第八話:雨の日の防衛線と、真面目なロシアンブルー
世界樹のふもと、木漏れ日の里。いつもなら黄金色の陽光が降り注ぐはずの朝、その日は、空の色が違っていた。
世界樹の巨大な天蓋が、重く湿った灰色の雲に覆われている。遥か上空で鳴り響く低い雷鳴は、まるで巨大な獣の唸り声のようだった。やがて、世界樹の広大な葉を叩く音が、パラパラという乾いた音から、ドサドサという重い音へと変わっていく。
雨だ。
それも、この森では珍しいほどの土砂降りである。
「……最悪だ。世界が『敵』に包囲された気分だよ」
ハルは、自分の家の窓から外を眺めて、深いため息をついた。
猫という種族にとって、雨は単なる気象現象ではない。それは自慢のふかふかな毛並みを台無しにし、体温を奪い、さらには「濡れる」という生理的な恐怖を突きつけてくる、いわば自然界からの宣戦布告だった。
窓の外では、いつもなら広場で相撲を取っている茶トラたちも、木陰で追いかけっこをしている子猫たちも、一匹残らず姿を消していた。里全体が、死んだように静まり返っている。
だが、そんな静寂を切り裂いて、雨の中に一つの人影――いや、「猫影」が現れた。
ビシャッ、ビシャッ、と、世界樹の苔を力強く踏む音。
現れたのは、銀色に光る短い毛並みが美しい、一匹のロシアンブルーだった。彼の名はテツ。
テツは、大工のクロが特別に作ったという、撥水性の高い「世界樹の皮のレインケープ」を首から下げ、鋭い目つきで周囲を警戒しながら歩いている。
テツの前世は、とある地方都市の警察官だった。
職務に忠実で、曲がったことが大嫌い。定年まであと数年というところで、雨の日のパトロール中に事故に遭い、気がついた時にはこの里で「抱っこサイズ」の銀色の猫になっていたという。
「……ハル。起きているか」
テツがハルの家の扉を、肉球で「コンコン」とリズムよく叩いた。
ハルは慌てて扉を開け、テツを中に招き入れた。
「テツさん! こんな大雨の中、何をやってるんですか。早く入って!」
「……ふぅ。異常なし、と言いたいところだが、北側の第四水路に落ち葉が詰まりかけている。放置すれば、里の下層に浸水する恐れがあるな」
テツは室内に入ると、器用にレインケープを脱ぎ捨てた。短い銀色の毛は、幸いにもほとんど濡れていないが、その足先だけは泥で汚れている。テツはそれを嫌がる風もなく、真剣な顔でハルを見つめた。
「ハル。お前は元・エンジニアだろう。論理的な予測を聞きたい。この雨、あと何時間は続くと思う?」
「テツさん……。僕はシステムエンジニアであって、気象予報士じゃないですよ。でも、世界樹の葉の揺れ方を見る限り、あと二、三時間はピークが続くでしょうね」
ハルの答えに、テツは「うむ」と重々しく頷いた。
「ならば、警戒を解くわけにはいかない。雨の日は、住民の心理も不安定になる。前世でも、雨の夜ほど事件が多発したものだ」
「テツさん、ここは『またたび里』ですよ。事件なんて、せいぜい『誰かが隠したおもちゃが見つからない』とか『昼寝の場所の取り合い』くらいじゃないですか」
「いいや、ハル。油断は禁物だ。……さて、次はゴロ村長のところへ報告に行かねば」
テツが再び外へ出ようとするのを、ハルは慌てて引き止めた。
「待ってください! 村長なら、今頃ロッソさんの店で、避難してきた猫たちと一緒に丸まってますよ。テツさんも、少し休んでいってください。ネネさんが用意してくれた『温かいハーブティー』がありますから」
ティー、という言葉に、テツの耳がわずかにピクリと動いた。
彼は真面目だが、猫の本能には抗えない。この冷たい雨の中を歩き続けるのが、本当はどれほど嫌なことか、彼自身の身体が一番よく知っている。
「……五分だけだ。五分だけ、作戦会議を許可する」
テツはそう言って、ハルの家の暖炉(魔石を使った温かな石の台)のそばに座り込んだ。
ハルは、ボタンの庭で採れたカモミールと、ロッソ特製の蜂蜜を混ぜたお茶を差し出した。
テツはそれをペロペロと音を立てて飲み始めると、徐々にその険しい表情が和らいでいった。
「……ハル。お前は、この姿になってから『後悔』したことはあるか?」
ふいに、テツがポツリと漏らした。
ハルは、温かいお茶の湯気の向こう側にあるテツの横顔を見つめた。ロシアンブルーの端正な顔立ちが、暖炉の火に照らされている。
「後悔、ですか……。そうですね。時々、やり残した仕事とか、あの日デバッグしきれなかったコードのことが頭をよぎることはあります。でも、この里で朝起きて、お日様の匂いを嗅ぐと、全部どうでもよくなるんです」
「……そうか。私はな、時々、あの雨の日の街角を思い出す」
テツは視線を落とした。
「あの日、私は迷子を捜していた。結局、その子は無事に見つかったんだが……。私は、自分の人生を『守る』ことだけに費やしてきた。だが、守るべき自分自身の幸せを、一度でも考えたことがあっただろうかとな」
テツの真面目すぎる性格は、前世からの「呪い」のようなものかもしれない、とハルは思った。猫になってもなお、彼は「守るべきもの」を捜して雨の中を歩き回っている。
「テツさん。今のあなたの仕事は、里をパトロールすることじゃなくて、この雨音を楽しみながら『お昼寝』することなんじゃないですか? ……ほら、あの子たちを見てください」
ハルが窓の外、隣の家のテラスの下を指差した。
そこには、雨宿りをしている数匹の猫たちが、お互いの背中を寄せ合って、大きな「毛玉の塊」のようになって眠っていた。雨の冷たさを、お互いの体温で打ち消し合っているのだ。
「……猫には、猫なりの『守り方』があるんだと思います。一人で雨の中に立ち向かうんじゃなくて、みんなで固まって、嵐が過ぎ去るのを待つ。それも立派な防衛線ですよ」
ハルの言葉に、テツはハッとしたように目を見開いた。
それから、彼は自分の銀色の前足を見つめ、ふっと小さく鼻を鳴らした。
「……守るべき自分自身の幸せ、か。……ハル、お前の言う通りかもしれないな」
その時、里全体に響き渡るような大きな声が聞こえてきた。
「おーい! 全員いるかー! 雨漏りチェックは終わったぞー!」
村長のゴロだ。彼は、自分の二倍ほどもありそうな巨大な葉っぱを傘代わりにして、広場の中央を堂々と歩いていた。その後ろからは、ネネやクロも続いている。
「村長! テツさんはここにいますよ!」
ハルが窓から声をかけると、ゴロがニカッと笑った。
「おお、テツ! お前、また一人でパトロールしてたのか。真面目なのもいいが、今日はもう休業だ! ロッソが『雨の日特製・具沢山の温かい魚のスープ』を大鍋で作ったぞ。全員、集会所に集合だ!」
スープ、という言葉を聞いた途端、テツの尻尾がピーンと垂直に立った。これは猫が非常に喜んでいる時のサインだ。
「……む、村長がそこまで言うのなら、仕方がない。警備体制を『集会所内』に限定し、スープの安全確認を行わねばならんな」
テツの言い訳めいたセリフに、ハルは思わず吹き出した。
二匹はハルの家を出ると、ゴロたちの大きな葉っぱの傘に潜り込み、一滴も濡れないように注意しながら、集会所へと向かった。
集会所の中は、猫たちの熱気とスープの香ばしい匂いで満ち溢れていた。
抱っこサイズの猫たちが五十匹以上も集まっている光景は、圧巻の一言だ。
「さあ、テツもハルも、こっちに来い! 最高の特等席(暖炉の真ん前)を空けておいたぞ!」
シェフのロッソが、大きな木のお玉を振って手招きしている。
温かいスープが、木の器に注がれる。
世界樹の恵みを受けた魚の旨みが凝縮されたスープは、雨で冷えかけた猫たちの身体を、心の底から温めてくれた。
外では依然として雨が降り続いている。
だが、この集会所の中には、どんな嵐も届かない「防衛線」が築かれていた。それは魔法の壁でも、鉄の門でもない。お互いを思いやり、共に温かいものを食べ、肩を寄せ合うという、最も原始的で、最も強力な絆の壁だ。
「……旨いな」
テツがスープを飲み干し、幸せそうに髭を揺らした。
「でしょう? さあ、テツさん。スープの後は、警備任務(お昼寝)の時間ですよ」
「……ふむ。ならば、私が率先して『寝顔の警備』に当たるとしよう」
テツはそう言って、ハルの隣でくるんと丸くなった。
銀色の毛並みが、暖炉の火を受けて美しく波打っている。
やがて、集会所の中には、数十匹分の「ゴロゴロ」という音が響き始めた。
雨音をかき消すほどの、安らかな合唱。
真面目なロシアンブルーのテツも、最後には自分の「幸せ」という名の任務を全うし、深い眠りへと落ちていった。
世界樹のふもと、雨の日の木漏れ日の里。
そこには、濡れることを恐れる猫たちが作り出した、世界で一番温かくて、乾いた「幸せ」が満ちていた。




