第七話:ささやきの図書室と、博識なシャム猫
世界樹のふもと、木漏れ日の里には「音のしない場所」がいくつかある。
風の止まる谷間や、厚い苔に覆われた静寂の広場。だが、ハルが最も好んでいるのは、世界樹の巨大な幹の北側に口を開けた、大きな空洞の中にある場所――「ささやきの図書室」だった。
一歩足を踏み入れれば、そこには地上の喧騒とは切り離された、別の時間が流れている。
高い天井まで続く本棚は、世界樹の自重で自然に形成された木の棚を利用したものだ。そこには、前世で見慣れた紙の本だけでなく、薄く削り出された木の板、あるいは魔力を帯びた巨大な木の葉が、整然と並べられていた。
鼻をくすぐるのは、古い紙の匂いと、落ち着いた木の樹脂の香り。そして、どこか遠い記憶を呼び覚ますような、不思議に甘い魔力の残り香だった。
「おや、ハルくん。珍しいわね、あなたが昼寝のゴールデンタイムにここへ来るなんて」
鈴を転がすような、凛とした声が頭上から降ってきた。
ハルが顔を上げると、三メートルほど高さにある「キャットウォーク」の端から、一匹の猫がこちらを見下ろしていた。
しなやかな肢体、顔の中心と耳の先、そして四肢に濃い焦げ茶色のポイントが入った、美しいシャム猫だ。サファイアのような青い瞳が、知的な光を湛えてハルを見つめている。
彼女の名はソラ。前世では大学の付属図書館で司書をしていたという彼女は、この村において「世界の記録」を一手に引き受ける、博識な司書だった。
「ソラさん、おはようございます。……いえ、もうこんにちは、ですね」
「ええ。ちょうど、世界樹が記憶した『昨日の風の記録』を整理し終えたところよ」
ソラは、抱っこサイズの身体を軽やかに躍らせると、本棚の突起を足場に、音もなくハルの前へと降りてきた。彼女の首には、老眼鏡のような意匠の銀色のチャームが付いたリボンが巻かれている。
「それで? 働き詰めだった元システムエンジニアさんが、貴重な休日(という名の毎日)を削ってまで調べたいことって、何かしら?」
「……ソラさんには、隠し事はできませんね」
ハルは、図書室の真ん中に置かれた、ふかふかの円形ラグの上に座り込んだ。
ここ数日、ミーナとの出会いと別れを経て、ハルの心には一つの疑問が澱のように溜まっていた。
「僕たちは、どうして『猫』になったんでしょうか」
ハルの問いに、ソラの青い瞳がわずかに細められた。
彼女は何も言わず、奥の棚から一冊の古い巻物を持ってきた。それは紙ではなく、世界樹の葉を特殊な溶液で加工し、文字が浮かび上がるようにしたものだ。
「それを知って、どうするの? 答えが見つかったら、人間に戻りたくなったりする?」
「……いいえ。戻りたいとは思いません。ただ、あまりにもこの生活が幸せすぎて……時々、これは長い夢なんじゃないかって、不安になるんです」
ハルの正直な言葉に、ソラはふっと微笑んだ。彼女は巻物をラグの上に広げ、前足の肉球で、ある一節を指し示した。
「私もね、ここに来てからずっと調べていたの。どうして私たちは、記憶を持ったまま猫になり、この世界樹に招かれたのか。……ハルくん、この図書室にある『記憶の葉』にはね、この世界の歴史が刻まれているわ」
ソラの説明によれば、世界樹はこの異世界における「魂のフィルター」のような役割を果たしているのだという。
世界には、数多の魂が流れている。戦いに明け暮れた騎士、富を築き上げた商人、そして――ハルのように、誰かの作ったシステムの一部として、自分の命を削りながら走り続けた者たち。
「世界樹は、あまりにも強く『休息』を求めた魂を、時々こうして掬い上げることがあるみたいなの。そして、その魂に最もふさわしい姿を与える。それが、私たちにとっては『猫』だったというわけ」
「……休息のための姿が、猫?」
「ええ。猫という生き物はね、ただ存在するだけで肯定される存在でしょう? 何かを成し遂げなくても、誰かの役に立たなくても、ただ日だまりで丸くなっているだけで『それでいい』と言ってもらえる。それは、私たち人間が一番欲しかった、究極の救済なのよ」
ソラは、窓から差し込む一筋の光を見つめた。
前世の彼女は、静かな図書館で働きながらも、絶え間ない利用者の要求や、管理運営の重圧に押しつぶされそうになっていた。本に囲まれているはずなのに、一冊の本を心から楽しむ余裕すら失っていたのだ。
「この巻物の伝承によれば、かつて世界を破滅から救った英雄が、最後に行方不明になったという話があるわ。でもね、その英雄が最後に目撃されたのは、この世界樹の下で丸くなっている一匹の猫だったんですって」
ハルは、巻物に刻まれた古の文字を見つめた。
自分たちは、特別な使命を持って転生したわけではない。
勇者として魔王を倒すためでも、聖女として国を救うためでもない。
ただ、「お疲れ様。もう休んでいいよ」という世界樹の慈悲によって、この毛皮を与えられたのだ。
「……なんだか、肩の荷が下りた気がします」
「ふふ、そうでしょう? 猫に肩こりはないものね」
ソラはハルの隣に座り、自分の尻尾をハルの背中にそっと添えた。
シャム猫の体温は高く、心地よい。ハルもまた、自分を縛っていた「理由を探さなければならない」という強迫観念が、図書室の静寂の中に溶けていくのを感じた。
「ソラさん。……ここにある本、僕も読んでいいですか? 人間時代の難しい理論書じゃなくて、この世界の、ただの物語を」
「もちろんよ。おすすめは……そうね。この『雲の上で昼寝をした魚』の話かしら。ロッソくんが以前読んで、感動して泣いちゃったのよ」
「ロッソさんが? あの豪快なシェフが?」
「ええ。猫になると、涙もろくなるのかもね」
それから、ハルとソラは並んで本を読み始めた。
ハルが選んだのは、世界樹の葉に刻まれた、名もなき旅人の日記だった。そこには、美しい景色と、美味しい食事のことだけが、素朴な言葉で綴られていた。
文字を追うにつれ、ハルの心は穏やかな海を漂っているような感覚に包まれていく。
時折、図書室の外から、村の賑やかな気配が伝わってくる。
クロが何かを叩く音、ゴロが誰かを呼ぶ声、そしてボタンがハーブを摘む爽やかな香り。
それらすべてが、今のハルにとっては「確かな現実」だった。
やがて、図書室の中に差し込む光が、オレンジ色を帯び始めた。
夕方の、最も美しい「黄金色の時間」の始まりだ。
「ハルくん。そろそろ閉館の時間よ。……というより、夕食の時間ね。今日はロッソくんが、新しいハーブを使った魚料理を作っているはずだわ」
ソラが本を閉じ、前足を伸ばして大きく伸びをした。
「あ……もうそんな時間ですか」
ハルも立ち上がり、ふかふかの毛並みを整えた。
図書室を出る際、ハルはもう一度だけ、世界樹の深い幹の奥を振り返った。
自分たちがここに来た理由。それは、特別なことではなかった。
ただ、このもふもふの身体で、誰かと寄り添い、美味しいものを食べ、暖かな場所で眠る。それだけでいいのだということを学ぶための、長い長い夏休みなのだ。
「ソラさん、ありがとうございました。また来ます」
「ええ、いつでも。……次は、もっと面白いお昼寝のスポットについて書かれた本を見つけておくわね」
ソラは軽やかに本棚の上へと戻り、再び静寂の住人となった。
図書室を一歩出ると、そこには夕焼けに染まる「またたび里」の絶景が広がっていた。
ハルは、自分の肉球が苔を掴む確かな感覚を楽しみながら、仲間たちが待つ広場へと駆け出した。
なぜ猫になったのか。その答えはもう、重要ではなかった。
大切なのは、今、この瞬間、自分がこの平和な場所の一部であるということ。
世界樹のふもとでは、今夜もまた、新しい物語が静かに紡がれようとしていた。
それは、英雄譚でも歴史書でもない。
ただ、一匹の猫が幸せに眠るまでの、穏やかな日常の記録である。




