番外5
番外編第五話 律の買い物
律が待ち合わせ場所に来たとき、俺はすでに失敗を悟った。
その視線が、肩から下げた鞄に止まったからだ。
「何、それ」
「鞄」
「中身」
「水と、地図と、念のための上着。あと、買ったものを包める布」
律は黙っていた。
「紐もある」
「聞いてないのまで増えた」
広場の向こうでは、市場の天幕が風に膨らんでいる。焼きたてのパンを積んだ荷車が通り、車輪の軋む音に、客を呼ぶ声が重なった。
今日は律と買い物をする。
それだけの日だった。
「悠」
「うん」
「今日は遠征じゃないからね」
「分かってる」
「その鞄、岳が滝に行ったときと同じ」
よく見ている。
*
市場へ入って、最初の分かれ道で俺は足を止めた。
「先に何を買う?」
「まだ決めてない」
「布なら右の通りにまとまってる。食べ物は奥だから、最後に回れば荷物が――」
「悠」
律が俺の袖を引いた。
左だった。
「こっち」
「何かある?」
「分からない。だから見に行く」
そのまま連れていかれた。
左の通りには、確かに、あまり用がなさそうな店が並んでいた。
小さな陶器の鳥。
持ち手の曲がった匙。
何に使うのか分からない、穴が七つ開いた木の板。
俺が板の前で立ち止まると、店主のおじいさんが言った。
「笛だよ」
「これが?」
「吹いてごらん」
言われるまま、端の穴に息を吹き込む。
ぶお、と、何か大きな獣が不満を漏らしたような音が出た。
律が横を向いた。
「笑ってる?」
「笑ってない」
肩が揺れていた。
おじいさんが板をひっくり返す。
「こっちだね」
「……先に言ってほしかったです」
正しい方から吹くと、今度は細い、澄んだ音がした。
律が手を出す。
「貸して」
俺よりずっと上手だった。
短い旋律までついた。
「吹けるんだ」
「今、覚えた」
「早いな」
「悠が間違えてくれたから」
おじいさんまで頷いた。
誰かの役には立ったらしい。
律は笛を返し、礼を言って店を離れた。買わないのかと聞きかけて、俺はやめた。
少し歩いてから、律がこちらを見る。
「何?」
「いや」
「買わないの、って思った?」
「……顔に出た?」
「口が動いてた」
それはもう、ほとんど言っている。
「欲しくなったら戻るよ」
律はそう言って、次の店を覗いた。
俺も隣にしゃがんだ。
*
布を扱う店で、律の足が止まった。
棚から吊るされた布の下に、小さな端切れが籠いっぱいに詰められていた。色も厚さも揃っていない。律はその中から、青いものを一枚つまみ上げた。
濃すぎない青だった。
窓際に置くと、光を通した端の方が少し白く見える。
「それ、何に使うの?」
「まだ決めてない」
律は布を指に巻き、ほどいた。
「この色、いいなと思って」
俺は籠の隣にある札を見た。
端切れ三枚で、少し安くなる。
「三枚なら――」
律がこちらを向く。
俺は口を閉じた。
「続けて」
「いや、一枚でもいいと思う」
「本当に?」
「今、思い直した」
律は笑った。
買ったのは、青い布一枚だった。
店を出るとき、包んでもらったそれを俺が受け取ろうとしたら、律は自分の小さな袋にしまった。
「これは持てる」
「まあ、そうか」
「重いものを買ったら頼むね」
肩の鞄が、急に大きすぎる気がした。
*
昼前になると、市場は少し歩きにくくなった。
人の流れが狭い通りに溜まり、店先からは煮込んだ肉の匂いがした。
俺が空いている道を探している間に、律は屋台の列に並んでいた。
「ここ?」
「うん」
「向こうの方が早そうだけど」
「こっちが食べたい」
屋台では、薄い生地に具を載せて、半分に折って焼いていた。
鉄板に押しつけるたび、縁から油が弾ける。
俺たちの前には、五人いた。
なかなか進まない。
律は別に気にしていないようだった。鉄板を見たり、向かいの店先を見たりしている。
「待たせてる?」
不意に聞かれた。
「え?」
「さっきから、ほかの屋台を見てるから」
「ああ。どこが早いのかなと思って」
「急いでる?」
「急いでない」
言ってから、ようやく自分で気づいた。
今日は、戻って報告する相手もいない。
決めた時刻に動かす荷車もない。
律と買い物に来ただけだ。
「ごめん。癖だな」
「知ってる」
責めるような声ではなかった。
律は一人分進んだ列に合わせて足を動かした。
「でも、今日は待ってて」
「うん」
「私も待ってるから」
隣に並び直すと、鉄板の上で生地が膨らんだ。
店のおばさんが、それをへらで軽く押さえる。
今度は、焼けるところを最後まで見た。
*
食べ物は、思ったより熱かった。
広場の石段に座り、包みを少しずつ剥がして食べる。俺が最初の一口で黙ったので、律はしばらく自分の分に息を吹きかけていた。
「熱かった?」
俺は頷いた。
「また教えてくれたね」
「今日はそればかりだな」
「役に立ってる」
ようやく飲み込んで、水筒を出した。
律がそれを見る。
「それは、持ってきて正解」
「上着も使う?」
「今は暑い」
「紐は」
「使わない」
即答だった。
俺は鞄を足元に置いた。
律は食べながら、広場を眺めている。
小さな子供が、木の輪を棒で転がしていた。輪は石畳の継ぎ目で跳ね、父親らしい人の足にぶつかった。父親が大げさによろめくと、子供が声を上げて笑った。
「こういうの、見てたかったんだよね」
律が言った。
「市場?」
「市場も」
包みの端を折り返しながら、少し考えている。
「みんなが何を買ってるとか。何が売り切れたとか。あの人、ずっと値切ってるのに、全然安くしてもらえてないなとか」
視線の先で、帽子を被った男が両手を広げていた。
店主は腕を組んだまま動かない。
「あれ、長いの?」
「私たちが座る前から」
そう言われると、急に続きが気になった。
男が商品を戻す。
立ち去りかける。
店主は止めない。
男は三歩ほど歩いてから、戻ってきた。
「買うんだ」
「買うね」
二人で小さく笑った。
*
帰り際、律は最初の通りへ戻った。
笛の店かと思ったら、その隣だった。
小さな陶器の鳥が並んでいる。
白い鳥、茶色い鳥、首を傾けた鳥。
律はその中から、少しだけ顔の曲がった一羽を選んだ。
「これにする」
「そっち?」
「そっちって?」
俺は並んでいる別の鳥を指さした。
「こっちの方が、きれいにできてるなと思って」
「うん」
律は自分の鳥を持ち上げた。
くちばしがわずかに左を向いている。正面から見ると、隣の様子を気にしているようだった。
「でも、こっちがいい」
理由は、それ以上なかった。
店主が紙を探している間、俺は鞄から包み布を出した。
「これに包んでもらえますか」
「おや、助かるね」
律が俺を見た。
「役に立った」
「紐もある」
「そこまで縛らなくていいよ」
包まれた鳥は、結局、俺の鞄に入った。
歩くたびにほかの荷物に当たらないよう、上着を下に敷いた。
律はそれを最後まで見ていたが、今度は何も言わなかった。
*
市場を出ると、人の声が背後で遠くなった。
午後の日差しはまだ暖かい。
律が歩きながら、小さな袋から青い布を出した。
「その鳥の下に敷こうかな」
「ああ。合いそうだな」
「置いてみてから決めるけど」
「うん」
俺は帰り道の分かれ目を見た。
右へ行けば近い。
左は川沿いで、少し遠回りになる。
何も言わずにいると、律が俺の顔を覗いた。
「どっちが早いか、考えてる?」
「今は考えてない」
「じゃあ、何?」
「川の方から帰りたいなと」
律は一度だけ瞬きをした。
それから、左へ足を向けた。
「いいね」
並んで歩き出す。
少しして、律の手が俺の鞄の持ち手にかかった。
「重い?」
「大丈夫」
「半分持とうか」
「持ちにくくない?」
「ちょっと」
俺たちは真ん中に鞄をぶら下げて、数歩歩いた。
歩幅が合わず、鞄が揺れる。
律が笑って、手を離した。
「やっぱり任せる」
「了解」
代わりに、空いた方の手を繋いだ。
川沿いには、まだ誰もいなかった。




