第一話:黄金色のまどろみと、森の迷い子
世界樹の葉が風に揺れる音は、まるで天から降り注ぐさざなみのようだった。
遥か数千メートルの上空、雲を突き抜け、星に届かんとする巨木の天蓋。そこで幾千、幾万の葉が重なり合い、こすれ合う音は、地上に届く頃には、形を持たない柔らかな「静寂の調べ」へと変わる。
その世界樹のふもとでは、時間は物質的な重みを失い、甘い蜜がゆっくりと滴るように流れている。
天から届く陽光は、何層もの緑のフィルターを通り抜けるうちに、鋭さを削ぎ落とされた。それは地上に届く頃には、微細な黄金色の粒子となって空間を漂い、触れるものすべてを優しく包み込む「陽だまり」の海を作り出していた。
「……ふぁ……あ……。……極楽、すぎて、脳が溶ける……」
ハル――かつて人間界でシステムエンジニアとして、青白いモニターの光と、終わりのないデバッグ、そして深夜の静寂に身を削っていた男は、いまや一之瀬ハルという名を過去に置き去り、一匹のラグドールとしての至福を全身で享受していた。
彼は今、世界樹の太い根がうねり、天然の揺りかごのように形作られた窪みの中で、仰向けに転がっている。
ふかふかの、雪のように白い腹毛を無防備に太陽へとさらし、四本の足を幽霊のように力なく投げ出している。猫の身体というのは不思議なものだ。ただ日光を浴びているだけで、細胞のひとつひとつが喜びに震え、幸福という名のエネルギーが体内で生成されるような感覚がある。
ふわり、と風が吹く。
肉球の隙間から生える長い飾り毛が揺れて、くすぐったい。喉の奥からは、自分でも制御できない「ゴロゴロ」という低周波の音が漏れ出していた。前世では、この音を聞く側だった。まさか自分が奏でる側になるとは。
(キーボードを叩く音も、サーバーの唸る音も、ここでは聞こえない。聞こえるのは風の歌と、誰かの欠伸の音だけだ……)
ハルは重い瞼を半分だけ開けた。
視界の端に映るのは、世界樹の根に直接彫り込まれたような小さなテラス。そこには、同じように転生してきた「かつての人間」たちが、今は毛深い小さな隣人として、思い思いの場所でまどろんでいる。
ここ「木漏れ日の村」の住人は、みな一度人間としての生を終え、なぜかこの姿でこの森に辿り着いた者たちだ。共通しているのは、誰もが「もう、あくせく働くのはおしまいだ」と心に決めていることだった。
「おい、ハル。そんなところで液体みたいに溶けてると、根っこに飲み込まれて世界樹の栄養にされちまうぞ」
頭上から、からかうような低い声が降ってきた。
ハルが視線をずらすと、逆光の中に堂々たるシルエットが立っていた。
茶トラ白の毛並みに、はち切れんばかりに豊かな体格。村長のゴロだ。
ゴロのサイズは、普通の飼い猫よりは一回り大きいが、大人の人間が両手で抱え上げれば「おっと、重いな」と笑いながら膝に乗せられる程度の、愛らしくも安心感のある大きさだ。首に巻かれた古びた赤いスカーフが、パンパンに張った首肉に半分ほど埋もれている。
「ゴロさんか……。いいじゃないですか、世界樹の栄養になれるなら、エンジニアとしてバグに食われるより数倍マシですよ」
「はっ、違いない。だが、そろそろ『定例会議』の時間だ。重い腰を上げろ。いつまでもそんな無防備な格好でいると、村の威厳に関わる」
ゴロはそう言うが、彼自身の瞳も、日差しにあたって細い糸のようになっている。説得力は皆無だった。
ハルは重い腰を上げ、前足を遠くへ伸ばして、背中を弓なりに反らせた。
猫の身体を動かすたびに感じる、この「しなやかさ」。筋肉がほぐれ、血流が肉球の先まで行き渡る感覚は、どんなマッサージよりも心地よい。ハルはひらりと、無音で地面に着地した。世界樹のふもとを覆う苔は、手入れの行き届いた高級絨毯のように厚く、冷たく、瑞々しい。
「今日の会議の議題は、たしか……」
「ああ。『今夜のメインを、清流で獲れた銀魚の塩焼きにするか、それとも森のキノコを和えた鳥肉のコンフィにするか』だ。村の士気に関わる死活問題だからな」
ゴロは大真面目な顔で、太い尻尾をゆっくりと左右に振った。
この村に「仕事」はない。あるのは、自分たちが食べる分だけを工夫して調理し、残りの時間をどれだけ豊かに、どれだけ深く眠るかという、徹底した「生の追求」だけだ。
二匹は、世界樹の根が複雑に編み上げて作った天然の階段を登り、村の中央にある広場へと向かう。
道すがら、前世で腕利きの職人だったという黒猫が、器用に爪を使って木製のキャットウォークを修理しているのが見えた。
鼻をくすぐるのは、世界樹が放つ清浄な魔力の香りと、どこか懐かしいお日様の匂い、そしてあちこちの家から漂う、出汁の効いた美味しそうな料理の香りだ。
かつてのハルが食べていたのは、コンビニのパンや、デスクに置かれた冷めたコーヒーだった。
だが今は違う。ここには、前世で培った料理の知識や、工学の知識、医学の知識を、すべて「自分たちの快適さ」のためだけに注ぎ込む、贅沢な時間が流れている。
「……ん?」
ふいに、前を歩いていたゴロが足を止めた。
黄金色の耳が、精密機械のような動きでピクリと後ろを向き、鼻先が空気を鋭く捉える。
それまでの「呑気なデブ猫」の空気感が、一瞬にして消え去った。
ゴロの重心がわずかに下がり、毛並みの下に隠れたしなやかな筋肉が、鋼のように引き締まる。ハルもまた、野生の血が騒ぐのを感じて、即座に身体を低くした。
「……ハル、風が変わったぞ。お日様の匂いに、混じり気が入った」
猫の嗅覚は、数キロ先の微かな変化すら見逃さない。届いてきたのは、湿った土の匂い、シダ植物の苦み、そして――強烈な「怯え」の匂いだ。
「あっちの『根っこの三番通り』の裏ですね。……かなり、震えてます」
「ああ。行くぞ。村の境界で誰かが震えてるのを、放っておくほど俺たちは薄情じゃない」
ゴロは音もなく地を蹴った。でぶっちょに見えるその身体からは想像もつかないほど、その動きは疾風のように速く、そして美しい。ハルもその後を追って、新緑の影を縫うように走った。
村の境界線。巨大な世界樹の根がアーチを描き、陽光が届かない深い影を作っている場所に、それはいた。
「……っ……ぁ……」
小さく、震える声。
そこにいたのは、村のどの猫よりも――自分たちよりも、さらに一回り小さな、か細い生き物だった。
泥だらけの緑色の服を着て、銀色の長い髪に枯れ葉をつけた子供。
尖った耳は不安げに伏せられ、大きな瞳からは真珠のような涙がこぼれ落ちている。彼女は、目の前に現れた「二本足で立ち、鋭い眼光を放つ二匹の巨猫」を見て、完全に腰を抜かしていた。
「……エルフの、子供か?」
ハルが呟くと、少女はビクッと肩を震わせ、さらに身を縮めた。
彼女の視点から見れば、森の深部、伝説の聖域に足を踏み入れた途端、得体の知れない「猫の姿をした賢者」あるいは「森の番人」に遭遇したのだ。絶望しても無理はない。
だが、ゴロは一歩前に出ると、あえてその場にどっしりと座り込んだ。
そして、前世で数々の難プロジェクトをまとめ上げてきた、あの落ち着いたトーンで喉を鳴らした。
「やれやれ。お嬢ちゃん、そんなに震えるな。……怖いか? 俺たちが。それとも、後ろから追ってきた狼たちが怖いのか?」
ゴロが視線を向けた先、暗い森の奥から、数対の赤い目が光った。
ミーナを追ってきた飢えたフォレスト・ウルフたちだ。彼らはケットシーの村の入り口まで獲物を追ってきたことに、まだ自分たちの愚かさを悟っていないようだった。
「ハル、お嬢ちゃんを守れ。……俺は、少しだけ『爪研ぎ』をしてくる」
ゴロが立ち上がる。その背中は、先ほどまでの「抱っこしたい猫」のものではなかった。
彼は武器を持たない。ただ一歩、音もなく踏み出すだけで、森の魔圧が歪んだ。
世界樹のふもと、黄金色の夕刻が迫る境界線。
平和にお昼寝をしたいだけの猫たちの日常に、小さなお客さまと、それを狙う不届き者が同時に現れた瞬間。
もふもふたちの「本当の力」が、静かに目覚めようとしていた。
「……ミーナ、だったかな。怖がらなくていい」
ハルは少女の前に立ち、しっぽで彼女の足を優しく包んだ。
「ここは世界で一番、平和な場所だから」
少女の瞳に映るのは、夕焼けを浴びて白銀に輝く、優雅で気高いラグドールの後ろ姿だった。




