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第二話:魔法のブラシと、三毛猫さんの特等席

 世界樹の朝は、光のさざなみと共に訪れる。

 遥か上空、雲を突き抜けるほど高くに広がる天蓋のような枝葉から、朝露がひと雫、またひと雫と、森の奥深くへと零れ落ちていく。その雫が途中の葉に当たり、水晶のような音を奏でるのが、この村の目覚まし時計代わりだ。

 ハルは、世界樹の太い根っこが作り出した天然の窪みの中で目を覚ました。

 すぐ隣では、昨日保護されたばかりのエルフの少女、ミーナが、ハルが前世の記憶を頼りに集めてきた「極上の柔らかさ」を誇る水苔と、綿毛草を編んだ即席の寝床で、まだ小さな寝息を立てている。

「……ふわぁ、よく寝た」

 ハルは前足をピンと伸ばし、大きく欠伸を一つ。ラグドール特有のふさふさした白い毛が、朝の光を浴びて真珠色に輝いている。

 かつてのハルなら、この時間は満員電車に揺られ、死んだ魚のような目でスマホを見つめていたはずだ。しかし今の彼は、次にどの場所で二度寝をするかだけを考えればいい。この世界に転生して、最も幸福だと感じる瞬間だった。

「おや、新入り。お目覚めかい?」

 入口を塞いでいた大きな影が動いた。

 村長のゴロだ。彼は既に活動を始めていたようで、その茶トラ白の毛並みには、朝露が光る森の匂いが染み付いている。ゴロはそっとミーナの様子を窺うと、満足げに目を細めた。

「まだ寝かせておいてやりな。エルフの子供にとって、この森の深部は魔力酔いを起こしやすい。……さて、お嬢ちゃんが起きる前に、身だしなみを整える準備をしないとな」

 ゴロがそう言った直後、軽やかな足音が聞こえてきた。

 現れたのは、見事な三色の模様を持った一匹の猫だった。サイズはハルやゴロと同じ、大人の人間に抱っこされるのにちょうどいい、愛らしい大きさ。だが、その足取りには、熟練のプロフェッショナルが持つ独特の無駄のなさが宿っている。

「おはよう、ゴロさんにハルくん。……あらあら、この子が例のお客さまね?」

 彼女の名前はネネ。この村の「健康管理」を一手に見守る、元・人間の看護師だ。

「ネネさん、おはようございます。朝からすいません」

「いいのよ、ハルくん。こういう困った子を放っておけないのは、前世からの職業病みたいなものだから」

 ネネさんはそう言って、器用に口に咥えてきた小さな籠を、ハルの足元に置いた。

 籠の中には、不思議な形をした道具がいくつか入っている。どれもが世界樹の枝や、魔力を帯びた鉱石を加工して作られた、この村の特製品だ。

 その時、寝床のミーナが、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

「……う、ん……ここは……」

 まだ現実と夢の境界にいるような、うつろな瞳。しかし、目の前に座る「二足歩行の三毛猫」の姿を認めた瞬間、彼女の身体がこわばった。

「あ、おはよう。驚かなくていいわよ」

 ネネさんは、まるで小さな子供をあやすような、柔らかく、けれど芯の通った声で語りかけた。

 彼女はミーナに近づきすぎず、かといって遠すぎない距離でちょこんと座り、一瞬だけ自分の喉を「ゴロゴロ」と鳴らした。それは猫たちが相手を安心させるために使う、癒しの周波数だ。

「あなたの名前は、ミーナちゃんって言うのね? 私はネネ。……少し、背中を借りるわね。昨日の森の汚れを落としてあげましょう。女の子は、綺麗にしているだけで元気が湧いてくるものよ」

 ネネさんは籠の中から、一本のブラシを取り出した。

 世界樹の古枝を削り出し、白銀の魔獣のたてがみを植え込んだそのブラシは、一見するとただの民芸品に見える。しかし、それはケットシーたちが誇る「魔法の道具」の一つだった。

 ネネさんはミーナの背後に回ると、優しく、しかし確かな手つきで銀色の髪をとかし始めた。

「……ん、……あったかい……?」

 ミーナが驚いたように声を漏らす。

 ブラシが髪を通るたび、淡い黄金色の光が霧のように舞い上がった。髪に絡みついていた泥や、森の棘、そして不安という名の心の澱までもが、その光の中に溶けて消えていく。

「これは『浄化のブラシ』。私たちの毛づくろい(グルーミング)と同じでね、汚れだけじゃなくて、体の中の悪い魔力も整えてくれるのよ」

 ネネさんの手の動きは、まさに神業だった。猫の肉球は、物を掴むには不便に見えるが、彼女たちは繊細な魔力の操作でそれを補っている。ブラシの毛先がミーナの頭皮を刺激するたびに、少女の表情から険しさが消え、トロンとした恍惚の色が浮かんでいった。

 傍らで見ていたハルは、その光景に感心するしかなかった。

「ネネさんのブラッシング、僕も受けたいなぁ……」

「ふん、ハル、お前は後で自分でやりな。……だが、見てみろ。ようやくお嬢ちゃんの顔に血色が戻ってきた」

 ゴロが言う通り、ミーナの頬はうっすらと桜色に染まり、昨夜の憔悴が嘘のように消えていた。

「さあ、仕上げよ」

 ネネさんは仕上げに、世界樹の花から採取した蜜蝋のバームを、ミーナの指先や頬に薄く伸ばした。爽やかな森の香りと、甘い花の匂いが辺りに広がる。

 ミーナは自分の手を見つめ、それからネネさんのふかふかの身体をじっと見つめた。

「……ありがとう、猫さん」

「いいのよ。これでお姫様の出来上がりね」

 お洒落が終わる頃には、ミーナの緊張はすっかり解けていた。

 彼女は勇気を出して、ネネさんの三色の毛並みに、そっと指先で触れた。

「わあ、……ふわふわ。あったかい。……猫さんたち、みんなお日様の匂いがする」

 その言葉に、村長ゴロが大きな腹を揺らして笑った。

「はっはっは! そりゃあそうさ。俺たちの半分は、お日様と昼寝で出来ているからな」

 しかし、お洒落の次は、現実的な問題が待っている。

 ミーナのお腹から、小さく「ギュルル」という音が鳴ったのだ。

 少女は真っ赤になって顔を伏せたが、猫たちは誰も笑わなかった。むしろ、彼らにとって「食事」こそが、人生(猫生)における最優先事項なのだ。

「おっと、いけない。村長、お嬢ちゃんの朝ごはんの用意、どうなってる?」

 ネネさんが鋭い目でゴロを問い詰める。

「安心しろ。今日のために、最高の『コック』を呼んである。ハル、あいつのところへ案内してやれ」

 ハルとミーナは、ゴロとネネに連れられ、村の中央にある広場へと向かった。

 世界樹の太い根がアーチ状に重なり、天然のドームのようになっているその場所には、既に数匹の猫たちが集まっていた。

「よお、お客さまのお出ましだな!」

 出迎えたのは、エプロンのような布を首に巻いた、サビ猫のロッソ。前世でイタリアンシェフをしていたという彼は、自慢の髭をピンと立てて、大きな石のテーブルの前に立っていた。

「ゴロの旦那から聞いたぜ。エルフのお嬢ちゃんだろ? 胃腸が繊細な種族だってことは分かってる。だから、変なものは出さない。……俺が作るのは、『魂のスープ』だ」

 ロッソはそう言うと、石の鍋にたっぷりと張られた澄んだ水の中に、次々と食材を投入していった。

 世界樹のふもとで採れた、朝摘みの聖域野菜。

 清流で一晩かけて血抜きをした、身の締まった白身魚。

 そして、数種類の秘伝のハーブ。

 猫人たちは、普段から「カリカリ」と呼ばれる保存食を食べることもあるが、それはあくまで非常食や「おやつ」の話だ。元人間である彼らにとって、食事とは文化であり、楽しみであり、おもてなしの心そのものだった。

「さあ、召し上がれ。味付けは、ほんの少しの岩塩と、この森の恵みだけだ」

 差し出されたのは、木の器に入った黄金色のスープ。

 ミーナは恐る恐る、スプーン(これもクロさんが急ぎで作った木製だ)で一口、スープを啜った。

 その瞬間、ミーナの瞳が大きく見開かれた。

「……おいしい……」

 それは、派手な味ではない。けれど、身体の隅々までじんわりと温かさが染み渡るような、深く、優しい味だった。野菜の甘みと魚の旨味が、世界樹の清らかな水の中で完璧に調和している。

 ミーナは夢中でスープを飲み進めた。その様子を見て、ロッソは満足げに喉を鳴らし、ハルやゴロも自分たちの分の食事(こちらは少しだけ豪華な魚の香草焼きだ)に取り掛かった。

 食事の間、ハルはミーナに、この村のことを少しずつ話して聞かせた。

 自分たちがかつて人間だったこと。

 なぜか猫の姿でこの世界にやってきたこと。

 そして、この村には喧嘩も戦争もなく、ただ平和にお昼寝をすることを目指していること。

「ねえ、ハルさん……。外の世界では、ケットシーは『恐ろしい森の番人』だって言われているの。……でも、全然違うんだね」

 ミーナが不思議そうに首を傾げる。

「番人、か。まあ、間違ってはいないよ」

 ハルは、遠くの森を見つめながら答えた。

「僕たちは平和が好きだけど、自分たちの『平和な昼寝』を邪魔されるのは、もっと嫌いなんだ。だから、しつこい奴が来たら、ちょっとだけ爪を立てることもある」

 ハルの言葉に、ミーナは少しだけ身を縮めたが、すぐにネネさんが彼女の背中をポンと叩いた。

「大丈夫よ。ミーナちゃんは私たちの『家族』だもの。私たちが守ってあげるわ」

 食後の穏やかな時間が流れる。

 お腹がいっぱいになったミーナは、昨日までの不安が嘘のように、ネネさんのふかふかの毛並みに寄りかかって、再び眠気を催していた。

 ネネさんは嫌がる風でもなく、むしろ嬉しそうに自分の尻尾をミーナの足元に巻き付けてやる。

「ねえ、ネネさん。……どうしてそんなに優しいの?」

 眠りにつく直前、ミーナが小さく尋ねた。

 ネネさんは、遠い空を見上げるような目で、穏やかに微笑んだ。

「……そうね。前世では、みんな忙しすぎて、誰かに甘えることも、誰かをゆっくり甘やかしてあげることも、忘れちゃってたのよ。だから、猫になった今は、その分をたっぷりとやり直しているだけ」

 世界樹の葉を通り抜ける風が、サラサラと心地よい音を立てる。

 黄金色の木漏れ日の中で、三毛猫の看護師とエルフの少女が寄り添う光景は、まるで一枚の美しい絵画のようだった。

 ハルはその隣で、自分も丸くなりながら思った。

 この村に迷い込んだのは、ミーナだけではない。自分たちもまた、人生という長い迷路を歩き続け、ようやくこの「ひだまり」という目的地にたどり着いた迷子なのだ。

「さて……。お嬢ちゃんも寝たことだし、僕も一眠りしますかね」

 ハルが呟くと、隣のゴロが「ぐー……」と、既に大きないびきを返してきた。

 世界樹のふもと、もふもふたちの隠れ里。

 そこには今日も、種族も過去も超えた、温かなまどろみが満ち溢れていた。


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