番外19
番外第十九話 葉の一番高い買い物
会議室に入ると、木の匂いがした。
いつもの机。
窓際の棚。
玄が買ってきた、毛布を入れる大きな木箱。
そこまでは同じだった。
机の周りに並んだ椅子だけが、新しかった。
「……部屋、間違えたか?」
「間違えてないわよ」
葉が帳面から顔を上げた。
俺は戸口に立ったまま、もう一度部屋を見た。
椅子には背もたれがあった。
座面は広く、角は丸く削られている。脚の間には横木が入り、見るからに丈夫そうだった。
前の椅子は、背もたれがあるものとないものが混じっていた。大きさも高さも揃っていない。
そもそも、全員分をまとめて用意したことがなかった。
人数が増えるたび、誰かが一脚持ってくる。
足りない日は箱に座る。
そうやって使っていたので、改めて揃うと、少し立派になりすぎたように見えた。
「座ってみて」
葉に言われ、いつもの場所へ向かった。
腰を下ろす。
揺れなかった。
俺は体を左右に動かした。
やはり揺れない。
「すごいな」
「椅子としては、普通よ」
葉が言った。
*
玄は部屋に入るなり、椅子の脚を見た。
それから座面の裏を覗き込み、指で木を叩いた。
「いいものだな」
「ええ」
「いくらした?」
葉が帳面を向けた。
玄は黙った。
遅れて来た朔が、その横から数字を見た。
こちらも黙った。
俺はすでに座っていたが、何となく立ち上がった。
「座っていていいのよ」
「いや、何か」
葉はため息をついた。
「使うために買ったんだから」
「相談があってもよかったんじゃないか」
玄が言った。
もっともな意見だと思った。
俺も頷きかけた。
葉が帳面を一枚めくるまでは。
「したわ。三回」
玄の眉が動いた。
「一回目は、まだ座れる。二回目は、直せば使える。三回目は、急がないから次に考えよう」
指先が、それぞれの日付で止まった。
最後の返事には覚えがあった。
俺だった。
「今日が、その次」
葉は帳面を戻した。
「倉庫の修理が済んで、必要な資材も確保できた。費用も確認した。だから買ったの」
玄が頭を掻いた。
「……確かに、直せば使えるとは言った」
「直してくれたのも知ってる」
「だが、また緩んだか」
「ええ」
葉が部屋の隅を指さした。
前の椅子が重ねて置いてある。
そのうち一脚の脚には、見覚えのある紙が挟まっていた。
俺が先週、揺れを止めるために入れたものだった。
葉の書き損じを、四つに折った紙。
これを見せられると、反論しにくかった。
*
「いいじゃない」
律はそう言って、すぐに座った。
背もたれに体を預け、机との距離を確かめる。
「書きやすい」
杏も隣の椅子を引いた。
「前のは低かったもんね」
「私のは高すぎたのよ」
「替えればよかったね」
「今ならそう思うわ」
二人の話を聞きながら、俺は座り直した。
岳は椅子を少し持ち上げ、床に置き直した。
「丈夫だな」
それで評価が済んだらしい。
玄も、ようやく腰を下ろす。
朔は一度背中を預けてから、机の上に地図を広げた。
全員が座ると、部屋が静かになった。
前は誰かが少し動くだけで、どこかの椅子が鳴った。
ぎい、とか。
みし、とか。
今日は、紙をめくる音がよく聞こえた。
葉が配分の確認を始める。
玄が数字を尋ね、朔が地図を指し、岳が運ぶ道について答えた。
いつもの会議だった。
ただ、途中で腰を浮かせる者がいない。
杏が席を立ったのも、窓を少し開けるためだった。
話が一段落したところで、俺は湯飲みを取りに立った。
そのとき、葉の椅子が鳴った。
ぎ、と。
振り向くと、葉は手元の書類に目を落としていた。
その背後に、見慣れた細い背もたれがあった。
「葉のは?」
俺が聞いた。
「何?」
「椅子」
葉は少しだけ振り返った。
「ああ。私のは、まだ使えるから」
玄が顔を上げた。
朔も筆を止めた。
葉は二人を見た。
「何よ」
「それ、俺が言ったやつだな」
玄が言った。
「同じ言葉でも、状態が違うでしょう」
葉はそう答え、姿勢を正した。
椅子がもう一度鳴った。
今度は、さっきより長かった。
誰も口を開かなかった。
葉が、ゆっくり背もたれから体を離した。
*
「どうして六脚なの?」
律が尋ねた。
葉は帳面の端を押さえた。
「七脚だと、考えていた額を少し超えたから」
「別のものにする案は?」
朔が聞く。
「あったわ。でも、長く使うならこっちのほうがいいと思った。脚の修理もしやすいし、店も近いから」
そこまで調べていたのかと、俺は新しい椅子を見た。
葉の選ぶものらしかった。
「私の席は、立つことも多いし」
葉は続けた。
「帳面を取りに行ったり、書類を配ったり。座りっぱなしではないから、少しくらい——」
「今、替わる?」
俺が椅子を引くと、葉はすぐに首を振った。
「それじゃ買った意味がないでしょう」
「葉がそれに座ってるのも、同じじゃないか」
葉の口が止まった。
怒らせたかと思ったが、そうではなかった。
帳面に目を落とし、小さく息を吐く。
「一脚だけなら、我慢できると思ったの」
さっきまでと違う声だった。
誰かに説明するために整えた言葉ではないように聞こえた。
律が身を乗り出し、帳面の数字を見た。
「本当に、用意できない額?」
「……できなくはない」
「今、使うと困る?」
葉はしばらく考えた。
それから、首を横に振った。
「予算を決めたのが私だったから」
玄が椅子から立った。
「店はどこだ」
「今から行くの?」
「あれば、買ってくる」
「もう夕方よ」
「だったら急いだほうがいい」
俺も上着を取った。
岳が戸口へ向かい、朔は帳面の品名と値段を別の紙に写した。
「そんなに行かなくても」
葉が言った。
「椅子一脚よ?」
「玄が値切り始めたら、俺が止める」
俺が答えると、玄はこちらを見た。
「急いでるときは、しない」
「縄のときも、そう言ってなかったか?」
「あれは太さが違った」
葉が額に手を当てた。
けれど、指の隙間から少し笑っているのが見えた。
*
同じ椅子は、まだ一脚残っていた。
店の主人は俺たちを見るなり、事情が分かったようだった。
「ああ。七人で使うんでしたね」
「知ってたんですか」
「最初は七脚で聞かれたから」
主人が椅子を前へ出した。
「一脚減らすというので、別のものも勧めたんですがね。皆さん、長く座るからと」
玄は何も言わずに椅子を確かめた。
脚を押し、背もたれを引く。
「これでいい」
値段は、帳面にあったとおりだった。
約束どおり、玄は値切らなかった。
*
会議室へ戻ると、葉はまだ机に向かっていた。
律と杏が隣にいて、今日の書類を片づけている。
岳が新しい椅子を運び込み、葉の横へ置いた。
俺は古い椅子に手を掛けた。
「立って」
「今、ここを書いたら」
「待つよ」
葉は一行を書き終え、筆を置いた。
立ち上がったところで椅子を替える。
新しいほうを机に寄せると、葉はしばらく座面を見ていた。
「……ありがとう」
それだけ言って、座った。
まだ少し遠慮があるのか、浅く腰を掛けている。
俺たちは自分の席へ戻った。
片づけの続きをしながら、玄が領収の紙を渡す。
葉は受け取り、金額を確認し、帳面に書き加えた。
「値切らなかったのね」
「同じものだ。値段も分かってる」
「そう」
紙を挟んで帳面を閉じる。
そのあとで葉は、ようやく背もたれに体を預けた。
肩が少し下がった。
誰も感想を求めなかった。
杏が窓を閉め、律が明日の予定を口にした。朔は忘れ物がないか、机の下を確かめていた。
帰り支度を始めた俺たちを見て、葉が言った。
「お茶、淹れ直す?」
俺は上着を持ったまま振り返った。
「疲れてないか?」
「淹れるくらい平気よ」
「俺がやる。葉は座ってて」
湯飲みを集めに行くと、葉は一度腰を浮かせかけた。
それから座り直し、湯飲みをこちらへ差し出した。
「お願い」
俺は頷いた。
その日の会議は、もう終わっていた。
けれど皆、お茶をもう一杯飲んでから帰った。




