番外11
番外短編 第11話 日曜日の約束
日曜日の朝、父は新聞を逆さに持っていた。
「父さん」
「何だ」
「それ、読める?」
父は紙面を見下ろした。
ゆっくりと上下を返す。
「見出しは読めた」
向かいで母が紅茶を飲んでいた。その横にはゲーム用の端末が置かれていたが、珍しく画面は暗い。
二人とも、俺が起きてくるのを待っていたらしい。
「今日は出かけるのね」
「うん」
「そう」
母は頷いた。
それだけだった。
あれだけ騒いで、ゲームの公式映像にまで手を入れた人が、今朝は妙におとなしい。
かつて妻を守るために、大同盟を作った者がいた。
そして夫を守るために、大連盟を組織した者がいた。
初めてあの文言を見たとき、俺はしばらく声が出なかった。
俺も律も、まだ独身である。
映像の中では、俺たちらしき二人が指輪まで着けていた。制作した人には申し訳ないが、あそこまで堂々と未来を捏造されると、感心するより先に頭が痛くなる。
「今日は車を――」
父が言いかける。
母がカップを置いた。
父は一度、咳払いをした。
「……使うなら、鍵はいつもの場所にある」
「電車で行くよ」
「そうか」
また新聞が上がる。
今度は向きが正しかった。
俺はパンを一枚食べて、席を立った。
玄関へ向かう途中、母に呼び止められた。
「悠」
振り返ると、母は椅子に座ったまま、こちらを見ていた。
「この間は、ごめんなさいね」
用意していた返事が、喉の手前で止まった。
「……分かってくれたなら、いいけど」
「律さんにも」
「うん」
「ちゃんと伝えてね」
母はそれ以上、何も足さなかった。
俺も頷くだけにして、靴を履いた。
*
律は改札の外にいた。
俺を見つけると、携帯を鞄にしまった。
「おはよう」
「おはよう。待った?」
「五分くらい」
「ごめん」
「まだ約束の時間前だよ」
駅の外へ出る。
昨夜の雨が歩道の隅に残っていた。律は水溜まりを避けながら、俺の横に並んだ。
「お母さん、何か言ってた?」
「謝ってた。律にも伝えてほしいって」
「そっか」
「父さんは、新聞を逆さに読んでた」
律の足が一瞬止まった。
「どういうこと?」
「俺にも分からない」
律は口元を押さえた。
しばらく歩いてから、まだ少し笑ったまま言った。
「緊張してたのかな」
「俺よりしてたと思う」
「自分であんな映像を作らせたのに」
「完成品を見るまでは、いい考えだと思ってたんじゃないかな」
「見たあとも、結構満足そうだったけど」
それについては、否定できなかった。
*
予約したのは、駅から少し離れた小さな店だった。
父の知っている店ではない。
俺が調べて、空いている時間を聞いて、窓際の席を一つ取った。
その程度のことに、思ったより時間がかかった。
席に着くと、律は店の中を見回した。
壁に小さな絵が何枚も掛かっている。厨房の方から、皿が触れる音と、何かを炒める音がした。
「ここ、来たことある?」
「ない。落ち着いて話せそうだったから」
「うん。いいね」
メニューを開いて、律が言った。
「でも、その前に食べ物決めたい」
「そうだな」
「悠、入ってから一回もメニュー見てない」
手元を見る。
裏表紙だった。
律は何も言わず、自分のメニューをこちらへ寄せてくれた。
*
料理が来るまで、仕事の話をした。
覚えることが多いこと。
自分では簡潔に書いたつもりの報告に、もっと短く、と返されたこと。
律は笑ったが、どのくらい書いたのか聞くと、少し考えた。
「それは、長いかもしれない」
「必要だと思ったんだよ」
「全部?」
「……そのときは」
「あとで読むと?」
「三分の一くらいでよかった」
「じゃあ、次はできるね」
あっさり言われて、俺も笑った。
運ばれてきた料理を食べている間に、肩の力が少し抜けた。
律は嫌いなものを端へ寄せたりせず、ただ、好きなものを最後に少し残していた。話しかけると手が止まる。飲み物を飲んでから答えるとき、カップの持ち手に指を掛けたままになる。
向こうの世界で知っていたことも、帰ってから知ったこともあった。
まだ知らないことも、きっとたくさんある。
皿が下げられたあと、律がこちらを見た。
「それで」
「うん」
「今日は、何から話す?」
俺は膝に置いていた手を、机の上へ戻した。
「まず、あの映像のこと」
「うん」
「俺は、ああいう形で先に決められるのは嫌だった」
律は頷いた。
「私も」
「でも、結婚することが嫌だったわけじゃない」
最後の方だけ、少し声が小さくなった。
隣の席で椅子が引かれた。
店員が空いた皿を重ねる音がした。
律は俺を見たまま、返事をしなかった。
俺は続けた。
「仕事がもう少し落ち着いたら、とか。ちゃんと生活できるようになったら、とか、考えてたんだけど」
「うん」
「それを、律に話してなかった」
「聞いてなかったね」
「一人で考えて、待ってもらってるつもりになってた」
律は視線を落とした。
カップの脇に置かれていた小さな匙を、指で少し動かす。
「私、急いでほしかったわけじゃないよ」
「うん」
「ただ、悠がどう思ってるかは、知りたかった」
匙が止まった。
「聞いて、困らせるかなって思ってた」
「困らないよ」
「今なら、そう言うと思う」
その通りだった。
仕事を覚えるので精いっぱいだと、何度か律に話していた。
それを聞いた律が何を飲み込んでいたのか、俺は考えていなかった。
「ごめん」
「謝ってもらいたくて言ったんじゃない」
「うん」
「今、聞けてるから」
律が顔を上げた。
俺は一度息を吸った。
何かうまい言い方を探しかけて、やめた。
「律と結婚したい」
言ってしまうと、短かった。
補足することは、いくらでもあった。
収入も、住む場所も、これからの働き方も。
けれど、それを先に並べたら、また肝心なことが後ろへ行く気がした。
「一緒に暮らしたい。これからのことも、一緒に決めたい」
律は少しだけ唇を結んだ。
泣いているのかと思ったが、違った。
「……よかった」
小さな声だった。
「私だけ、もうそこまで考えてたら、ちょっと恥ずかしいなって思ってた」
「考えてた?」
「住むところとか」
「うん」
「朝、どっちが先に出るのかなとか。帰りが遅い日は、ご飯どうしようとか」
律が笑った。
「そんなこと」
俺は、胸の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
俺の考える結婚には、まだ、何か大きな区切りのようなところがあった。
律の話には、平日の夕飯があった。
「その話、聞きたい」
「今?」
「今」
「長くなるよ」
「今日は時間ある」
律は鞄から携帯を出しかけて、途中で止めた。
「その前に、返事してない」
俺も止まった。
「……そうだった」
「うん。よろしくお願いします」
律は少し照れたように笑った。
俺は頷いて、それから、自分も同じ言葉を言った。
*
店を出るころには、日が差していた。
話は全部は決まらなかった。
むしろ、具体的に話し始めたら、分からないことが増えた。
どこに住むのか。
それぞれの通勤に、どのくらいかかるのか。
家賃はどのくらいまでにするのか。
律の家へ挨拶に行く日も、これから相談する。
それでも、店に入る前よりずっと楽だった。
歩いていると、不動産屋の前に出た。
窓いっぱいに間取り図が貼られている。
律が足を緩めたので、俺も止まった。
「見る?」
「ちょっとだけ」
並んで窓を覗く。
律は二階の部屋を指さした。
「ここ、台所広い」
「駅からも近いな」
「あ、でも収納が少ない」
「この隣は?」
「……悠」
「うん?」
「それ、店舗」
よく見ると、飲食店可、と書いてあった。
「台所は広そうだった」
「そうだね。お客さんも呼べるね」
律が笑う。
俺も笑った。
そのまま、しばらく窓の前にいた。
*
夕方、家に戻ると、父と母が居間にいた。
二人で一冊の旅行雑誌を見ている。
俺の顔を見るなり、母の指がページの上で止まった。
「おかえり」
「ただいま」
父も顔を上げる。
聞きたいのが、見て分かった。
けれど、二人とも聞かなかった。
俺は鞄を置いて、椅子に座った。
「律と話したよ」
「そう」
母が背筋を伸ばす。
「結婚する方向で、ちゃんと進めようって」
父が雑誌を閉じた。
母は何か言いかけ、父の方を見て、それから俺を見た。
「おめでとう」
「ありがとう」
「律さんは?」
「帰った。今度、改めて一緒に来る」
「そう。じゃあ、そのときに」
母は笑った。
今度は、勝手に何かを決めた人の顔ではなかった。
父はしばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。
「手伝えることがあれば、言いなさい」
「うん。でも、まずは二人でやるよ」
「分かってる」
父が頷く。
俺は念のため付け加えた。
「家とか、買わなくていいから」
沈黙が落ちた。
母が父を見た。
父は閉じたばかりの旅行雑誌を開いた。
「父さん」
「まだ何もしていない」
「まだ?」
「見ただけだ」
律に連絡しておこうと思った。
住む場所については、なるべく早く決めた方がよさそうだった。




