番外17
番外17話 律が来ない会議
律が休むと聞いたとき、俺はまず、ゆっくり寝ていてほしいと思った。
昨夜のうちに届いていた書簡には、熱があるので明日の会議には出られない、とあった。
その下に、今日決めておくべきことが三つ。
南の道の使用について。
倉庫に残っている木材の配分について。
隣の同盟への返答について。
最後に、小さな字で一行。
『急がないものは、次に回して』
俺はそれを読み、頷いた。
これくらいなら、俺たちだけで片づけられる。
むしろ、いつも任せきりになっていた分まで済ませておこう。
そのときは、本当にそう思った。
*
「南の道は、使える」
岳が地図の端を押さえながら言った。
「ただし、雨が降ったあとは重い荷車を通さないほうがいい。東側の斜面から水が下りてくる」
「溝を掘れば?」
玄が尋ねる。
「多少は違う。だが、先に水の逃げ先を決めないと、下の畑へ流れる」
「なら、畑の持ち主にも話を通す必要があるな」
俺が言うと、葉が頷いて書き留めた。
ここまでは順調だった。
朔が、道の近くにある空き地を指さすまでは。
「ここに荷を置ければ、往復を減らせる」
「小屋を建てるのか?」
「屋根だけでもいい」
「屋根だけじゃ、横から濡れるぞ」
「壁まで作ると、木材を使うわね」
葉が木材の一覧を広げる。
ちょうど次の議題でもある。
一緒に話したほうが早いだろうと、俺は思った。
玄が資材の値段を挙げ、朔が必要量を計算し、岳が現地の地面について説明した。杏は、その工事をいつ挟めるか、皆の予定を確認し始めた。
誰も無駄なことは言っていない。
どの意見にも、なるほどと思う。
だからこそ、止めるところが見つからなかった。
気づけば地図の周りには、倉庫の一覧と工事の予定と、隣の同盟から届いた書簡まで並んでいた。
「待って」
杏が顔を上げた。
「今日、道を通す許可を取る話だったよね?」
「そうだな」
「小屋は、誰が欲しいって言ったんだっけ」
皆が朔を見た。
朔は少し考えた。
「あると便利だと思った」
「便利なのは分かる。私も使うと思う。でも、建てるって決めた?」
誰も答えなかった。
葉が、書きかけの工事予定に細い線を引いた。
俺は律の書簡をもう一度開いた。
『急がないものは、次に回して』
さっきより、少し字が大きく見えた。
*
昼を過ぎたところで、一度休憩を入れた。
カイが運んできた茶は、人数分きっちりあった。
ただし、机に置く場所がなかった。
「皆様、お仕事が増えましたか?」
「話してるうちにな」
「それは大変ですね。終わらせるために集まったのだと思っていました」
「俺もそう思ってたよ」
地図を少し寄せ、湯飲みを置く場所を作る。
玄が首を回した。
「律、いつもどこで止めてた?」
「だいたい、私が三枚目の紙を出す前」
葉が答えた。
朔が机の上を見る。
自分の前だけで、紙が四枚あった。
「確かに」
「気づいた人が止めればよかったわね」
葉はそう言って、自分の前にある二冊の帳面を重ねた。
俺は、律がいつも座っている席を見た。
そこには今日は誰もいない。
あの席から、よく声が飛んでくる。
それは今日決めることなのか。
先に相手の返事を待ったほうがよくないか。
引き受けると言ったが、いつまでにできるのか。
話の腰を折られたと思ったことも、少しはあった。
今なら分かる。
折ってくれなければ、話はどこまでも伸びるのだ。
「仕切り直そう」
俺は白紙を一枚引き寄せた。
「今日必要なことを、三つだけ決める。増えた話は、別に書いておく」
「その別の紙を、今日読み始めないようにね」
杏が言った。
「……分かった」
先に釘を刺された。
*
結局、全部片づいたのは夕方だった。
南の道は、まず軽い荷の輸送に使う。
木材は、先に修理が必要な倉庫へ回す。
隣の同盟には、こちらの担当と日程を明記して返答する。
決まってしまえば、紙一枚に収まった。
俺はそれを持って、しばらく黙っていた。
「短いな」
玄が言った。
「一日かかったんだけどな」
「短くてよかったじゃない」
葉が書類を揃えた。
「律が読むのも楽でしょう」
その言葉で、俺は紙を畳みかけた手を止めた。
報告を持っていくつもりだった。
ちゃんと終わったと伝えれば、安心するだろうと思っていた。
ただ、これを渡せば、律はきっと読む。
読むだけでは済まない。
抜けているところを見つけて、起き上がって、筆を取る。
「玄、これ預かっててくれ」
「持っていかないのか」
「明日でいい」
少し考え、言い直した。
「律が元気になってからでいい」
玄は俺の顔を見て、黙って受け取った。
*
食堂で粥を包んでもらった。
昼に何か食べているかもしれないので、量は多すぎないようにした。付け合わせを選んでいると、店の人に「自分で食べるんじゃないね」と言われた。
「何で分かるんですか」
「自分のときは、そんなに迷わないだろう」
返す言葉がなかった。
律の城に着く頃には、空の端が薄い橙色になっていた。
部屋に入っていいか尋ねると、少し間を置いて返事があった。
「どうぞ」
律は寝台の背に寄りかかっていた。
肩に布を掛け、髪を緩くまとめている。机の上には水差しと、伏せた本が一冊。
俺を見るなり、少し体を起こした。
「会議、どうだった?」
「終わった」
「何時に?」
俺は包みを持ち直した。
「……さっき」
律が目を閉じた。
呆れたのか、疲れているのか、判断しづらかった。
「南の道?」
「それと木材」
「一緒に話したでしょう」
「何で分かるんだよ」
「朔が地図を見れば、何か思いつくもの」
全部見ていたような言い方だった。
俺が器を置くと、律は戸口のほうへ目を向けた。
「書類は?」
「ない」
「置いてきたの?」
「玄に預けた」
「確認くらいならできるけど」
「今日はしなくていい」
包みを開く。
まだ温かかったらしく、蓋を取ると細い湯気が立った。
「粥、食べられそうか?」
「うん。ありがとう」
匙を渡す。
律はそれを受け取ったものの、すぐには食べなかった。
「何か、困ったことは?」
「あった」
「何?」
「皆、働く気がありすぎた」
律が俺を見た。
「俺も含めて。せっかくだからあれも、ついでにこれもって増やした」
「……やりそう」
「やった」
口元が少し緩んだ。
「止める人はいなかったの?」
「途中で杏が止めた。そのあと俺が紙を分けた」
「じゃあ、大丈夫だったのね」
俺は頷いた。
大丈夫だった。
時間はかかったし、余計なこともずいぶん考えた。
それでも、律を呼びに戻らずに済んだ。
「いつも、ありがとな」
口にすると、思ったより改まった響きになった。
律が匙を持ち直す。
「急に何」
「いないと分からないことがあったから」
「私がいないと何もできない、とは言わないでね」
「言わない。今日できたし」
「一日かけて?」
「一日かけて」
今度は律も笑った。
その拍子に少し咳き込み、俺は水差しへ手を伸ばした。注ぎすぎないようにして、湯飲みを渡す。
律が水を飲む間、俺は黙っていた。
窓の外から、夕方の城の音が聞こえた。
車輪の音。誰かが人を呼ぶ声。遠くで閉まる扉。
いつもの時間が、ここでも流れていた。
「じゃあ、俺は帰る」
律が粥を数口食べたのを見届けて、立ち上がった。
「食器はあとで取りに来るから。返しに来なくていいぞ」
律は匙を止めた。
何か言おうとして、一度口を閉じる。
俺が上着を取ったところで、窓際の椅子を指さした。
「少し、座っていけば」
「眠くないか?」
「昼間、結構寝たから」
「俺がいたら休めなくない?」
「静かにしてくれれば」
椅子を引いた。
俺が座ると、律はまた粥を食べ始めた。
何も話さないでいると、匙が器に触れる小さな音がした。気まずくはなかったが、じっと見ているのも変なので、窓の外へ目を向けた。
「それで」
律が言った。
「南の道は、結局どうしたの?」
俺は律を見た。
律も俺を見た。
少しの沈黙のあと、自分で気づいたらしい。
「……仕事の話だった」
「そうだな」
「癖ね」
「今日は休み」
「分かってる」
そう答えたあとで、律は少しだけ唇を尖らせた。
いつもの会議では、あまり見ない顔だった。
「じゃあ、何の話をするの?」
俺は考えた。
道のことでも、木材でも、同盟でもない話。
「粥を買うとき、店の人に笑われた」
「どうして?」
「付け合わせで迷ったから」
「何と何で?」
俺が答えると、律は器の脇にある小皿を見た。
「こっちでよかった」
「そうか」
「うん。こっちが好き」
それなら、迷った甲斐があった。
俺は背もたれに体を預けた。
律は残りをゆっくり食べた。途中で店の場所を聞き、今度は自分でも寄ろうと言った。俺は、元気になってからな、と答えた。
器が空になった頃には、部屋の明かりが必要になっていた。
今度こそ帰ろうと立つと、律が言った。
「今日、来てくれてよかった」
何でもない調子で言われたせいで、すぐには返事ができなかった。
「……明日も、何か持ってくる」
「書類以外でね」
「分かってる」
廊下に出てから、俺は食器を取りに戻るのを忘れたことに気づいた。
けれど、もう一度扉を叩くのはやめた。
明日も来る理由なら、たぶん多いほうがいい。




