統合
第八十話 最初の隣人
八時間後にも、寝不足は残っていた。
世界が変わるのだから、もう少し特別な朝になるものだと思っていた。胸が高鳴るとか、覚悟が決まるとか。少なくとも、目くらいはすっきり覚めてほしかった。
実際には、顔を洗った水が冷たかっただけだった。
袖口で顎の滴を拭いながら広間へ入ると、周が待っていた。机の上には、昨夜の資料がきちんと重ねられている。
一番上は、葉が残した紙だった。
――統合後・実際。
まだ何も書かれていないその紙の前に、俺は腰を下ろした。
「城内は?」
「確認を終えています。皆、指示を待っています」
「何かしておくこと、残ってないかな」
周はすぐには答えなかった。俺の顔を見てから、机の資料へ目を落とす。
「昨夜までに確認したものについては、ありません」
「そっか」
「もう一度、確認なさいますか」
思わず頷きかけた。
確認したいのは、準備ではなかった。忘れ物がなければ無事に済むと、誰かに言ってほしいだけだった。
「いや。大丈夫」
そう答えたところで、戸口からカイが顔を出した。
「北西?」
「まだ選んでない」
「北西じゃないの?」
「そのつもりだけど」
「じゃあ北西だね」
カイは納得した顔で入ってきて、窓のそばに立った。いつもの場所だった。これから起こることより、城門のあたりを歩いている誰かのほうが気になるらしい。
俺は、目の前の表示へ視線を戻した。
第三世界と第四世界の統合。
移動先には、四つの方面が並んでいる。
北西。北東。南西。南東。
昨夜、何度も口にした文字だった。それでも、いざ選べるようになると、指が止まった。
今の北西へ戻れるわけではない。
玄の城が、同じ方向にあるとは限らない。朔までの道も、岳が見張っていた場所も、全部なくなる。
名前が同じだけの、知らない土地へ行く。
連絡欄に、玄の文字が現れた。
『俺は北西。先に行くぞ』
俺は急いで返した。
『俺も北西』
『じゃあ向こうで』
それだけだった。
近くに来いとも、一緒に来いとも言わなかった。
俺はその短い返事を読んでから、北西を選んだ。
「決まりましたか」
周が聞いた。
「ああ」
窓辺のカイが振り返る。
「じゃ、行こう」
遠出に誘うような声だった。
俺は一度だけ、窓の外を見た。
見慣れた城壁。その向こうの、見慣れた稜線。
別れの言葉は浮かばなかった。
代わりに、あの山は朝になるとあんな色だったのかと、今さら気づいた。
*
移動が終わったことは、光よりも先に音で分かった。
窓の外で、誰かが声を上げた。
「川だ」
続いて、走る足音がした。
俺は椅子を引くのも忘れて立ち上がり、膝を机にぶつけた。
「痛……」
「何してるの」
「見れば分かるだろ」
「ぶつけたのは分かった」
カイの横へ並ぶ。
山が、なかった。
朝日を受けた平原の向こうに、細い川が見える。右手には林があり、その奥には低い丘が連なっていた。
城壁の形は変わっていない。門の上に立つ兵士も、下から何か叫んでいる男も、見覚えがある。
見覚えのあるものが、知らない景色の中に置かれていた。
「……着いたのか」
「はい」
周の返事を聞いても、しばらく実感が湧かなかった。
昨日まで、あの向こうに自分の土地があった。
そう思って目を向けた場所に、川が流れている。
きれいな川だった。
それをきれいだと思うことに、なぜか少し後ろめたさがあった。
「外へ出る者には、確認が済むまで城門で待つよう伝えてくれ」
俺が言うと、周は頷いた。
「承知しました。城内の確認も、改めて行います」
「頼む」
周が広間を出ていく。
その足音を聞きながら、俺はようやく息を深く吸った。
やることがあると、少し落ち着いた。
机へ戻って地図を開く。
そこにも、知らない川があった。
*
最初に探したのは、砦ではなかった。
玄の城だった。
昨夜までなら、地図を少し動かすだけで見つかった。名前を読まなくても位置で分かった。そこを通って、朔のほうへ目を移して、次に葉を見た。
手が勝手に同じ順番をたどろうとして、止まった。
何もない。
いや、城はある。俺の城も、誰かの城もある。
ただ、覚えている場所に、覚えている名前がなかった。
『着いた。こちらは無事』
まず、それを送った。
間もなく、玄から返事が来る。
『こっちも。場所送る』
届いた位置を地図に示すと、思っていたより遠かった。
同じ北西ではある。
けれど、以前の感覚で兵を出せる距離ではない。
『遠いな』
玄も同じことを思ったらしい。
『そっちから見ても?』
『こっちからなら近いわけないだろ』
俺は少し笑った。
続けて、玄の文が増える。
『まあ、北西にはいる』
強がりのようにも、確認のようにも読めた。
『そうだな』
俺は玄の城に目印をつけた。
空白ばかりだった地図に、一つ、知っている場所ができた。
岳は、位置と周辺の地形をまとめて送ってきた。
『こっちは林が多い。そっちへ真っすぐは行けそうにない』
『まだ来なくていいぞ』
『今行く話じゃない。いざという時だ』
その言葉を読んで、地図を見る目が変わった。
遠いというだけでは足りない。間に何があり、どこを通れるのか。岳はもう、それを考えている。
『道が分かったら教えてくれ』
『分かった』
短い返事のあと、杏から連絡が来た。
『無事。なんか、隣の城が知らない名前だと緊張するね』
『分かる』
『向こうも同じかな』
俺は近くの城を選んだ。
確かに、知らない名前だった。
相手もこちらを見ているかもしれないと思った途端、地図の印が少し違って見えた。
『たぶん』
『じゃあ、あとで挨拶してみる』
杏は、それ以上大げさなことを言わなかった。
俺は自分の返事を読み返した。
地図が変わって最初に考えたのは、仲間がどこにいるかだった。その次は、誰が近くにいるか。
近くにいる誰かへ、何を言うかまでは考えていなかった。
*
律と葉からも連絡が届いた。
律は無事だと伝えたあと、確認できた位置を互いに回すことを提案した。葉はすでに、届いた名前を地図へ書き込んでいるという。
『今、何人分?』
玄が聞く。
『まだ少しです。来ている連絡だけなので』
葉の返事に、律が補足した。
『返事のない方が、移動していないとは限りません。城内の確認をしている可能性もあります』
『分かってる』
そう返した玄から、少ししてまた文が来た。
『朔は?』
俺も気になっていた。
返事を催促しようか迷っていると、ちょうど朔の連絡が届いた。
『います。取得枠を確認していました』
玄がすぐに返す。
『先にいるって言えよ』
『すみません。すぐ終わると思ったので』
『どうだった?』
結局、玄が一番早く続きを聞いた。
俺は画面の前で苦笑した。
朔の返事は、予想していたものだった。
『旧世界分の取得済みの値は残っています。砦による分は、なくなっています』
俺も自分の表示を開いた。
昨夜、紙の上で聞いた数字が、そこにあった。
実際に見ると、余裕のなさがよく分かった。以前なら、このくらいは後で調整すればいいと思えたものが、今は一つずつ気になる。
『土地がないのに、埋まってる』
玄が書いた。
『昨夜のとおりです』
『知ってる。でも実際なると、やっぱり変だろ』
『それは、そうですね』
朔まで同意したので、俺は笑ってしまった。
その笑いが収まってから、六人の名前をもう一度見た。
玄。葉。朔。律。杏。岳。
全員、いる。
誰もそれを改めて言わなかったので、俺も言わなかった。
ただ、さっきまで何度も開き直していた連絡欄を、ようやく少し小さくした。
*
「見つかった?」
カイが椅子の後ろからのぞき込んだ。
「ああ。みんないる」
「じゃあ、いいね」
「遠いけどな」
俺は地図を引いた。
目印が離れていく。七人の城を一度に収めようとすると、一つ一つが小さくなった。
「前より遠い?」
「かなり」
「ふうん」
カイはしばらく地図を見ていたが、やがて俺の肩越しに机を指した。
「そっちは?」
「何が」
「昨日の紙。何か書かないの」
葉が残した白い紙だった。
俺は筆を取った。
どこから書くべきか、少し迷った。取得枠。砦の補正。城の配置。確認できたことなら、もういくつかある。
結局、最初に書いたのは別のことだった。
七人、無事。
カイが読んで、頷いた。
「俺もいるよ」
「知ってる」
「書かないの?」
「目の前にいるだろ」
「六人は書いたのに」
「俺を入れて七人だよ」
「じゃあ八人」
俺は横に、カイも、と小さく書き足した。
カイはそれで満足したらしく、また窓のほうへ行った。
*
晴からの連絡は、少し遅れて届いた。
『着きました! そっちはどんなところですか?』
位置を教えると、すぐに返事が来る。
『川、近いんですね』
『最初にそこ見るんだな』
『魚いそうですか?』
『まだ分からない』
『あとで見に行ってもいいですか』
俺は窓の向こうを見た。
川までの道も、周囲の土地も、まだろくに確認していない。だが、あとで誰かと歩く場所だと思うと、朝からただ知らないものだった景色に、少し親しみが湧いた。
『周りが分かったらな。巨嶽は?』
『います。元気です』
巨嶽が元気なのは心強かった。
晴は続けて書いた。
『第四の人からも連絡が来ました。近ければ一緒に始めたいって』
『前に釣りのことを聞いてた人?』
『そうです。まだ場所を確かめてます』
『同盟、作るのか』
『はい。そのつもりです』
少しも迷いのない返事だった。
『そっちも、決まってなかったら一緒にどうですか?』
俺はすぐには返せなかった。
誰かを支える側に回りたいとは思っている。自分の城を見る時間もほしい。晴と一緒なら楽しそうだとも思う。
けれど、これまで自分が受け取っていた相談や頼み事を、どこまで手放せるのかは、まだ分からなかった。
『もう少し、周りを見てからでもいいか』
『もちろん! 先に川だけでも』
思わず笑った。
『分かった。川は見よう』
晴との約束が、一つできた。
*
周が戻ってきたころには、近くの城の数が増えていた。
さっき見た時には空いていた場所に、新しい名がある。さらに地図を動かすと、別の場所にも城が現れていた。
第三世界と第四世界で暮らしていた君主たちが、それぞれ移動先を決めている。
俺たちだけが新しい朝を迎えたわけではなかった。
「城内に大きな混乱はありません。ただ、城外の作業について問い合わせが来ています」
「以前と同じ場所には行けないもんな」
「はい」
俺は地図を近くへ戻した。
木材を確保するなら、右手の林。
石材は、少し離れている。川の手前にある土地を通れば、その先にも伸ばせそうだった。
そこまで考えたところで、さらに奥の印に気づいた。
砦だった。
近い、と最初は思った。
以前の北西の猫なら、そう思ったはずだった。
けれど、今ここに玄はいない。岳も、朔もいない。地図に名前があることと、兵が届くことは別だった。
俺は周を見た。
「今の兵と資源、確認したい」
「砦へ向かわれますか」
「まだ決めない。決められるようにしておきたい」
周は頷いた。
俺は旧世界の取得分を開き、放棄する候補を探した。
一つ空ければ、一つ取れる。
昨夜、朔が描いた図を思い出す。あの時は、数字だけを残す妙な仕組みだと思った。
今は、その一つをどこに使うかで迷っていた。
林へ行けば、木材が増える。
川の手前へ出れば、砦へ近づける。
どちらも必要だった。
*
地図を見ている途中で、連絡が一件届いた。
差出人は、知らない君主だった。
近くに現れた城の一つ。その名には、もう見覚えがあった。さっき杏とのやり取りで、選んでみた城だった。
『突然のご連絡、失礼します。旧第四世界から移ってきました。お近くになりましたので、ご挨拶をと思いました』
丁寧な文章だった。
俺は背筋を少し伸ばして返した。
『こちらこそ。旧第三世界から来ました。よろしくお願いします』
続けて、こちらも着いたばかりだと書く。
相手の返事は早かった。
『こちらも、まだ周辺を見ているところです。川の東側に砦があるのは、ご覧になりましたか』
筆を持つ手が止まった。
見ていた。
今、まさに。
『確認しました』
そう返してから、次の文を待った。
ほんの短い間だった。けれど俺は、その間に地図を開き直し、相手の城と砦の距離を見ていた。
向こうからも近い。
少なくとも、遠回りをしてまで狙っているわけではなさそうだった。
『私たちは以前の仲間と、あの砦を最初の目標にできないか話しています。そちらのご予定はいかがでしょうか』
俺は椅子に座り直した。
昨夜、律が予想していた話が、もう来た。
しかし、実際に届いた文面には、昨夜みんなで口にしたような強い言葉はなかった。相手は自分たちのものだと言っていない。こちらにどけとも言っていない。
ただ、予定を聞いている。
だからこそ、簡単には返せなかった。
まだ何も決めていないと言えば、関心がないと受け取られるかもしれない。
こちらも狙っていると言えば、決めていないことを決めたように伝えてしまう。
「どうしたの」
カイが戻ってきた。
「隣から。あの砦に行きたいんだって」
「行くんじゃないの?」
「俺たちも行くかもしれないだろ」
「行くの?」
「……まだ分からない」
カイは不思議そうに俺を見た。
俺も、自分が何に困っているのか、少し分からなくなった。
取ると決めたわけではない。
けれど、譲ると決めるのも嫌だった。
この城から見えるものについて、自分が考える時間くらいは欲しかった。
*
俺は律への連絡を開きかけた。
指が止まる。
相談すれば、律は考えてくれる。葉は事情を整理してくれるだろうし、玄なら、こちらも狙えばいいと言うかもしれない。
それを頼ってはいけないわけではない。
ただ、隣の相手は、俺の予定を聞いていた。
まず自分が、何を考えているのかを返すべきだった。
『こちらも、城の近くにあるため気にしています。ただ、攻略についてはまだ決めていません』
そこまで書いて、読み返した。
『周辺の土地も含めて確認したいので、少しお話しできませんか』
送る。
返事を待つあいだ、相手の城を見た。
あちらにも、今、広間に座っている誰かがいる。
仲間が近くにいるかどうかを調べ、資源を見て、砦を見つけたのだろう。俺へ連絡する前に、文面を書き直したかもしれない。
そう考えても、砦をどうするかの答えは出なかった。
それでも、さっきよりは相手の返事を待てた。
『ありがとうございます。こちらも、まずお話ししたかったので』
続いて、少しだけ長い文が届いた。
『前の世界では、仲間が集まってから道を確かめたら、もう通れなくなっていたことがありました。今回は、先に近くの方へ聞いておこうと思いまして』
俺はその文を二度読んだ。
昨夜の資料には、第四世界の予測が書かれていた。
小さな同盟が、少し大きくなる。大城攻略のためにまとまる。第三世界のやり方を取り入れている。
それらが正しいのかどうかは、まだ分からない。
今分かったのは、隣の君主が、以前通れなくなった道を覚えているということだった。
『こちらも、土地のことで揉めたことがあります』
俺はそう返した。
『最初のころですが。なので、先に連絡をいただけて助かりました』
相手から、少しして返事が来た。
『では、お互いの場所を見ながら相談しましょう』
*
俺は机の上の紙を引き寄せた。
七人、無事。
その横に、カイも。
次の行へ、仲間の城は以前より離れている、と書いた。
さらにその下へ、近くに砦、と記す。
最後の一行で、少し迷った。
第四世界の君主から連絡。
そう書きかけて、先に相手の名前を書くことにした。その横へ、小さく旧第四、と添える。
律が昨夜、近くにいる人の名前を覚えるほうが先だと言っていた。
地図へ戻ると、もう名前を探さなくても、相手の城を見つけられた。
「また会議?」
カイが聞いた。
「そうなりそう」
「嫌なんじゃなかったの」
「嫌だよ」
答えてから、相手の城と、自分の城と、その間にある道を見た。
「でも、先に話せるなら、そのほうがいい」
カイは少し考え、机の端から椅子を引いた。
「長くなる?」
「まだ分からない」
「じゃあ座ってる」
俺は苦笑して、地図を少し広げた。
知らない川の向こうに、砦があった。
そこへ続く道を、これから隣人と話す。




