ピーク
第五十九話 遠慮は終わり
蒼穹から届いた二通目の書簡を、俺は最後まで読めなかった。
返還。
解放。
撤兵。
こちらが先に譲るものばかりが、整った文章で並んでいた。
巌の城へ兵が向かったとき、この人たちは何を見ていたのだろう。
城を守った兵のことは。
道を確かめに出た者のことは。
やっと落ち着いて、敷物を見せ合っていた午後のことは。
そんなものは、交渉の材料にもならないのか。
胸の奥が熱くなった。
怒っている。
それは分かった。
けれど、その熱が大きくなる速さに、俺自身が追いつけなかった。
机に置いた指が、紙の端を押し潰していた。
「おい」
カイの声で、顔を上げた。
「今、何を送ろうとしてた?」
返信欄を見た。
覚えのない言葉ではなかった。
俺が考えて、俺が書いた言葉だった。
ただ、読み返すと、敵へ送る文章というより、怒りを投げつけるためだけのものだった。
全部消した。
*
「変だった?」
俺が聞くと、カイは少し考えた。
「怒るのは分かる」
「うん」
「でも、さっきは俺が呼んでも聞こえてなかった」
俺は椅子へ座り直した。
ここへ来たばかりの頃。
この世界を、妙に受け入れてしまっていると話したことがあった。
今度は逆だった。
争う理由を渡された途端、何かに背中を押されているような気がする。
それが疲れなのか。
積もった怒りなのか。
ほかの何かなのか。
分からなかった。
「覚えておいてくれ」
「何を?」
「今、俺が変だったこと」
カイが頷く。
「でも、怒るのはやめないんだろ」
俺は地図を見た。
蒼穹の部隊が、また一つ、こちらの領地へ入っていた。
「やめない」
声に出すと、さっきより低い声になった。
「勝つ方に使う」
*
最初の七人に、連絡をつないだ。
俺。
玄。
葉。
朔。
杏。
岳。
律。
全員を一つの城へ呼ぶ時間はない。
それぞれの机、それぞれの地図の前で、同じ報告を開いた。
「苦しい」
俺は最初に言った。
「前足の保護が切れるまでに守備を戻したい。取った城も守りたい。でも、同じ数を同じようにぶつけていたら、向こうの新しい部隊に押される」
誰も否定しなかった。
七人だけで戦うわけではない。
巌もいる。
湊たちもいる。
二百人近い仲間が、持ち場で動いている。
だからこそ、俺たちが迷ったまま指示を増やすわけにはいかなかった。
「ここから、俺たちでひっくり返したい」
地図の西側を示す。
知っている道。
何度も歩いた土地。
城を育てながら、少しずつ記録してきた場所。
「人数が足りないから、もっと出してくれ、だけでは終わらせたくない。まだ使ってないものがあるだろ」
玄が、短く笑った。
「ある」
*
「正直、遠慮してた」
玄が言った。
「合併してから、細かく言いすぎると、前の同盟のやり方を押しつけてるみたいになるだろ」
俺は黙った。
思い当たることがあった。
土手のどちら側を歩くか。
待つときに、どちらへ馬の頭を向けるか。
交代する兵を、先にどこへ並べるか。
大まかな出兵予定だけでも、皆には十分な仕事がある。
そこへ、さらに細かい注文を付けることを、俺もためらっていた。
「説明してもらってからでは間に合わないこともあるし」
葉が続けた。
「だから、分かる人だけで直していたところがあります」
「それを全部、君主経由にする必要はない」
岳が言った。
「現地で見ている武将に、どこまで任せるかを決めればいい」
杏が頷いた。
「時刻だけで揃えるのも、もうやめたい。敵が止まれば、こっちも止めないといけない」
朔の声が続く。
「補給も、城から出した時刻ではなく、兵が受け取ったところまで見ます。途中で詰まっているものがあります」
律は、少し遅れて口を開いた。
「外への説明は、佐伯さんと引き受ける。現場の連絡に、交渉の返事を混ぜないようにする」
七人とも、言うことがあった。
昨日まで、それぞれ少しずつ飲み込んでいたものだった。
俺は頷いた。
「出そう。全部」
*
巌へ連絡した。
こちらで決めた持ち場の範囲では、現地の指揮役に細かな変更を任せたい。
出兵する人数と、守る城は変えない。
動き方を変える。
巌の返事は早かった。
『そのために任せた。俺にも、必要なら細かく言え』
俺は少し笑った。
『では、前足の帰還路を二つに分けてください。同じ門から全部入れると、補充待ちの兵と詰まります』
少し間が空いた。
『いきなり細かいな』
続けて来た。
『分かった』
*
玄が持ち出したのは、鉄の塊だった。
最初に作った、笑うしかなかった重さのものではない。
何度か作り直した、短い柄の付いた槌。
片手で振り回すには重い。
けれど、足を止めて両手で扱うなら、戻せる。
「これを、全員に持たせるのか?」
俺が聞くと、玄は首を振った。
「持てる人にだけ。あと、走らせない」
任せる場所は、狭い曲がり角の内側だった。
盾を持った兵が前へ出る。
相手が詰めてくる。
長い武器を振る幅がなくなる。
そこで、後ろから交代して一撃を入れる。
重さで押したあと、すぐに盾の後ろへ戻る。
玄は武将たちに何度も動かせ、戻る場所まで確かめた。
攻撃力の表示は変わらなかった。
新しい技能も付かなかった。
それでも、古い盾を相手にした練習では、受ける側の姿勢が崩れた。
「鉄は?」
葉が聞いた。
「今回は、用意した分だけ」
「追加で作らない?」
「今日は作らない」
葉が了承した。
俺は、そのやり取りで少し肩の力が抜けた。
*
岳が選んだのは、城の外にある石垣沿いの道だった。
両側が完全に塞がれているわけではない。
迂回はできる。
ただ、脇へ出ると地面が下がっていて、まとまった列のままでは進みにくい。
蒼穹の部隊は、前にここを通ったとき、道を選んでいた。
その記録がある。
「また道を選べば、玄が受ける。脇へ広がったら、追わずに下がる」
岳は二つの動きを決めた。
相手が思いどおりに来ることを、前提にはしなかった。
カイと冬馬が、現地で目印を確認する。
崩れた石垣。
二股になった木。
ぬかるみの始まる位置。
地図上の座標だけでは、立つ場所までは伝わらない。
兵を置く向きまで合わせてから、俺たちは待った。
*
最初の接触では、蒼穹が止まった。
前日と同じだった。
こちらが下がっても、簡単には追ってこない。
俺は、予定どおり凌駕を待たせた。
敵の先頭が、道の奥を確かめる。
盾兵が前へ出る。
その後ろから、槍を持つ兵が続いた。
人数では、ほぼ同じ。
先頭の武将は、向こうも高位だった。
正面からぶつければ、長く削り合う。
玄は、そこで一歩だけ下がった。
敵が詰める。
道が曲がる。
後ろの兵には、前で起きていることが見えなくなった。
カイから報告が来た。
『先頭、曲がった。後ろはまだ直線』
俺は短く返した。
『岳に合図を』
*
盾がぶつかった。
玄の兵は、押し返そうとはしなかった。
足を置く場所を決め、二人ずつ交代しながら受けた。
曲がり角の内側から、鉄槌が入る。
敵の盾が下がった。
そこへ槍が伸びる。
一人が崩れると、後ろが前へ出ようとした。
その後ろも、押している。
武将が声を張る。
けれど、角の向こうまでは見えない。
同じ数の兵がいても、同じ数が戦えているわけではなかった。
玄から届いた報告は、短かった。
『前、止めた』
*
岳の兵が、脇の低い土地から姿を見せた。
攻撃のために深く入るのではない。
道に並ぶ敵の側面へ、盾と槍を向ける。
蒼穹の指揮役は、すぐに対応した。
後ろの兵を振り向かせる。
道の外へ広げようとする。
そこで、列の前と後ろが違う方向へ動き始めた。
俺は凌駕へ命じた。
「今。側面の奥まで入らなくていい。広がろうとする兵を、道へ戻して」
騎兵が走る。
平らな場所を使い、斜面へは踏み込まない。
敵が槍を揃えるより先に圧力を掛け、そのまま抜ける。
深追いはしない。
敵の兵が道へ戻ると、今度は後退しようとする兵と重なった。
蒼穹の部隊が、初めて大きく崩れた。
*
追えば、もっと倒せた。
俺の中で、また熱が上がった。
行け。
今なら行ける。
そう言いかけたとき、報告が届いた。
『騎兵、二頭遅れています』
凌駕からだった。
俺は口を閉じた。
「回収して離脱。玄も交代」
敵は逃げている。
だが、こちらも戦った。
疲れも、傷も、なくなってはいない。
カイが決められた合図を出した。
玄の前衛が下がり、次の盾兵が入る。
新しい兵ではない。
同じ部隊の中で、まだ前へ出ていなかった兵だった。
敵の反撃を一度受けてから、全体を引いた。
退いたのは、こちらが先だった。
けれど、残った敵は追えなかった。
*
そのころ、葉の手元では、別の戦いが終わっていた。
巌の城へ戻る兵と、補充を運ぶ荷車が、同じ道を使う予定になっていた。
そこを先に分けた。
帰還した兵へ渡す物資を、奥の倉庫へ一度運び込むのもやめた。
担当者を決め、門に近い受け渡し場所で渡す。
朔が手配した内政武将は、表示上の生産量を上げる仕事を続けている。
その横で、早苗たちが実際に物が届くまでを揃えていた。
城の数値は変わらない。
でも、部隊が再び動ける時刻は早くなった。
巌から書簡が来た。
『補充、もう済んだのか』
葉が返す。
『城には前からありました。渡す順番を変えました』
俺はそれを見て、笑った。
増やさなくても、使えるものがあった。
*
杏は、敵の増援が来る前に、道沿いの土地を取り返した。
天衡の城には手を出していない。
再配下化の保護は、まだ残っている。
狙ったのは、蒼穹が次の出兵に使おうとしていた土地だった。
到着時刻だけで揃えるのをやめ、玄の戦場から来る報告を待った。
敵が崩れて下がる。
増援が、そちらへ向きを変える。
その空白へ、取得部隊を入れる。
一つ目。
二つ目。
取れたという知らせが、続いた。
保有者が変わっても、すでに行軍中の敵が消えるわけではない。
ただ、同じ場所から次々と進路を伸ばすことは、難しくなる。
俺は、敵の次の動きを考える時間を得た。
*
昼過ぎ、蒼穹は二度目の攻撃を出した。
今度は、石垣の道を避けていた。
覚えたのだ。
俺は、その報告を七人へ回した。
岳がすぐに返す。
『なら、あそこは終わり。次へ移す』
玄も頷いた。
『鉄槌、運び直すの重いな』
葉が返した。
『置いていかないでください』
緊張した連絡の中で、笑いが混じった。
同じ手が、何度も通るとは思っていない。
だから、取れた時間で次を作る。
相手が慎重になって止まるなら、その間に巌の守備を戻せる。
広く回るなら、移動した分だけ到着が遅れる。
俺たちが欲しかったのは、敵が間違えるのを待つことだけではなかった。
相手が正しく対応しても、その対応に時間が掛かるようにすることだった。
*
夕方、蒼穹の前線が下がった。
わずかな距離だった。
戦争が終わるほどではない。
天衡も、まだ残っている。
それでも、朝に失うと思っていた土地へ、こちらの兵が戻った。
巌たちの城には、予定した守備が入り始めた。
兵の総数は増えていない。
途中で新しいSSRを引いた者もいない。
変わったのは、立つ場所と、渡す順番と、動く合図だった。
佐伯が、届いた敵の書簡を読んだ。
「伏せていた戦力を投入したのか、と」
玄が笑った。
「鉄の重さなら、前から言ってたけどな」
俺も少し笑った。
全部を説明する必要はなかった。
*
七人で、最後の確認をした。
玄は、槌を扱った者の腕の疲れを報告した。
次は人数を増やすより、交代を早めた方がいい。
岳は、敵が避けた道を記録へ加えた。
杏は、合図を待ちすぎて遅れかけた一隊を挙げた。
葉と朔は、明日までに戻る兵糧を確かめる。
律は、蒼穹以外の北東勢力へ、戦線を広げる意思はないと伝えた結果を話した。
俺は、それぞれの報告を聞いた。
「今日は、戻せたな」
言うと、玄が答えた。
「まだ戻せる」
強い言い方だった。
けれど、朝の俺のように、どこまでも進めると思っている声ではなかった。
何ができるかを知っている声だった。
俺は頷いた。
「明日も頼む」
*
連絡を終えると、カイが机の前に立っていた。
「今は?」
短い質問だった。
俺は、自分の手を見た。
紙を握り潰してはいなかった。
「まだ腹は立ってる」
「うん」
「でも、さっきより考えられる」
カイは頷いた。
俺は記録の端に、一行だけ残した。
怒りが、急に強くなった。
理由は、まだ分からない。
その紙を閉じ、戦場の記録へ戻る。
今日うまくいったこと。
失敗しかけたこと。
次には通じないかもしれないこと。
書くものは多かった。
カイが、泥の付いた上着を椅子へ掛ける。
「玄のやつ、持つ人が文句言ってたぞ」
「重いって?」
「効いたけど、重いって」
俺は笑って、そのまま書いた。
敵が知らないことを、俺たちは知っている。
それを一つずつ、明日の指示にしていった。




