第四話:湯煙の恐怖と、お嬢様の特別な時間
世界樹のふもとの朝は、いつも清浄な空気に満ちている。
だが、その日の朝は、少しだけ様子が違っていた。村の中央広場に集まった猫たちが、一様に神妙な顔をして、あるいは耳を後ろに伏せて「イカ耳」になりながら、一人の少女を囲んでいたのである。
「……ええっ、本当にお湯に入るのかい、お嬢ちゃん?」
村長のゴロが、信じられないものを見るような目でミーナを見上げた。その琥珀色の瞳には、明らかな困惑と、ほんの少しの「恐怖」が混じっている。
ミーナは不思議そうに首を傾げた。彼女の銀色の髪はネネのブラッシングで美しく整えられているが、エルフの少女としての本能が、何日も身体を洗っていないことに小さな不快感を訴えていたのだ。
「はい。エルフの里では、三日に一度は温かいお湯を溜めて、身体を洗うんです。そうしないと、森の精霊さんが離れていってしまうって言われていて……」
その言葉を聞いた瞬間、周囲の猫たちが一斉に「ヒッ」と短く息を呑み、一歩ずつ後ずさりした。
猫という種族にとって、身体を水に濡らすことは、生命の危機にも等しい大事件だ。彼らにとっての清潔とは、自慢の舌で念入りに毛を舐める「グルーミング」か、太陽の光を浴びて殺菌する「日光浴」を指す。
「水に……それも、全身浸かるなんて……」
元・看護師のネネでさえ、顔をこわばらせて自分の美しい三毛の毛並みを抱きしめた。
「衛生管理は大切だけど、それはブラッシングと蒸しタオルで十分じゃないかしら? 水に浸かるなんて、そんな……拷問のような……」
ハルは、苦笑しながらその様子を眺めていた。
前世の彼は、仕事帰りの銭湯や、冬の露天風呂をこよなく愛する日本人だった。だが、今の身体は正直だ。ミーナの「お風呂に入りたい」という言葉を聞いた瞬間、背中の白い毛が逆立ち、しっぽがいつの間にか太くなっていた。
(理屈では分かってるんだ。お風呂は気持ちいいって。でも、今の俺の脳が『全力で逃げろ』って叫んでる……)
しかし、ミーナの困ったような、どこか寂しげな表情を見ると、ハルの「元・人間」としての理性もしっかりと目を覚ました。
「……みんな、落ち着いて。ミーナは僕たちとは違う種族なんだ。猫にとっての水は天敵だけど、人間やエルフにとっては、お風呂は心と体を癒やす最高の文化なんだよ」
ハルがそう宥めると、ゴロが重々しく頷いた。
「……ハルの言う通りだな。俺たちの常識を客人に押し付けるのは、村長の面目に関わる。……だが、困ったぞ。この村には『風呂』なんて施設はどこにもねえ」
そこで名乗りを上げたのは、やはり黒猫の棟梁、クロだった。
「へっ、面白そうじゃねえか。前世でも『檜風呂』ってのは職人の憧れだったからな。……ハル、お前が言ってた『オンセン』ってやつの構造、詳しく教えてみろ。俺が形にしてやる」
こうして、ケットシーたちの総力を挙げた「ミーナのためのお風呂計画」が動き出した。
場所は、世界樹の根元を流れる、クリスタルのように透き通った小川のほとりに決まった。
まず、クロが世界樹から授かった香りの良い銘木を切り出し、見事な円形の湯船を組み上げた。釘を一切使わず、木と木を噛み合わせる伝統技法だ。木の表面は、ミーナの肌を傷つけないよう、ハルが魔法と研磨石でシルクのように滑らかに磨き上げた。
問題は「お湯」をどうするかだった。
「俺に任せな。火加減こそ、シェフの真骨頂だろ?」
サビ猫のロッソが、どこからか大きな魔石を運んできた。それは熱を蓄える性質を持つ「紅蓮石」だ。
「こいつを小川から引き込んだ水路の途中に設置する。石の温度を魔力で調整すれば、蛇口を捻るだけで適温のお湯が出るって寸法よ。スープの温度管理に比べれば、風呂の湯加減なんてお茶の子さいさいだ」
猫たちは、水に濡れないように細心の注意を払いながら、驚くべきスピードで工事を進めていった。
彼らが水を怖がっているのは一目瞭然だった。湯船に水を張る際、水しぶきが飛ぶたびに、周囲で作業していた猫たちが「フギャッ!」と声を上げて木の上に飛び上がる。その光景は、ミーナの目にはとても可笑しく、そして愛らしく映った。
「みんな、私のためにあんなに怖がって……」
ミーナが申し訳なさそうに呟くと、ネネが優しく寄り添った。
「いいのよ、ミーナちゃん。私たちは、あなたの笑顔が見たいだけなんだから」
数時間後、川べりには小さな、しかし贅沢な露天風呂が完成した。
湯船からは、世界樹の木肌が放つ清々しい香りと、温かな湯気が立ち上っている。周囲はクロが作った竹垣で囲われ、プライバシーも守られている。
「さあ、ミーナ。お湯が冷めないうちに入ってきなよ」
ハルに促され、ミーナは着替えて湯船へと足を入れた。
「……ふわぁ……あったかい……」
ミーナの身体が、ゆっくりとお湯に沈んでいく。
世界樹の魔力を帯びた水は、驚くほど柔らかく、一日の疲れと不安を優しく解きほぐしていくようだった。
「すごい……。里のお風呂よりも、ずっと気持ちいい。身体が、ポカポカして、精霊さんたちが喜んでるのがわかるわ」
竹垣の外では、猫たちがそわそわしながら待機していた。
「おい、ハル。本当にお嬢ちゃんは大丈夫なのか? 溺れてないか? 溶けてないか?」
ゴロが心配そうに耳をピコピコさせている。
「大丈夫ですよ。ほら、あんなに幸せそうな声が聞こえるじゃないですか」
湯気の向こうから聞こえるミーナの鼻歌を聞いて、ようやく猫たちは安堵の溜息をついた。
すると、ロッソがニヤリと笑って、持ってきた籠を置いた。
「風呂上がりには、これが欠かせねえだろ?」
そこに入っていたのは、冷たい湧き水で冷やされた、森の果実を絞ったフレッシュジュースだった。
しばらくして、お風呂から上がってきたミーナを見て、猫たちは息を呑んだ。
お湯に浸かったことで、彼女の肌は桃色に上気し、銀色の髪はいっそうの輝きを増している。何よりも、その表情が、村に来たばかりの頃の怯えた子供のものではなく、心からリラックスした、一人の少女の笑顔に変わっていた。
「みんな、本当にありがとう! 最高の気持ちだったわ!」
ミーナが駆け寄り、一番近くにいたハルを抱きしめようとした。
「うわっ、待って、ミーナ! まだ身体が濡れてる! 水が、水がああああ!」
ハルは必死で逃げ惑い、それを見た他の猫たちも一斉に散り散りになった。
「あはは! 猫さんたち、やっぱりお水は嫌いなのね」
ミーナの明るい笑い声が、世界樹の森に響き渡る。
その夜、ミーナはクロが作ったハンモックの中で、今までにないほど深い眠りについた。
猫たちは、少し離れた場所で、焚き火を囲んで「お風呂会議」をしていた。
「……なあ、ハル。お嬢ちゃんがあんなに喜ぶなら、その……『足湯』くらいなら、試してみてもいいかもしれねえな」
ゴロが、恐る恐る自分の太い足を眺めながら言った。
「おっ、村長、勇気ありますね。じゃあ、明日はみんなで足を洗ってみますか?」
「いや、それはまだ早い! 来月……いや、来年くらいに検討しよう!」
結局、猫たちの「お風呂嫌い」が治ることはなかった。
けれど、自分たちの苦手なものを超えて、誰かの幸せのために知恵を絞る。それが、かつて人間だった彼らが、このもふもふの身体で見つけた、新しい「豊かさ」の形だった。
世界樹の影で、湯気が夜空の星に溶けていく。
もふもふたちの隠れ里は、今夜も湿り気のない、カラリとした平和に包まれていた。




