ガチャ
「怖い人だったら、どうすれば」
「まずは、お話しになるのがよろしいかと」
周は真面目な顔で答えた。
それでどうにかなる相手が来てほしい。
俺は机の横に空けた場所を確かめてから、決定を押した。
指先にあった札が、温かくなる。
縁に彫られた模様を光が走った。慌てて手を開いたが、札は落ちなかった。掌の少し上に浮かんで、そのまま薄くなっていく。
「お……」
声を出している間に、札は消えた。
代わりに、机の横の床が白く光る。
窓から差す夕日とは違う、色のない光だった。眩しくて目を細める。その向こうに、誰かの足が見えた。
靴。
裾の短い上着。
腰に下げた剣。
人の形がはっきりするにつれ、床の光が弱くなっていった。
現れたのは、若い男だった。
俺とそれほど年が離れているようには見えない。髪は後ろで無造作に結ばれていて、鎧らしいものは着けていなかった。旅人と言われた方が、しっくりくる格好だ。
男は一度まばたきをした。
それから、俺を見た。
周を見た。
端へ寄せた桶を見た。
「……掃除中だったか?」
「いや」
最初の言葉がそれだったので、用意していた挨拶が飛んだ。
「そこ、空けたんだ。来るっていうから」
「ああ。俺のためか」
男は桶をもう一度見て、納得したように頷いた。
「悪いな。助かる」
目の前に表示が浮かんだ。
【武将を登用しました】
【カイ】
【等級:R】
その下にも文字と数字が続いていたが、すぐには読めなかった。
カイ。
聞き覚えのある三国志の武将の名ではない。
俺の知識が少ないだけかもしれないが、少なくとも、来たら名前だけで喜べるような相手ではなかった。
「君主は、あんた?」
表示の向こうから声がした。
「あ、うん。俺です」
「何で丁寧になるんだよ」
男が少し笑う。
「カイだ。よろしく」
「ああ。よろしく」
言ってから、こんな挨拶でよかったのかと周を見る。
周は静かに頭を下げた。
「城内のご案内を務めております、周と申します」
「周さんな。世話になる」
カイは自然に答えた。
それから机へ目を向ける。
「で、何をすればいい?」
*
何をすればいい。
それを聞かれるとは思っていなかったわけではない。
ただ、もう少し間があると思っていた。
「ええと……」
俺は表示を見直した。
カイの名の下には、能力を示す項目が並んでいる。戦いに関係しそうなものもあれば、内政に使うのだろうと思えるものもあった。
数字はある。
でも、比べる相手がいない。
高いのか低いのか、判断がつかなかった。
「何か、得意なことは?」
「得意なこと?」
カイは腕を組んだ。
少し考えて、腰の剣に目を落とす。
「剣は使える」
「強い?」
「相手による」
それは、そうだろう。
「畑仕事とかは?」
「手伝いなら」
「建物を建てるのは」
「大工の指示があれば、物は運べるぞ」
一つずつ聞いていくうちに、面接をしているような気分になってきた。
しかも、もう採用した後だ。
カイが俺の顔を覗き込む。
「何に困ってるんだ?」
「……それも、まだあんまり分かってない」
口に出すと、情けなかった。
朝から知らないことばかり聞いている。
倉庫を見て、建物を選んで、地図を開いた。自分で決めたこともあるにはあるが、全部、周に説明してもらってからだ。
「今日、ここに来たばかりなんだ」
「今日?」
カイが周を見る。
周が頷いた。
「君主様はこちらの城を、本日より治めておられます」
「そうなのか」
カイは椅子の背へ伸ばしかけた手を止めた。
「座っていい?」
「あ、どうぞ」
また丁寧になってしまった。
カイは椅子を引き、腰を下ろす。
「じゃあ、俺と同じだな」
「何が?」
「初日」
そう言われると、確かにそうだった。
俺も椅子に座った。
机を挟んで向かい合うと、さっきまでの光が嘘のようだった。知らない人が一人増えて、普通に話している。
登用。
あの短い言葉から想像していたものと、ずいぶん違った。
「カイは、ここへ来る前のこと、覚えてるの?」
「覚えてることはある」
カイは自分の手を見た。
「剣の使い方も分かるし、馬にも乗れる。けど、昨日どこで寝たって聞かれると……変だな。出てこない」
眉を寄せる。
俺は周を見た。
「そういうものなんですか」
「登用された方の記憶には、個人差がございます」
周はそれ以上、説明を足さなかった。
カイもしばらく黙っていた。
軽い調子で質問したことを、少し後悔した。
「ごめん。分からないなら、無理に――」
「腹は減ってる」
「え?」
カイが顔を上げた。
「昨日の飯は思い出せないけど、今、腹が減ってるのは分かる」
ちょうどそのとき、廊下から足音が聞こえた。
入口に、盆を持った女の人が立っていた。昼に台所の近くで見かけた人だ。
「お食事をお持ちしました」
俺は盆とカイを交互に見た。
「あの。一人増えたんですけど」
女の人はカイを見て、少し目を丸くした。
けれど、すぐに頷いた。
「では、お椀をもう一つお持ちします」
驚くのは、それだけだった。
*
食事をする部屋は、広間の隣にあった。
長い机に、椅子が六脚。
俺は昼にもここで食べた。そのときは周に向かいへ座ってもらって、食べ物の名前や、水はそのまま飲めるのかといったことを聞いた。
今度は、カイが先に机を見回していた。
「ここ、どこに座ればいい?」
俺は奥の椅子を指した。
「俺は昼、そこだった」
「じゃあ、俺はこの辺か」
カイが隣の椅子を引く。
周は入口の近くに立ったままだった。
「周さんも、一緒に」
「かしこまりました」
昼にもしたやり取りを、もう一度する。
三人が座ると、女の人が鍋を運んできた。
穀物の入った粥と、野菜の煮物。それに、切り分けた肉が少し。
カイの分の椀にも、温かい粥がよそわれる。
俺は自分の前に置かれた食事を見てから、思い出した。
一人増えたら、食べる量も増える。
「食料、大丈夫かな」
思わず言うと、カイの手が止まった。
「俺、食わない方がいいか?」
「いや、違う。そういう意味じゃなくて」
慌てて首を振る。
「これから人数が増えたら、ちゃんと考えないとって」
「現状、この人数のお食事で困ることはございません」
周が言った。
「ただし、募兵を進めれば必要な食料も増えます。そちらは、改めてご確認いただくのがよろしいかと」
「兵士も食べるんだよな……」
当たり前のことなのに、言われて初めて気がついた。
兵の数を増やす。
ゲームなら、数字を入力して終わりだった。
ここでは、誰かが米を炊く。
椀もいる。
カイが粥を見つめたまま、俺を待っていた。
「あ、ごめん。食べよう」
「いいのか?」
「うん。食べて」
カイはすぐに匙を取った。
一口食べて、息を吐く。
「熱い」
水を飲む。
それを見て、俺も粥を口に入れた。
本当に熱かった。
「……熱いな」
「だから言っただろ」
カイが笑った。
女の人が、空になった盆を抱えて出ていく。その背中へ、カイが礼を言った。
俺も少し遅れて頭を下げた。
食事が始まると、部屋は思っていたより静かだった。
匙が椀に触れる音。
外から聞こえる、誰かが木を運ぶ掛け声。
カイはよく食べた。急いでいるわけではないが、話していないときは手が止まらない。
俺はその横顔を、つい何度も見てしまった。
「何だ?」
「いや……よく喋るんだなと思って」
「今は食ってたけど」
「そうじゃなくて。もっと、決まったことだけ言うのかと思ってた」
カイの匙が止まる。
「決まったこと?」
「命令を、とか。承知しました、とか」
「ああ」
カイは少し考えた後、背筋を伸ばした。
「ご命令を、君主様」
急に声まで低くなった。
俺は危うく粥を吹きそうになった。
「いや、それはいい」
「いいのか」
「いつもどおりで」
「分かった」
カイはすぐに元へ戻った。
周は黙って煮物を食べていた。
今のやり取りについては、特に注意されなかった。
「Rでも、みんなこんな感じなのかな」
小さく呟いたつもりだった。
カイがこちらを見る。
「俺、Rなのか」
しまったと思った。
「表示に、そう出てて」
「へえ」
カイは自分の胸元を見た。そこに何か書かれているわけではない。
「それ、低い方?」
俺は返事に迷った。
さっき見た登用の説明では、上にいくつも等級があった。
でも、本人を前にして言うと、別の意味がついてしまいそうだった。
「……上は、ある」
「そっか」
カイはそれだけ言って、肉を一切れ取った。
気にしていないのか、気にしないようにしているのか、俺には分からなかった。
「俺も、何も分かってないから」
言ってから、余計なことだったかもしれないと思った。
カイは肉を飲み込んで、頷く。
「じゃあ、明日は城を見せてくれ」
「城?」
「どこに何があるか分からないと、手伝うにも困るだろ。井戸とか、倉庫とか」
「ああ。それなら」
今日、周に案内してもらった道を思い浮かべる。
全部は覚えていない。
でも、倉庫と井戸なら分かる。
「案内できると思う」
「頼む」
カイがまた粥を食べ始めた。
俺も匙を取る。
少し冷めて、今度はちょうどよかった。
*
食事の後、カイの部屋を決めた。
広間から廊下を曲がった先に、空いている部屋がいくつかあった。その一つを周が開ける。
寝台と、小さな棚。
窓の外には、まだ夕焼けが残っていた。
「こちらをお使いください」
「十分だ。ありがとう」
カイは部屋へ入り、腰の剣を外した。
壁へ立てかけようとして、少し考え、寝台の横に置き直す。
その動きを見て、初めて、この人は武将なのだと思った。
食事をしている間は、ほとんど忘れていた。
「明日は、何時に起きればいい?」
カイが振り向いた。
「何時……」
俺は周を見る。
「朝食の頃に、お声をお掛けいたしましょうか」
「お願いします」
「じゃあ、それで」
カイは寝台の端に座り、靴を脱ぎかけた。
俺たちがまだ入口にいることに気づいて、顔を上げる。
「ほかに何かあるか?」
「いや。おやすみ」
「おやすみ」
扉を閉めた。
廊下を戻りながら、登用の表示を開いてみる。
札の所持数は、零になっていた。
代わりに、武将の一覧に名前が一つ増えている。
カイ。
その名を選べば、さっきの能力が見られるらしかった。
指を伸ばしかけて、やめた。
明日、一緒に城を歩く。
何を頼むかは、それから考えてもいい。
「君主様?」
足を止めた俺を、周が振り返った。
「何でもないです」
表示を閉じる。
後ろの部屋で、棚を動かすような音がした。
続いて、小さなくしゃみ。
俺は扉の方を見た。
「……毛布、足りてますかね」
「一枚、お持ちしましょう」
周が答えた。
俺も一緒に、毛布を取りに戻った。




