番外4
番外編 第四話 岳の遠回り
岳が戻ったとき、門の上では、もう灯りをつけ始めていた。
見張りがこちらに気づき、手を上げる。
岳も片手を上げ返した。
肩に掛けた袋が重い。
道を調べに出ただけなのに、袋の底には、平たい石が二つ入っていた。途中で必要になったものだったが、使わずに済んで、そのまま持ち帰ってしまった。
門をくぐると、悠が立っていた。
「おかえり」
「ああ」
「遅かったね」
「少し回った」
悠の視線が、岳の足元へ落ちた。
靴には泥がつき、ズボンの裾には草の種が並んでいる。
「道、悪かった?」
「荷車を通す方は問題ない。北の分かれ道から、古い小屋の脇を抜ければいい」
「じゃあ、そっちじゃないところを歩いたんだ」
岳は頷いた。
悠が袋を指した。
「それ、何?」
岳は中を見た。
石が二つ。
小枝が一本。
昼に食べたパンの包み。
「……石」
「見つけてきたの?」
「持って帰るつもりじゃなかった」
悠は少し黙り、それから笑った。
「ご飯、まだあるよ」
*
北西の猫が、まだ小さかった頃の話だ。
誰かが来ると分かれば、食べ物を少し多く用意した。急な相談が始まると、椅子が足りなくなった。
地図も、今ほど書き込まれていなかった。
道が描かれていても、荷車が通れるとは限らない。
川が細く見えても、歩いて渡れるとは限らない。
岳は、実際に歩いて確かめることが多かった。
その日の目的は、北側から荷を運ぶ道の確認だった。
いつもの道には、雨の後にぬかるむ場所がある。晴れている間は問題ないが、荷を満載した車輪が沈むと面倒だった。
少し遠回りでも、安定して通れる道がほしい。
葉にそう言われ、岳は朝から出ていた。
頼まれた道は、昼過ぎには見つかった。
古い小屋の裏から緩やかに上り、林の端を通って街道へ戻る。
幅は十分。
木の根が一か所張り出していたが、そこだけ削るか、土を足せば済む。
岳は道の幅を測り、目印になる木を覚えた。
戻ればよかった。
ただ、林の向こうから、水の音がしていた。
*
翌日、葉に道の説明をしていると、悠が横から聞いた。
「昨日、帰りにどこへ行ってたの?」
岳は地図へ置いていた指を止めた。
「川の方」
「何かあった?」
「水が流れてた」
葉が顔を上げた。
悠は真面目な顔で頷いた。
「川だからね」
岳は少し考えた。
「その先」
「その先にも水が?」
「ある」
悠の口元が動いた。
笑うつもりなのが分かったので、岳は地図へ視線を戻した。
「荷車は通れない。近道にもならない」
葉が細い筆記具を持ち直す。
「じゃあ、道の記録には入れなくていい?」
「ああ」
説明は、それで終わるはずだった。
ところが、悠はまだこちらを見ていた。
「でも、何かあったんでしょ」
「何で」
「何もなかったら、昨日のうちにそう言うと思って」
岳は黙った。
葉も書く手を止めている。
二人に見られたまま、少し居心地が悪くなった。
「……滝」
岳が言うと、悠が瞬きをした。
「滝?」
「小さいけどな」
「見に行ける?」
すぐに聞かれた。
岳は、悠の靴を見た。
いつもの靴だった。
歩けないことはない。
「荷物は、あまり持つなよ」
*
二人だけのつもりだったが、出発する頃には五人になっていた。
悠が杏に会い、杏が葉を誘った。
門のところで玄に見つかり、どこへ行くのかと聞かれた。
「岳が見つけた滝」
悠が答えると、玄は少し眉を寄せた。
「北にあるのか?」
「ああ」
「川上の地形は、見ておきたいな」
そう言って加わった。
葉は小さな帳面を持っていた。
杏は布に包んだものを抱えている。
岳はそれを見た。
「何だ」
「食べるもの」
「そんなに長くはいない」
「途中でお腹が空いたら困るでしょ」
悠が頷いた。
「俺も少し持ってきた」
岳は二人を見比べた。
「水は?」
杏と悠が、それぞれの水筒を見せた。
葉も持っていた。
玄は、聞かれる前に腰の水筒へ手を置いた。
岳は頷き、門を出た。
*
最初は、昨日確かめた荷車の道を歩いた。
岳が古い小屋を指す。
「あれが目印。雨が降っても、ここまでは水が溜まらない」
葉が立ち止まり、帳面へ書いた。
玄は小屋の裏へ回り、坂の上を見た。
「この先は?」
「林の端を抜ける。荷を運ぶなら、そのまま真っすぐ」
「俺たちは?」
「こっち」
岳は道から外れた。
背の低い草を踏み、木々の間へ入る。
後ろで、杏が裾を持ち上げた。
「ここ、道なの?」
「昨日は通れた」
「昨日の岳は通れた、ってことだよね」
悠が言った。
岳は振り返った。
四人ともついてきていたが、思ったより間が空いていた。
「歩きにくいか?」
「少し」
葉の肩から、細い枝が跳ねた。
岳は戻り、その枝を押さえた。
葉が通る。
次に杏が通った。
「ありがとう」
悠は枝を受け取り、最後の玄が抜けるまで持っていた。
岳は前へ戻った。
昨日と同じ道のはずだった。
だが、一人で歩いたときには気にしなかったものが、いくつもあった。
足を大きく上げなければ越せない倒木。
体を横にしないと通れない木の間。
踏むと沈む、柔らかい土。
岳は少し歩くたび、後ろを見た。
*
小さな沢を渡るところで、葉が足を止めた。
幅は狭い。
岳なら跳べる。
昨日は跳んだ。
だが、向こう岸は少し高く、土が湿っていた。
「別のところは?」
玄が聞いた。
「上はもっと広い」
「下は?」
「深い」
岳は袋を下ろした。
昨日持ち帰った石を、二つ出す。
悠が見た。
「あ、それ」
「使うかと思ってな」
岳は沢へ入り、浅い場所を探った。
片方の石を沈める。
ぐらついたので、底の小石をどけて置き直した。
もう一つを、その先へ置く。
靴の上から水が入ってきた。
「岳、濡れてるよ」
「見れば分かる」
杏が笑いかけて、途中で困った顔になった。
「私たち、来ない方がよかった?」
岳は顔を上げた。
「何で」
「一人なら、そのまま行けるんでしょ」
岳は二つ目の石を踏んだ。
動かない。
もう一度、体重をかける。
大丈夫だった。
「石、踏んで来い。こっちは浅い」
手を差し出すと、杏は少し迷ってから、その手を取った。
一歩。
もう一歩。
向こう岸へ上がる。
葉も同じように渡った。
悠が渡り、最後に玄が来る。
玄は岸へ上がってから、岳の袋を拾った。
「持つ」
「自分で持てる」
「靴、どうにかしろ」
岳は沢から出た。
靴を逆さにすると、水が細く流れ落ちた。
悠がそれを見て、口を開いた。
「昨日、石を使わなかったのって」
「ああ」
「自分は跳べたから?」
岳は頷いた。
悠は何か言いそうになったが、結局、何も言わなかった。
代わりに、岳が靴を履き直す間、その肩に止まっていた小さな虫を払った。
*
滝は、岩の間を三段に分かれて落ちていた。
大きなものではなかった。
下から上まで、顔を少し上げれば見渡せる。
最上段では水が白く広がり、真ん中の岩で細くまとまり、最後は丸い淵へ落ちる。
木々の間から日が差していた。
水の表面には光が散り、岸近くの浅いところには、底の石まで見えた。
杏が先に声を上げた。
「ほんとだ」
何が本当なのかは分からなかったが、岳には、それで十分だった。
葉は帳面を閉じた。
悠が隣へ来る。
「昨日、一人でここにいたんだ」
「ああ」
「どのくらい?」
「少し」
「それで、あの時間?」
岳は答えなかった。
玄は周囲を見回していた。
上へ続く斜面。
岩の形。
木の間隔。
最後に淵の方を見て、腰を下ろした。
「砦を置く場所じゃないな」
「言っただろ。役には立たない」
岳が答えると、玄は水筒を開けた。
「そこまでは言ってない」
*
昨日、岳がここを見つけたとき、日差しはもう少し斜めだった。
歩き疲れて、岩へ腰を下ろした。
水を飲んだ。
それから、しばらく動かなかった。
滝の音は、ずっと同じようでいて、時々変わった。
風が吹くと、細かい水が横へ流れる。
葉の影が水面を横切る。
淵の端で、小さな魚が二匹、向きを変えた。
岳は袋からパンを出して食べた。
食べ終わっても、まだ座っていた。
城へ戻れば、道の説明がある。
明日の荷をどうするか決め、必要なら、人を出して根を削る。
忘れてはいなかった。
ただ、もう少しここにいても、間に合うと思った。
そうしているうちに、水の落ちる岩の上へ、小さな鳥が降りた。
羽を震わせ、首を傾けた。
岳が少し動くと、すぐ飛んでいった。
そのとき、誰かが隣にいればよかったと思った。
今のを見たか、と聞けば済む。
一人では、飛んでいった先を見るしかなかった。
*
「何かいる」
悠が言った。
岳は顔を上げた。
水際の岩に、小さな鳥が立っていた。
昨日と同じ鳥かどうかは分からない。
細い脚で一歩動き、水へ嘴を入れる。
杏が何か言いかけた。
葉がそっと、その袖に触れた。
五人で見ていた。
鳥はもう一度、水へ嘴を入れた。
それから羽を広げ、淵の向こうへ飛んでいった。
「早いね」
杏が小さく言った。
「昨日もいた」
岳が答えた。
「同じの?」
「分からない」
「また来るかな」
岳は鳥が消えた木の間を見た。
「来るんじゃないか」
杏は頷き、抱えていた包みを膝へ置いた。
「じゃあ、食べながら待とう」
*
パンは、少し潰れていた。
林を歩いたときか、沢を渡ったときか、形が平たくなっていたが、味は変わらなかった。
悠も包みを開いた。
中身を見て、杏が笑った。
「同じお店?」
「たぶん」
「こんなに食べられる?」
岳が手を伸ばした。
「歩いたからな」
葉が、何かを思いついたように岳を見た。
その時点では、まだ帳面に『岳、三杯』と書かれるより前だった。
岳は気にせず食べた。
玄は岩に肘をつき、上の方を見ている。
悠は靴を脱ぎ、水へ足先を入れた。
すぐ引っ込めた。
「冷たい」
「滝だからね」
杏が言った。
「川も冷たいぞ」
岳が付け加えると、悠がこちらを見た。
「さっきの、覚えてたんだ」
「水が流れてるのは間違いじゃない」
葉が笑った。
その笑い方が、いつも机に向かっているときより大きかった。
岳は二つ目のパンを取った。
*
帰る前、葉が帳面を開いた。
小さく何かを書いている。
岳が横から見ると、道の脇に、小さな丸が増えていた。
「記録には入れないんじゃなかったのか」
「荷車の道にはね」
葉は丸の横へ『滝』と書いた。
その下に、さらに一行。
『沢を渡る。滑りやすい』
「一人で来たら、上の方を回れ。少し遠いが、足場はある」
岳が言うと、葉が顔を上げた。
「あるの?」
「昨日、帰りに見つけた」
「じゃあ、今日は何で沢を?」
岳は黙った。
早いからだった。
早く着いた方がいいと思った。
だが、靴を脱いで水を出し、履き直す時間まで考えると、どちらが早かったのかは分からない。
悠が隣で笑いをこらえていた。
玄はこらえなかった。
「道案内、次はそっちで頼む」
岳は袋を肩に掛けた。
「帰りは、そっちだ」
*
林を抜ける頃には、光が柔らかくなっていた。
行きより歩きやすい道だった。
急ぐ者はいなかった。
杏は、次は湊にも教えたいと言った。
葉は、晴れた日の方がよさそうだと答えた。
玄は、雨の後は淵へ近づくなと言った。
悠が岳の横へ並んだ。
「昨日、帰ってきたときさ」
「何だ」
「滝があったって、最初から言えばよかったのに」
岳は前を見た。
木々の切れ目に、城へ続く道が見えていた。
「道を調べに行ったからな」
「うん」
「滝の話をしても、荷は早く届かないだろ」
悠は少し歩いてから答えた。
「でも、今日の俺たちは来られたよ」
岳は何も言わなかった。
靴の中は、まだ少し湿っていた。
歩くたびに、片方の足だけ冷たい。
前を行く杏が振り返った。
「岳、次に来るときは、あの鳥の名前も分かるかな」
「調べておけばな」
「誰が知ってそう?」
岳は考えた。
誰かは知っているだろう。
城へ戻ったら、聞いてみればいい。
「まず、見たやつに聞く」
「それ、私たちじゃない?」
悠が言った。
後ろで玄が笑った。
葉も笑った。
岳は少しだけ歩く速さを落とし、五人の間が開かないようにした。
門の灯りは、まだついていなかった。




