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第五話:空飛ぶ影と、静かなる守護者

 世界樹の頂が黄金色に染まる午後。それは、この村で最も「まどろみ」が深くなる時間帯だ。

 エルフの少女ミーナは、クロが作ってくれたコテージのテラスで、ハルと一緒に毛玉転がしで遊んでいた。ハルが器用に前足で転がす毛玉を、ミーナが笑いながら追いかける。その様子を、下の広場で日向ぼっこをしていたゴロが、片目だけを開けて満足げに眺めていた。

 しかし、その平和な空気は、一瞬にして切り裂かれた。

 世界樹の遥か上空、光を遮るような大きな影がいくつも落ちた。

「……っ!?」

 ハルの耳が、これまでにない鋭さで後ろを向いた。野生の血が、背筋に冷たい警告を走らせる。

 見上げれば、そこには十数羽の巨大な鴉――「大嘴鴉おおばしがらす」の一群が、鋭い爪を剥き出しにして急降下してくるところだった。

「ミーナ、伏せろ!」

 ハルが叫ぶのと同時に、鴉の一羽がテラスに降り立ち、その巨大な嘴でミーナの肩を狙った。ミーナは悲鳴を上げて身を縮める。エルフの里でも恐れられているこの鴉は、小動物や子供を攫うことで知られる森の略奪者だ。

 だが、その鴉がミーナに触れることはなかった。

 ドォン! という、地響きのような衝撃音。

 いつの間にかテラスの欄干に音もなく着地していた村長ゴロが、その「でぶっちょな」身体からは想像もつかない速度で、鴉の側頭部に強烈な一撃を見舞ったのだ。

「……誰の許可を得て、俺たちの昼寝を邪魔してるんだ?」

 ゴロの声は低く、そして冷たい。

 鴉は一撃でテラスから吹き飛ばされ、地面に叩きつけられた。他の鴉たちが、仲間の窮地に逆上して一斉に急降下を開始する。

 その瞬間、村中の至る所から、信じられない光景が繰り広げられた。

 木の上で寝ていた黒猫のクロが、しなやかな跳躍で空中の鴉を捕らえ、そのまま地面へと叩き伏せる。洗濯物を干していたネネが、鋭い爪を一閃させ、鴉の翼を正確に切り裂く。

 

 彼らは武器を持たない。ただ、前世の知恵によって練り上げられた「魔力」と、猫本来の「超反応」を組み合わせた、究極の護身術を使いこなしていた。

「ハル、右だ!」

 ゴロの指示に、ハルも即座に反応した。

 襲いかかってきた鴉の懐に飛び込み、柔らかい肉球を相手の胸元に当てる。

「……ごめんね、ちょっと痛いよ」

 ハルの魔力が肉球を通じて爆発的に解放された。衝撃波が鴉を森の奥へと吹き飛ばす。

 わずか数分の出来事だった。

 最強の略奪者であったはずの大嘴鴉たちは、自分たちが手を出してはいけない存在に触れてしまったことを悟り、悲鳴を上げて逃げ去っていった。

 静寂が戻った広場で、ミーナは呆然と立ち尽くしていた。

 自分を助けてくれたのは、いつも一緒に笑い、お風呂の水を怖がっていた、あの愛らしい猫さんたちなのだ。

「……みんな、すごい。あんなに強いなんて……」

 ミーナが呟くと、ゴロはいつの間にか元のおおらかな表情に戻り、首のスカーフを整えながら笑った。

「はっはっは! 驚かせちまったな。……だが、言っただろ? 俺たちは平和が好きだが、それを邪魔されるのは大嫌いなんだ」

 その時、村の入り口から、重厚な鎧の擦れる音と、緊張感に満ちた気配が近づいてきた。

「ミーナ! ミーナ、そこにいるのか!」

 現れたのは、銀色の鎧に身を包んだエルフの捜索隊だった。彼らは武器を構え、伝説の「ケットシー」が住むという恐ろしい森の深部に足を踏み入れたことに、極度の緊張を隠せずにいた。

 しかし、彼らが目にしたのは、恐ろしい魔物などではなかった。

 そこには、泥だらけだったはずの服を綺麗に洗い、髪を整え、ふかふかの猫たちの真ん中で笑顔を浮かべる、愛娘の姿があった。

「お父様!」

 ミーナが捜索隊の先頭にいた男性の元へ駆け寄る。

 エルフの隊長は娘を抱きしめ、それから驚愕の表情で、周囲に座る猫たちを見渡した。

「……お前が、この子を助けてくれたのか? ケットシーの賢者たちよ……」

 ゴロはのっそりと前に出ると、エルフの隊長に対し、礼儀正しく頭を下げた。

「助けたなんて、大袈裟なもんじゃない。ただの迷子を預かっていただけだ。……さあ、迎えが来たなら帰りなさい。お家の人たちが心配しているぞ」

 別れの時間は、唐突に訪れた。

 ミーナは何度も振り返り、猫たち一人一人の名前を呼び、その毛並みに顔を埋めた。

「ハルさん、ゴロさん、ネネさん、クロさん、ロッソさん……みんな、大好き! 絶対に忘れないわ!」

 ハルは、持っていた小さな布袋をミーナの手に握らせた。

「これ、お土産。……『またたび茶』だよ。人間やエルフが飲むと、すごくリラックスして、些細な喧嘩なんてどうでもよくなる魔法のお茶なんだ。里の偉い人たちに飲ませてあげて」

 それは、前世でストレスに晒され続けた彼らが、この世界で平和に暮らすために開発した究極の逸品だった。

「……ありがとう。また、会いに来てもいい?」

「ああ。いつでも歓迎する。……ただし、次に来る時もお風呂は一人で入ってくれよな」

 ハルの言葉に、ミーナは泣き笑いの顔で頷いた。

 エルフの一行が森の霧の中に消えていくのを、ケットシーたちは世界樹の根の上から静かに見送った。

 姿が見えなくなるまで、ミーナは何度も手を振っていた。

 やがて、森に完全な静寂が戻る。

 ゴロが大きく欠伸をして、その場でゴロンと横になった。

「……ふぅ。一仕事した後の昼寝は、格別だろうな」

「そうですね。……でも、少しだけ、村が静かになりすぎた気がします」

 ハルも隣に座り、ミーナがいたテラスを見上げた。

「……何言ってるんだ、ハル。俺たちは猫だ。静かなのが一番なんだよ」

 クロが工房の入り口で鼻を鳴らす。

「でもよ、あのお嬢ちゃんが置いていった『お礼』、早く開けようぜ」

 ロッソが持ってきたのは、ミーナが別れ際に渡してくれた、エルフの里特産の最高級ハチミツだった。

「よし、今夜のデザートはこれだな! ……だがその前に」

 ゴロが目を閉じ、満足げに喉を鳴らす。

「……お昼寝の時間だ」

 黄金色の粒子が舞う、世界樹のふもと。

 そこには、最強の実力を持ちながら、それを誇示することもなく、ただ平和と眠りを愛する風変わりな猫たちが住んでいる。

 明日も、明後日も、彼らは美味しいご飯を食べ、日当たりの良い場所を探し、そして時々、迷い込んだ誰かを幸せにして、また眠りにつくのだろう。

 世界樹のふもと、もふもふたちの隠れ里。

 そこは今日も、世界で一番温かな「まどろみ」に満たされていた。


(第一部 完)

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