはそう言って、満足げに喉をゴロゴロと鳴らした。

 宴もたけなわ。酔いの回ったガルドは、ついに我慢ができなくなったのか、隣に座っていたゴロを、大きな手でひょいと持ち上げた。

「が、ガルドさん!? 何を……」

「がははは! 我慢できん! お前さん、あんなに賢いのに、なんでこんなにフカフカで気持ちいいんだ! よし、今夜はわしの髭の枕にして寝かせてやる!」

「よ、よせ! 俺は村長だぞ! 威厳が……あ、そこ、耳の後ろを掻くのは……ふにゃあああ……」

 やり手のPMも、ドワーフのゴツゴツした手による「マッサージ」には勝てなかったようだった。

 世界樹のふもと、月明かりの下。

 猫たちの知恵と、ドワーフの技術が交差した夜。

 もふもふたちの隠れ里は、新しい道具と新しい友人を手に入れ、また一歩、「最高の日常」へと近づいていくのだった。

 ハルは、賑やかな笑い声を聞きながら、夜空に浮かぶ世界樹のシルエットを見上げた。

 前世の知識は、誰かを倒すためではなく、こうして美味しいものを食べ、みんなで笑うためにある。

 そのことを、ハルはまた一つ、この里で学んだ気がした。

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