第六話:琥珀色の贈り物と、銀鼠色の庭師
世界樹のふもとを、霧雨のような朝露が優しく濡らしていく。
数日前、エルフの少女ミーナを見送った「またたび里」の境界線には、今も彼女が残していった花の香りが微かに漂っているような気がした。
ハルは、世界樹の太い根がアーチを描く広場の端で、一際大きな「琥珀色の瓶」を前にして座り込んでいた。瓶の中には、エルフの里から感謝の印として贈られた最高級のハチミツがたっぷりと詰まっている。朝の光を浴びて、それはまるで溶けた宝石のように神々しく輝いていた。
「……さて、こいつをどうしたものかな」
のっそりと、背後から大きな影がハルを包み込んだ。村長のゴロだ。
ゴロは、はち切れんばかりの茶トラ白の身体を器用に動かし、ハルの隣にどっしりと腰を下ろした。その重みで、ふかふかの苔がわずかに沈む。
「ミーナのお嬢ちゃんがくれた、最高の『お礼』だ。ただ舐めるだけじゃ芸がねえ。だが、俺たちの不器用な肉球でこの蓋を開けて、中身を無駄にせず使いこなすには、少し知恵が必要だな」
ゴロの言う通り、ケットシーたちの手は、人間のように細かな作業をこなすには少しばかり「丸すぎる」のだ。魔法で補助はできるが、繊細なハチミツの扱いには、この村に住む「ある専門家」の協力が不可欠だった。
「村長、ハルくん。朝からそんなに真剣な顔をして、何を睨み合っているんだい?」
涼やかな声が、頭上の枝から降ってきた。
しなやかな動きで着地したのは、銀鼠色の毛並みが美しい、アメリカンショートヘア風の縞模様を持つ猫だった。彼の名はボタン。前世では地方自治体の「農業普及指導員」として、農家を回り、土を愛し、作物を育てる術を説いていた男だ。
ボタンは、首から下げた手編みのポシェットに、今朝摘んだばかりの新鮮なハーブをいくつも詰め込んでいた。
「おはよう、ボタンさん。実は、ミーナにもらったこのハチミツを、どうにかして村のみんなで美味しく頂きたいなと思って」
「ほう、エルフのハチミツか。……世界樹の百花蜜だね。これは素晴らしい」
ボタンは瓶に近づくと、銀鼠色の鼻をピクピクと動かして香りを確かめた。
「ただ甘いだけじゃない。微かに世界樹の魔力と、深い森の清涼感が混ざっている。……よし。それなら、僕の庭で採れた『カモミールまたたび』と合わせるのが一番だ。最高に贅沢な『またたび茶』を淹れようじゃないか」
三匹の猫は、ハチミツ瓶を大切に運びながら、ボタンが管理する「ハーブガーデン」へと向かった。
そこは、世界樹の根が幾重にも重なり、陽光がレースのカーテンのように降り注ぐ、村の奥深くにある聖域だった。
ボタンの庭には、人間界ではお目にかかれない不思議な植物が所狭しと並んでいる。銀色に光るミント、触れると鈴のような音が鳴るラベンダー、そしてケットシーたちの最大の娯楽である「またたび」の木が、世界樹の魔力を吸って生き生きと枝を伸ばしていた。
「前世では、農薬だの効率だのと数字に追われる日々だったけどね。今は、この子たちの『声』を聞きながら、ただ心地よい香りを育てるだけでいい。……これ以上の贅沢はないよ」
ボタンはそう言いながら、器用に爪を立ててカモミールの花を摘み取っていく。彼のサイズもまた、大人の人間に抱え上げられるほどの「抱っこサイズ」だが、その仕事ぶりには、熟練の庭師としての矜持が宿っていた。
ハルとゴロは、ボタンに指示されるまま、お茶の準備を手伝うことになった。
まずは、クロが作ったという「世界樹の陶器」のティーポットを用意する。ロッソから借りてきた最高級の湧き水を沸かし、そこへボタンが厳選したハーブを投入する。
やがて、ティーポットの注ぎ口から、白く柔らかな湯気が立ち上り始めた。
それは、ただの飲み物の香りではなかった。
草原を吹き抜ける風のような爽やかさと、日だまりの温かさを同時に感じさせる、魔法の香りだ。
「さあ、ここで主役の登場だ」
ボタンが魔法で蓋を開け、スプーン一杯分の琥珀色のハチミツを、カップに注がれた黄金色の茶の中に垂らした。
ハチミツはゆっくりと渦を巻きながら溶け込み、茶の色に深みを与えていく。
「さあ、飲んでみて。ミーナちゃんの想いと、僕の庭の精髄を合わせた一杯だ」
ハルはおそるおそる、カップに口を寄せた。
舌の上に乗った瞬間、まず感じたのは圧倒的な「優しさ」だった。
ハチミツの濃厚な甘みが、ハーブの爽やかな苦みを包み込み、喉を通る瞬間に身体の芯からじわりと熱が広がっていく。
前世で、徹夜明けに飲んだ安物の缶コーヒーとは対極にある味。心臓の鼓動が穏やかになり、指先(肉球)の末端まで、魔法の力が栄養となって行き渡るのがわかる。
「……美味しい。身体が、ふわふわ浮いてるみたいだ」
「だろう? またたびの成分を少し混ぜてあるからね。猫の身体には最高のリラックス効果があるんだ」
ボタンも自分の分を一口啜り、幸せそうに目を細めた。
隣ではゴロが、あまりの心地よさに、しっぽをゆったりと左右に振りながら、既に半分ほど夢の世界へ足を踏み入れていた。
「……うむ。これは……会議の前に飲んだら、全員そのまま寝ちまって、何も決まらなくなるな……ぐぅ……」
「村長、まだ寝るには早いですよ。せっかくボタンさんが淹れてくれたんですから」
ハルが苦笑しながら突っ込むと、ボタンは銀鼠色の耳をピクリと動かして笑った。
「いいんだよ、ハルくん。ここでは、寝ることが一番の仕事なんだから。……僕はね、この庭を、いつかミーナちゃんが戻ってきた時に『やっぱりここが一番落ち着く』って言ってもらえる場所にしたいんだ。エルフの里も立派だけど、このもふもふした隠れ里の温かさは、僕たちにしか作れないものだからね」
ボタンの言葉に、ハルは改めて自分の周囲を見渡した。
世界樹の根に守られた、黄金色の光が満ちる庭。
かつては「効率」や「成果」のために土を弄っていたボタンが、今はただ「誰かの安らぎ」のために花を育てている。
自分もまた、かつては「システム」を動かすために神経を削っていたが、今はこうして、友人と共に一杯のお茶を楽しむために時間を使っている。
猫になるということは、単に姿が変わるということではない。
「何が自分にとって大切か」を、もう一度選び直すチャンスをもらったということなのだ。
やがて、お茶の香りに誘われて、他の村人たちも三々五々集まってきた。
看護師のネネ、大工のクロ、シェフのロッソ。
抱っこサイズの猫たちが、ボタンのハーブガーデンの柔らかい土や、日当たりの良い石の上に思い思いの格好で集まり、ハチミツを添えたまたたび茶を楽しむ。
「あら、このハチミツ。美容にも良さそうね」
ネネが、ハチミツ入りの茶で髭を濡らしながら言う。
「贅沢なもんだ。俺たちが人間だった頃にゃ、こんな時間は一分もなかったぜ」
クロが、木のカップを器用に肉球で挟んで持ち上げながら、しみじみと呟いた。
広場には、喉を鳴らす「ゴロゴロ」という音が合奏のように響き渡る。
それは、世界で一番平和な音楽だった。
ミーナが残してくれた琥珀色の贈り物は、猫たちの心をさらに一つに繋げ、新しい村人・ボタンの庭に、また新しい幸せの種を蒔いたようだった。
「……さて。ハルくん。お茶の後は、どうする?」
ボタンが、既に眠りこけている村長をチラリと見て尋ねた。
ハルは、世界樹の葉から漏れる黄金色の光を浴びながら、大きく欠伸をした。
「決まってますよ、ボタンさん。……最高の『二度寝』の場所を探しに行きましょう」
世界樹のふもと、もふもふたちの隠れ里。
そこには、琥珀色の甘い余韻と、銀鼠色の庭師が守る穏やかな香りが、いつまでも、いつまでも漂っていた。




