↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
183/200

番外5

番外編第五話 律の買い物


 律が待ち合わせ場所に来たとき、俺はすでに失敗を悟った。


 その視線が、肩から下げた鞄に止まったからだ。


「何、それ」


「鞄」


「中身」


「水と、地図と、念のための上着。あと、買ったものを包める布」


 律は黙っていた。


「紐もある」


「聞いてないのまで増えた」


 広場の向こうでは、市場の天幕が風に膨らんでいる。焼きたてのパンを積んだ荷車が通り、車輪の軋む音に、客を呼ぶ声が重なった。


 今日は律と買い物をする。


 それだけの日だった。


「悠」


「うん」


「今日は遠征じゃないからね」


「分かってる」


「その鞄、岳が滝に行ったときと同じ」


 よく見ている。


     *


 市場へ入って、最初の分かれ道で俺は足を止めた。


「先に何を買う?」


「まだ決めてない」


「布なら右の通りにまとまってる。食べ物は奥だから、最後に回れば荷物が――」


「悠」


 律が俺の袖を引いた。


 左だった。


「こっち」


「何かある?」


「分からない。だから見に行く」


 そのまま連れていかれた。


 左の通りには、確かに、あまり用がなさそうな店が並んでいた。


 小さな陶器の鳥。


 持ち手の曲がった匙。


 何に使うのか分からない、穴が七つ開いた木の板。


 俺が板の前で立ち止まると、店主のおじいさんが言った。


「笛だよ」


「これが?」


「吹いてごらん」


 言われるまま、端の穴に息を吹き込む。


 ぶお、と、何か大きな獣が不満を漏らしたような音が出た。


 律が横を向いた。


「笑ってる?」


「笑ってない」


 肩が揺れていた。


 おじいさんが板をひっくり返す。


「こっちだね」


「……先に言ってほしかったです」


 正しい方から吹くと、今度は細い、澄んだ音がした。


 律が手を出す。


「貸して」


 俺よりずっと上手だった。


 短い旋律までついた。


「吹けるんだ」


「今、覚えた」


「早いな」


「悠が間違えてくれたから」


 おじいさんまで頷いた。


 誰かの役には立ったらしい。


 律は笛を返し、礼を言って店を離れた。買わないのかと聞きかけて、俺はやめた。


 少し歩いてから、律がこちらを見る。


「何?」


「いや」


「買わないの、って思った?」


「……顔に出た?」


「口が動いてた」


 それはもう、ほとんど言っている。


「欲しくなったら戻るよ」


 律はそう言って、次の店を覗いた。


 俺も隣にしゃがんだ。


     *


 布を扱う店で、律の足が止まった。


 棚から吊るされた布の下に、小さな端切れが籠いっぱいに詰められていた。色も厚さも揃っていない。律はその中から、青いものを一枚つまみ上げた。


 濃すぎない青だった。


 窓際に置くと、光を通した端の方が少し白く見える。


「それ、何に使うの?」


「まだ決めてない」


 律は布を指に巻き、ほどいた。


「この色、いいなと思って」


 俺は籠の隣にある札を見た。


 端切れ三枚で、少し安くなる。


「三枚なら――」


 律がこちらを向く。


 俺は口を閉じた。


「続けて」


「いや、一枚でもいいと思う」


「本当に?」


「今、思い直した」


 律は笑った。


 買ったのは、青い布一枚だった。


 店を出るとき、包んでもらったそれを俺が受け取ろうとしたら、律は自分の小さな袋にしまった。


「これは持てる」


「まあ、そうか」


「重いものを買ったら頼むね」


 肩の鞄が、急に大きすぎる気がした。


     *


 昼前になると、市場は少し歩きにくくなった。


 人の流れが狭い通りに溜まり、店先からは煮込んだ肉の匂いがした。


 俺が空いている道を探している間に、律は屋台の列に並んでいた。


「ここ?」


「うん」


「向こうの方が早そうだけど」


「こっちが食べたい」


 屋台では、薄い生地に具を載せて、半分に折って焼いていた。


 鉄板に押しつけるたび、縁から油が弾ける。


 俺たちの前には、五人いた。


 なかなか進まない。


 律は別に気にしていないようだった。鉄板を見たり、向かいの店先を見たりしている。


「待たせてる?」


 不意に聞かれた。


「え?」


「さっきから、ほかの屋台を見てるから」


「ああ。どこが早いのかなと思って」


「急いでる?」


「急いでない」


 言ってから、ようやく自分で気づいた。


 今日は、戻って報告する相手もいない。


 決めた時刻に動かす荷車もない。


 律と買い物に来ただけだ。


「ごめん。癖だな」


「知ってる」


 責めるような声ではなかった。


 律は一人分進んだ列に合わせて足を動かした。


「でも、今日は待ってて」


「うん」


「私も待ってるから」


 隣に並び直すと、鉄板の上で生地が膨らんだ。


 店のおばさんが、それをへらで軽く押さえる。


 今度は、焼けるところを最後まで見た。


     *


 食べ物は、思ったより熱かった。


 広場の石段に座り、包みを少しずつ剥がして食べる。俺が最初の一口で黙ったので、律はしばらく自分の分に息を吹きかけていた。


「熱かった?」


 俺は頷いた。


「また教えてくれたね」


「今日はそればかりだな」


「役に立ってる」


 ようやく飲み込んで、水筒を出した。


 律がそれを見る。


「それは、持ってきて正解」


「上着も使う?」


「今は暑い」


「紐は」


「使わない」


 即答だった。


 俺は鞄を足元に置いた。


 律は食べながら、広場を眺めている。


 小さな子供が、木の輪を棒で転がしていた。輪は石畳の継ぎ目で跳ね、父親らしい人の足にぶつかった。父親が大げさによろめくと、子供が声を上げて笑った。


「こういうの、見てたかったんだよね」


 律が言った。


「市場?」


「市場も」


 包みの端を折り返しながら、少し考えている。


「みんなが何を買ってるとか。何が売り切れたとか。あの人、ずっと値切ってるのに、全然安くしてもらえてないなとか」


 視線の先で、帽子を被った男が両手を広げていた。


 店主は腕を組んだまま動かない。


「あれ、長いの?」


「私たちが座る前から」


 そう言われると、急に続きが気になった。


 男が商品を戻す。


 立ち去りかける。


 店主は止めない。


 男は三歩ほど歩いてから、戻ってきた。


「買うんだ」


「買うね」


 二人で小さく笑った。


     *


 帰り際、律は最初の通りへ戻った。


 笛の店かと思ったら、その隣だった。


 小さな陶器の鳥が並んでいる。


 白い鳥、茶色い鳥、首を傾けた鳥。


 律はその中から、少しだけ顔の曲がった一羽を選んだ。


「これにする」


「そっち?」


「そっちって?」


 俺は並んでいる別の鳥を指さした。


「こっちの方が、きれいにできてるなと思って」


「うん」


 律は自分の鳥を持ち上げた。


 くちばしがわずかに左を向いている。正面から見ると、隣の様子を気にしているようだった。


「でも、こっちがいい」


 理由は、それ以上なかった。


 店主が紙を探している間、俺は鞄から包み布を出した。


「これに包んでもらえますか」


「おや、助かるね」


 律が俺を見た。


「役に立った」


「紐もある」


「そこまで縛らなくていいよ」


 包まれた鳥は、結局、俺の鞄に入った。


 歩くたびにほかの荷物に当たらないよう、上着を下に敷いた。


 律はそれを最後まで見ていたが、今度は何も言わなかった。


     *


 市場を出ると、人の声が背後で遠くなった。


 午後の日差しはまだ暖かい。


 律が歩きながら、小さな袋から青い布を出した。


「その鳥の下に敷こうかな」


「ああ。合いそうだな」


「置いてみてから決めるけど」


「うん」


 俺は帰り道の分かれ目を見た。


 右へ行けば近い。


 左は川沿いで、少し遠回りになる。


 何も言わずにいると、律が俺の顔を覗いた。


「どっちが早いか、考えてる?」


「今は考えてない」


「じゃあ、何?」


「川の方から帰りたいなと」


 律は一度だけ瞬きをした。


 それから、左へ足を向けた。


「いいね」


 並んで歩き出す。


 少しして、律の手が俺の鞄の持ち手にかかった。


「重い?」


「大丈夫」


「半分持とうか」


「持ちにくくない?」


「ちょっと」


 俺たちは真ん中に鞄をぶら下げて、数歩歩いた。


 歩幅が合わず、鞄が揺れる。


 律が笑って、手を離した。


「やっぱり任せる」


「了解」


 代わりに、空いた方の手を繋いだ。


 川沿いには、まだ誰もいなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。