番外 外国美人きたらライバルにはならない
番外編 外交官を返してください
その仕事の依頼書には、最初から俺の名前が書かれていた。
「先方からのご指名だ」
上司はそう言って、二人分の資料を机に置いた。
ヨーロッパから来日する、若い男女。
それぞれ別の家の出身で、家族に同行して来るらしい。資料には訪問先や家の説明が並んでいたけれど、俺は写真を見たところで手を止めた。
「あれ」
「知っているか」
「……たぶん、一緒に遊んだことがあります」
上司が、妙な顔をした。
「たぶん?」
「小さい頃なので。こっちの人、木から下りられなくなったことがあって」
「その話は、本人がするまで出さない方がいいな」
俺はうなずいた。
もう一枚を見る。
こちらにも見覚えがあった。
「この人は、その下で受け止めようとしていた人です」
「君は?」
「梯子を借りに行きました」
上司はしばらく俺を見てから、二人の資料をこちらへ押した。
「先方が君を希望する理由は、少し分かった」
◇
「ユウ!」
挨拶を最後まで言う前に、両手を握られた。
エレオノーラ。
昔はエラと呼んでいた。
記憶の中では膝に絆創膏を貼っていた女の子が、今は背筋を伸ばした女性になっている。
ただ、笑う直前に少し目を細める癖は、変わっていなかった。
「覚えている?」
「もちろん。久しぶり、エラ」
「よかった。彼女は飛行機の中で、君に忘れられていたらどうしようと三回言っていた」
隣の青年が、穏やかな顔で余計なことを言った。
「二回よ、レオン」
「最後の一回は着陸してからだったね」
レオンも、俺の手を握った。
昔よりずっと大きな手だった。
「また会えて嬉しいよ」
「俺も」
二人とも、俺がしばらく普通の生活に戻れなかったことを知っていた。
でも、その場では詳しく聞かなかった。
エラが俺の顔を少し長く見て、それから手を離した。
「今日は、梯子を探しに行かなくていいから」
俺は笑った。
「それなら助かる」
◇
担当するのは、滞在中の案内と交流行事の補佐。
もちろん、俺一人に任されるわけではない。先輩職員や通訳、先方の随行者と一緒に動く。
それでも二人は、何かあると俺を呼んだ。
「ユウ、この言葉はどういう意味?」
「ユウなら、どちらを見る?」
「さっきの店、帰りに寄れるかな」
日本語の案内板。
昼食の献立。
商店街で見つけた、小さな陶器の猫。
二人ともよく質問した。
俺が答えると、そこからまた話が広がった。
予定を終える頃には、喉が少し痛くなっていた。
そして三日目の夕食後、レオンが尋ねた。
「君たちの世界を再現したゲームがあるんだって?」
俺は湯飲みを置いた。
「うん。今は、ちゃんと遊んで帰ってこられる」
二人は一瞬だけ黙った。
それからエラが、確かめるように聞いた。
「あなたも、遊んでいるの?」
「仲間がいるから」
「私も会ってみたい」
すぐに返ってきた言葉だった。
レオンもうなずいた。
「話だけでは、想像が追いつかないんだ。君が暮らしていた場所も、君の友達も」
俺は二人を見た。
名所を案内してほしいと言ったときより、少し真剣な顔をしていた。
「……じゃあ、接続できるか確認しようか」
◇
二人は、思っていた以上に夢中になった。
エラは城下町から出なかった。
仕立屋に入り、染物屋へ行き、茶屋でお茶を頼んだあと、最初の仕立屋へ戻った。
「ユウ。さっきの青と、こっちの青は違うの」
「うん」
「どちらがいいと思う?」
「エラなら、明るい方かな」
「では、レオンのは暗い方ね」
「どうして僕の服まで決まるんだい」
そう言いながら、レオンは素直に試着していた。
そのレオンは、城へ戻ると動かなくなった。
内政の画面を開き、資源の収支を眺めている。
「この畑を先に上げれば、兵を増やす前に余裕ができるね」
「そうだね」
「でも倉庫が足りないな。ユウ、この建設時間は短縮できる?」
できる、と答えたのがよくなかった。
説明が、終わらなくなった。
昼は現実の案内。
夜はゲームの案内。
その合間に報告書を書き、翌日の予定を確認する。
気がつくと、いつもの宴会場には三日ほど顔を出していなかった。
◇
『今日、来る?』
晴から書簡が来たのは、レオンに武将の配置を説明しているときだった。
『ごめん。今日は少し難しそう』
返事はすぐに届いた。
『そっか! お仕事頑張って!』
明るい文章だった。
その少し後に、もう一通。
『料理は残らないからね!』
俺は画面を見て、少し笑った。
その翌日には、岳から来た。
『明日、空くか』
『まだ分からない。どうしたの?』
『別に』
別に、と言う人は、だいたい何かある。
聞き直そうとしたところで、エラに呼ばれた。
「ユウ! 馬に乗ったまま、お店には入れないの?」
「入れないよ。まず下りよう」
そのやり取りをしているうちに、岳への返事を忘れた。
夜になって思い出し、謝ると、
『忙しいならいい』
と来た。
よくなかった。
◇
五日目、宴会場では俺のいない集まりが開かれていたらしい。
あとで杏から聞いた。
「悠、最近付き合い悪くない?」
最初に言ったのは、晴だったという。
「仕事だろ」
岳が答えた。
「分かってるけど」
晴は、箸で皿の端をつついた。
「ちょっとぐらい、顔出せないのかな」
「案内する相手がいるんだから、勝手には抜けられないでしょう」
葉が言うと、晴は小さくうなずいた。
うなずいてから、もう一度だけ言った。
「……分かってるけど」
玄は話を聞きながら、いつも俺が座る場所に置かれた湯飲みを見た。
「呼んだのか」
「呼んだよ」
「なら待つしかない」
「玄だって、昨日書簡送ってたじゃん」
「確認だ」
「何の?」
「近況の」
杏はそこで笑ってしまったらしい。
朔は笑わず、料理を取り分けていた。
一人分、多かった。
律だけは、最初からあまり口を開かなかったという。
晴が隣へ寄って聞いた。
「律は、寂しくないの?」
「仕事だもの」
「それ、みんな言う」
律は湯飲みに視線を落とした。
「……寂しくないとは、言ってないでしょう」
その一言で、卓が静かになったらしい。
◇
俺が気づいたのは、六日目だった。
律との書簡を読み返していて、返事の内容がずっと同じだと分かった。
『お疲れさま。ちゃんと食べた?』
『食べたよ。今日は遅くなりそう』
『分かった。無理しないで』
その前の日も、似たようなやり取りだった。
さらに前には、律からの、
『次、いつ会えそう?』
という一文があった。
俺はそれに、
『予定が分かったら連絡する』
と答えていた。
連絡していなかった。
「……まずい」
「どうしたの?」
エラが顔を上げた。
城下町の茶屋だった。
向かいでは、レオンが建設終了までの時間を確認している。
「恋人に、会う予定を返してなかった」
エラは瞬きをした。
それから、ゆっくりとレオンを見た。
レオンも画面を閉じた。
「ユウ」
「うん」
「僕たちの案内は、何時までが仕事なんだい?」
答えに詰まった。
今日の正式な日程は、とっくに終わっていた。
二人が楽しんでいるから。
まだ分からないことが多いから。
そう思って、俺が残っていた。
エラが両手を膝に置いた。
「私たち、明日も会えるわよね」
「うん」
「では、今日はその人に会いに行って」
レオンが静かに付け足した。
「君が何でも答えてくれるから、僕たちも甘えていた」
「いや、俺がちゃんと——」
「そうね」
エラは、そこだけは譲らなかった。
「そこは、ちゃんとした方がいいわ」
◇
宴会場の扉を開けると、晴が真っ先にこちらを見た。
「あ」
その声で、何人かが振り向く。
俺は入口で少し立ち止まった。
「……久しぶり」
「ほんとだよ」
晴はそう言って、すぐに自分の隣の椅子を引いた。
「座って。食べるものある」
怒っているのか、喜んでいるのか。
たぶん、両方だった。
岳は俺を見るなり、
「生きてたか」
と言った。
「毎日返事はしてたよね」
「途中で切れた」
「それは、ごめん」
玄が湯飲みを寄せてくれた。
葉は何も言わずに料理の皿を動かし、朔は一度だけ俺を見て、また箸を取った。
いつも通りに見えた。
でも、俺が座ると、少しずつ話し声が増えた。
そのことが、胸に残った。
律は、俺の向かいにいた。
「お疲れさま」
「うん」
俺は彼女を見た。
「予定、返してなかった。ごめん」
「ええ。待ってた」
穏やかな声だった。
言い訳をすると、余計に寂しくさせる気がした。
「明後日の午後は空く。会える?」
律はすぐには答えなかった。
俺を見たまま、少しだけ首を傾げる。
「案内は?」
「午前で交代する。もう確認した」
「ゲームは?」
「夜まで入らない」
律はようやく、うなずいた。
「じゃあ、会う」
そこで晴が、横から口を挟んだ。
「私たちは?」
俺は晴を見た。
晴は真顔だった。
「律との約束はそれでいいよ。私たちは?」
岳がうなずいた。
「そこは別だな」
「……明日の夜、来る」
「何時?」
「八時ぐらい」
「ぐらい?」
「八時に」
晴は満足そうに椅子へ座り直した。
◇
翌晩は、エラとレオンも連れていった。
二人を紹介すると、晴はすぐに席を用意した。
エラは律を見ると、きちんと姿勢を正した。
「初めまして。エレオノーラです。ユウには、とてもお世話になっています」
「律です。こちらこそ」
二人は微笑んで、挨拶を交わした。
そしてエラが言った。
「昨日は、ようやくお返しできてよかったです」
俺はお茶を飲み損ねた。
律が、ちらりとこちらを見る。
「ええ。少し長めに貸し出していたので」
「律」
「何?」
何でもなかった。
隣では、レオンが岳に内政の相談を始めていた。
俺が説明しようとすると、岳に手で止められた。
「こっちは俺が聞く」
エラの衣装の話には、杏と葉が加わった。
晴は二人を次の催しに誘っていた。
ずっと俺に向けられていた質問が、卓のあちこちへ分かれていく。
少し手持ち無沙汰になっていると、隣に律が座った。
「よかったわね」
「うん」
「あなたが全部、相手をしなくても大丈夫そう」
俺は、楽しそうに話す二人を見た。
「最初から、みんなに紹介すればよかった」
「そうね」
律の膝が、軽く俺の膝に触れた。
そのまま、離れなかった。
「明後日」
彼女が小さく言った。
「うん」
「仕事の話は聞くけど、途中で案内には戻さないから」
「戻らないよ」
「書簡が来ても?」
「緊急じゃなければ、あとで返す」
律は俺の顔を見て、それから少し笑った。
「なら、いいわ」
卓の向こうで、晴が手を振っていた。
「悠! 明日も来るよね?」
答える前に、隣から律の声がした。
「明後日の午後は、私が先約だからね」
晴は一瞬きょとんとして、それから大きくうなずいた。
「分かってる! じゃあ、その前の日!」
俺の予定が、次々と埋まっていく。
誰もが少し拗ねていて、誰もがもう、俺の席を空けていた。




