番外8
番外編 第8話 停戦条件に息子を入れないでください
翌日の話し合いには、母も来た。
来ること自体は、聞いていた。
向こうの同盟で相応の戦力を出している以上、周辺の取り決めに関わるのは不思議ではない。
ただ、会議室に入ってきた母が、俺を見るなり、
「昨日、ちゃんと寝た?」
と聞いたのは、想定していなかった。
俺は隣の律を見た。
律は資料へ目を落とした。
その肩が、わずかに揺れている。
「寝たよ」
「そう。ならよかった」
母は満足そうに頷き、向かいの椅子へ座った。
隣にいた相手の外交担当が、俺と母を交互に見た。
「……お知り合いですか?」
母が答えた。
「息子です」
会議が、まだ始まってもいないのに止まった。
*
相手の外交担当は、景浦と名乗った。
母より少し前からこのゲームを始めていて、細かい調整を任されているらしい。
温厚そうな顔をしていたが、今は明らかに困っていた。
「すみれさん、それは先に言っていただかないと」
「でも、今朝の確認事項に、家族の話はなかったでしょう」
「そういう問題では……」
「向こうに都合のいい話はしていませんよ。昨日も、ちゃんと出ましたし」
景浦は口を閉じた。
報告を見る限り、ちゃんと出たどころではなかった。
俺は咳払いをした。
「親子関係はありますが、今回の件は通常どおりお願いします。こちらも、特別な扱いを求めるつもりはありません」
「承知しました」
景浦が頷いた。
律も顔を上げた。
「では、まず、問題になった砦の周辺から確認しましょう」
「その前に」
母が言った。
俺の胃が少し縮んだ。
母は律へ向き直った。
「すみれです。いつも息子がお世話になっています」
律は、一瞬だけ俺を見た。
俺は何もできなかった。
「律です。こちらこそ、お世話になっています」
「悠から、お名前は聞いています」
母が俺を見た。
「あなた、ちゃんと紹介しないから」
「今は土地の話をしに来たんだよ」
「だから、最初に挨拶を済ませているの」
筋は通っていた。
通っているのが、厄介だった。
*
話し合いは、始まってしまえば真面目だった。
今回ぶつかった砦の周囲を、どこまで互いに取得するか。
既に延びている領地をどう扱うか。
移動のために通す部隊と、攻撃部隊をどう区別して連絡するか。
律が地図に印をつけた。
「この道を境にする案なら、こちらは受け入れられます。ただ、そちらの城へ向かう道を塞ぐ形にはしたくありません」
景浦が少し身を乗り出す。
「通行を認めていただけるということですか」
「事前に知らせていただければ。ただし、対象の経路を決めたいです」
母は黙って聞いていた。
もっと途中で口を挟むかと思っていたので、少し意外だった。
だが、景浦が地図の一角を指したとき、母の手が動いた。
「ここは、まだ決めない方がいいと思います」
景浦が顔を向ける。
「どの部分ですか?」
「この、川の東側。向こうの城にいる人たちが、今朝は来ていないでしょう」
「範囲としては、同盟でまとめて――」
「まとめるのはいいんです。でも、ここを手放すと、あの二人が不便になりますよ」
母は、地図の城を順番に指した。
「こっちの人は、昼休みに少しだけ来る人。もう一人は、夜の九時まで。道が遠回りになると、来られる時間に用事が終わらなくなるかもしれません」
俺は母を見た。
誰が何時まで遊べるか。
そんなことまで、知っているのか。
景浦は手元の紙を確かめた。
「……確かに。そこは持ち帰らせてください」
律が頷いた。
「では、今日はこの区間までで」
母は地図から手を離した。
それから俺を見て、小さく言った。
「そういうところも、大事でしょう」
「うん」
俺は素直に頷いた。
*
休憩に入ると、母は景浦に呼ばれて窓際へ行った。
二人で何か確認している。
俺は椅子の背へ体を預けた。
律が隣で、資料を揃えながら笑った。
「よく見てる方だね」
「俺も、ちょっと驚いてる」
「悠に?」
「いや、母に」
「そうじゃなくて。悠に似てる」
俺は律を見た。
「似てるかな」
「人が来られる時間から考えるところ」
窓際では、母が何かを指折り数えていた。
景浦が書き留めている。
買い物の相談をしているときにも、あんな顔をしていた気がする。
「でも、あの戦力には驚いた」
俺が言うと、律の口元が緩んだ。
「玄、ずっと計算してた」
「やめて。その話、実家の食卓でしたくない」
「聞いておいてくれって言われたよ」
「何を?」
「どういう順番で強化したのか」
俺は天井を見た。
玄はもう、そこを知りたくなっているらしい。
*
母が戻ってきたとき、俺は聞いた。
「向こうで、どんな役をしてるの」
「特にないわよ」
景浦が、母の後ろで微妙な顔をした。
俺はそちらを見た。
「……ないんですか?」
「役職名は、まだ」
景浦が答えた。
母は気にせず、水を飲んだ。
「人が足りないところに送ったり、困ってる人に聞いたり。そのくらい」
「すみれさんがいる日は、参加者が増えるんです」
景浦が言った。
母が少し照れたように笑う。
「そんなことないでしょう」
「ありますよ。昨日も、来ない予定だった人が二人」
「だって、途中で帰ってもいいって言っただけです」
俺は母の顔を見た。
母は続けた。
「最初から最後までいなくちゃいけないと思ったら、来られない人もいるでしょう。一時間いるなら一時間で。その後は、いる人がやればいいのよ」
景浦が頷いた。
「そういう調整を、いつもしていただいています」
母は少し居心地が悪そうにした。
「私だって、途中で抜けますよ。昨日も洗濯物を取り込んだし」
「その間に前線が薄くなったんだけど」
思わず言うと、母が俺を見た。
「あのとき?」
「たぶん」
「じゃあ、危なかったのね」
母は真剣に頷いた。
「次から先に取り込むわ」
そこを改善されるのは、困る。
*
休憩の終わり際、晴から連絡が来た。
『どう?』
『一部保留。ほかはまとまりそう』
そう返すと、すぐ次が来た。
『お母さん、怒ってる?』
『怒ってない』
『じゃあ、今度一緒に遊びたいって伝えて』
俺は画面をしばらく見た。
向かいで母が顔を上げる。
「何?」
「晴が、今度一緒に遊びたいって」
「あら。私も」
母は嬉しそうにした。
景浦も少し笑った。
このくらいのやり取りなら、悪くない。
そう思ったところで、母が付け加えた。
「玄さんも呼べる?」
「何で」
「昨日、援軍が着く時間をぴったり合わせてきたでしょう。あれ、どうやってるのか聞きたいの」
俺は黙った。
母は首を傾げた。
「駄目?」
「本人に聞いて」
律が横を向いた。
今度は、はっきり笑っていた。
*
最終的に、その日は仮の取り決めができた。
確認の残る区間では、新しい取得と攻撃を止める。
互いに持ち帰って相談し、次の会議で決める。
そのほかの道と砦については、地図へ線を引いた。
景浦が文面を読み上げる。
律が一か所だけ直した。
母も、先ほどの二人の城が保留に入っていることを確かめた。
「こちらは、これで大丈夫です」
景浦が言った。
「こちらもです」
俺が答える。
ようやく終わった。
そう思った瞬間、母が手を上げた。
「あと、一つ」
俺は反射的に背筋を伸ばした。
景浦も筆を持ち直した。
母は律へ向いた。
「次の日曜、お時間あります?」
筆が止まった。
律も少し驚いた。
「日曜、ですか」
「よかったら、うちでお昼を。悠も来るので」
「俺、まだ何も聞いてないけど」
「今、言ってるでしょう」
俺は額へ手を当てた。
景浦が、書きかけの紙と母を見比べた。
「こちらも、取り決めに……?」
「入れなくていいです!」
思ったより大きな声が出た。
律が笑った。
とうとう、声を出して笑った。
母も笑いながら手を振った。
「これは個人的なお誘いです。すみません」
景浦は、心底ほっとした顔で筆を置いた。
*
日曜の昼、俺と律は実家の前に立っていた。
律は手土産の袋を持っている。
俺は玄から預かった、母への質問を持っていた。
本当に、持たされた。
「それ、今日聞くの?」
律が俺の手元を見た。
「渡すだけ。食事中に始めたら、たぶん終わらない」
玄の紙には、強化の順番と、部隊の組み方について、細かい字が並んでいた。
母からも、玄へ聞いてほしいことが届いている。
俺が間に入る必要は、もうない気がした。
呼び鈴を押す前に、玄関が開いた。
母が顔を出した。
「いらっしゃい。律さん、よく来てくださいました」
「お招きいただいて、ありがとうございます」
母は律の顔を見て、笑った。
いつものゲームの話をしているときより、少し柔らかい笑い方だった。
「どうぞ。今日はゆっくりしていって」
俺も入ろうとすると、母が小声で呼び止めた。
「悠」
「何?」
「今日は、ゲームの難しい話ばかりしないでね」
俺は手に持った紙を見た。
母も見た。
少し間があった。
「……それ、玄さんから?」
「うん」
母はそっと受け取った。
最初の二行に目を通したところで、律が振り返った。
「すみれさん?」
母は顔を上げた。
「はい?」
「それ、私も少し気になります」
母の顔が、ぱっと明るくなった。
俺は玄関の扉を閉めた。
昼食が冷める前に、この二人を食卓へ連れていく仕事が残っていた。




