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番外7

番外編 第7話 律が出さなかった書簡


 便箋を一枚、無駄にした。


 律は書き終えた文章を読み返し、紙の右上を折った。


 破るつもりだった。


 指に力を入れたところで、廊下から足音が聞こえた。


「律、まだ起きてる?」


 扉の向こうから、声がした。


 律は紙を帳面の下へ差し込んだ。


「起きてる。どうしたの?」


「さっきの書簡、一枚そっちに混ざってないかな。北の道についての」


 扉を開けると、彼は申し訳なさそうな顔で立っていた。


「こんな時間にごめん」


「大丈夫。どの辺りの?」


「川を渡った先。通行の話をしてた……」


「ああ、あれなら」


 律は机へ戻った。


 返信済みの束から一枚抜き、差し出す。


 彼が受け取る。


「これだ。助かった」


「返事は出してあるよ」


「うん。ただ、明日の話し合いで、向こうが最初にどう言ってたか確認しておきたくて」


 紙へ目を走らせながら、彼は答えた。


 その右手には、すでに別の書簡が何枚もあった。


 律はそれを見た。


「まだ続けるの?」


「これを読んだら終わりにする」


「さっきも、そう言ってなかった?」


 彼が顔を上げた。


 律自身、思っていたより硬い声が出たことに驚いた。


「……言ったかな」


「夕食のとき」


「ああ」


 彼は困ったように笑った。


「でも、今度は本当にこれだけ」


 律は頷かなかった。


 彼も、すぐには部屋を出ていかなかった。


     *


 その日の話し合いは、夕方まで続いた。


 相手の使者は、最後にはこちらの説明を受け入れた。


 条件も、悪くないところでまとまった。


 皆は安心していたし、律もひとまず片づいたと思っていた。


 ただ、彼が昼に食べ損ねたものは、そのまま机の端に残っていた。


 冷えた料理を下げようとすると、彼は初めて気づいたように顔を上げた。


「あ、それ、あとで食べる」


「もう冷めてる」


「平気」


「温めてもらうから」


「そこまでしなくていいよ」


 悪気のない言い方だった。


 むしろ、気を遣っているつもりなのだろう。


 律には、それが分かった。


 分かったから、言い返せなかった。


 器を持って部屋を出ると、廊下の途中で足が止まった。


 何に腹を立てているのか。


 自分で考えて、少し嫌になった。


 食事を忘れられたことではない。


 温め直す手間が増えたことでもない。


 彼は、相手が疲れた顔をしていれば休憩を入れる。口数の少ない者がいれば、話を聞くために時間を取る。


 なのに、自分が何も食べていないことは、誰かが器を下げるまで気づかない。


 律が気にかけても、「平気」で終わる。


 それでは、いつまでたっても心配する方をやめられない。


     *


 夜、用件を片づけてから、律は便箋を出した。


 最初は、ごく短く書くつもりだった。


『明日の準備は済んでいます。今夜は休んでください』


 読み返して、筆を止めた。


 これでは、まだ済んでいない用事を探してきそうだった。


 律はその下へ書いた。


『食事を抜くのも、そろそろやめてほしいです』


 小言だった。


 分かっていたが、手は止まらなかった。


『あなたは、人には休めと言うのに、自分のことになると少し待ってほしいと言います。その少しが終わったところを、私はあまり見たことがありません』


 そこまで書くと、少し気が済んだ。


 だが、送る文章ではなかった。


 疲れた相手にこれを読ませて、どうするつもりなのか。


 律は筆を置こうとした。


 その前に、もう一行だけ書いた。


『話し合いが終わった後も、あなたと話したいことがあります』


 書いた途端、それまでの文章が全部、言い訳のように見えた。


 律はしばらく、その一行を見ていた。


 次に何を書くかは、決まっていなかった。


 仕事の話なら、いくらでもある。


 それ以外のことを聞かれると困る。


 今日、空がきれいだったこと。


 城下で見つけた店。


 彼が前に言いかけて、誰かに呼ばれたままになっている話の続き。


 どれも、忙しい相手を引き止めるほどのことには思えなかった。


 それでも、話したかった。


 律は紙の右上を折った。


 そのとき、彼が来た。


     *


「それ、今夜じゃないと駄目?」


 律は、彼の手元を指した。


 彼は書簡を見た。


「駄目ではないけど」


「じゃあ、置いていって」


「ここに?」


「うん。明日の朝、渡す」


 彼は少し戸惑った。


 律も、自分がずいぶん強引なことを言っていると思った。


 だが、一度言ってしまうと、引っ込めたくなかった。


「私が先に読むとか、そういう話じゃなくて。今夜は、もう終わりにしよう」


 彼は書簡の角を親指で撫でた。


「何か、怒ってる?」


 律は息を吸った。


「少し」


 答えると、彼の表情が変わった。


「ごめん。何か――」


「謝ってほしいわけじゃない」


 また遮ってしまった。


 律は机の縁へ手を置いた。


 もう少し落ち着いて話したかった。


 外交の書簡なら、相手がどう受け取るかを考えながら、一語ずつ選べる。


 本人を前にすると、どうしてこんなに下手になるのだろう。


「今日、何を食べたか覚えてる?」


 彼は少し考えた。


「夕方に、煮込みを」


「それ、昼食だったもの」


「……うん」


「明日の相手がどんな言い方をしたかは、わざわざ確認するのに」


 彼は何も言わなかった。


 律は目を伏せた。


 責めたいわけではなかった。


 けれど、責める言葉しか出てこない。


「私が温めてもらってきたとき、あなた、もう別の人と話してた」


「うん」


「その人が帰るまで、また冷めていくのを見てた」


 彼が、ゆっくり書簡を机へ置いた。


 紙が触れる、小さな音がした。


「気づいてなかった」


「知ってる」


 律はそう答えた。


 声は、さっきより小さかった。


     *


 彼は帰らなかった。


 机の向かいの椅子を指して、座っていいかと聞いた。


 律が頷くと、そこへ腰を下ろした。


「少し、ここにいてもいい?」


「仕事は?」


「置いた」


「……本当だね」


 彼が苦笑した。


 律も、少しだけ口元が緩んだ。


 座り直すと、帳面の端から便箋の角が見えた。


 折れたところを、そっと奥へ押し込む。


 彼は気づかなかった。


「今日の煮込み、辛くなかった?」


 唐突に聞かれて、律は顔を上げた。


「少し」


「最後に食べたとき、結構辛くて」


「煮詰まったんじゃない?」


「ああ、そうか」


 彼は納得したように頷いた。


「明日は、温かいうちに食べる」


「温かいより、熱いかもしれないよ」


「それは少し待つ」


 律は笑ってしまった。


 彼も笑った。


 その後は、すぐには言葉が続かなかった。


 静かになっても、彼は書簡へ手を伸ばさなかった。


 窓の外へ目を向け、それから机の上の茶器を見た。


「律は、今日、ちゃんと休んだ?」


 律は答えに詰まった。


 彼がこちらを見る。


「……人のこと、言えない?」


「私は食べた」


「そこじゃなくて」


 今度は律が、困ったように笑う番だった。


     *


 二人で台所へ行き、湯をもらった。


 帰りに廊下の窓辺へ座った。


 彼は今日の話し合いに触れかけて、途中でやめた。


「今、仕事の話しようとした」


「分かった」


「何を話せばいいんだろうね」


 律は両手で器を包んだ。


 同じことで困っているのが、少しおかしかった。


「この前の話」


「この前?」


「カイが、あなたを置いて先に帰ったって」


「ああ、あれ」


 彼の顔が変わった。


「違うんだよ。あれは俺が置いていったことになってて」


「どうして?」


「先に行って待ってろって言ったら、城で待ってたんだ」


 律は吹き出した。


「間違ってないね」


「道の先で、って意味だったのに」


「そこまで言った?」


「言ってない」


「じゃあ、難しいかな」


 彼は不満そうに器へ口をつけた。


 その仕草までおかしくて、律はしばらく笑っていた。


 風が窓から入ってきた。


 彼が窓を少し閉める。


 戻ってくると、さっきより近いところへ座った。


 律は器を持ち直した。


 何か言おうとしたが、言わなかった。


 そのまま、続きを聞いていた。


     *


 書簡は、結局送らなかった。


 翌朝、彼は約束どおり取りに来た。


 持ってきたのは、朝食を食べたという報告だった。


 律は笑いながら、預かっていた仕事の書簡を返した。


 帳面に挟んだ方は、そのままにした。


 後で一度だけ読み返した。


 最後の一行の下には、何も書き足さなかった。


     *


 あれから、随分いろいろなことがあった。


 帰ってきた世界では、食事を忘れるほどの会議も、眠れない夜も、あの頃と同じ形では訪れない。


 それでも、悠は時々、何かに気を取られると、自分の皿を後回しにした。


 その日もそうだった。


 向かいの席で、彼は見習いとして始めた仕事の話をしていた。


 初めて任されたこと。


 思ったより難しかったこと。


 教えてくれた人が、意外なところで笑ったこと。


 律は楽しく聞いていたが、途中で彼の皿へ目を落とした。


「悠」


「うん?」


「冷めるよ」


 彼は皿を見た。


 それから、律を見た。


「あ」


 その顔で、覚えているのだと分かった。


「食べながら話して」


「そうする」


 悠は一口食べ、飲み込んでから笑った。


「また怒られるところだった」


「今日は、まだ大丈夫」


「まだなんだ」


 律も自分の料理へ手を伸ばした。


 あのとき送らなかった文章を、今なら少し違う形で言えそうだった。


「それで、仕事の話が終わったら」


 悠が顔を上げる。


「午後、寄りたいところがあるの」


「どこ?」


「歩いて行ける。付き合ってくれる?」


 悠は頷いた。


「もちろん」


 律は店の名前を伝えた。


 悠が場所を調べようと携帯電話へ手を伸ばしたので、その前に言った。


「食べ終わってから」


 悠の手が止まった。


 二人で笑った。


 律は、今度は料理が冷める前に、次の一口を食べた。

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