番外3
番外編 第三話 葉が残した余白
雨の日の記録だけ、字が大きかった。
葉は机の上に広げた帳面を、少し顔から離して見た。
ほかのページでは、数字が小さく揃っている。
穀物。
木材。
石材。
到着予定の荷。
必要なことを詰め込んでいたので、行と行の間も狭かった。
ところが、その日の数字だけは、妙に場所を取っている。線も太い。最後の桁が隣の欄へはみ出し、それを避けた次の行は、右へ曲がっていた。
頁の端には、小さな丸い染みがある。
葉は指先で、その縁をなぞった。
何の染みだったかは、覚えていない。
けれど、その下に書かれた一行を読んで、窓の外へ目を向けた。
『岳、三杯』
再設計された世界の空は、晴れていた。
あの日は、朝から降っていた。
*
旧い記録を見返せるようになったとき、葉は、自分はそれほど読まないだろうと思っていた。
あの頃に集めた数字を、今の暮らしで使うことはない。
倉庫はもう同じ場所にないし、道も違う。急いで届けなければならなかった荷物も、とっくに役目を終えていた。
それでも一度読み始めると、途中で閉じるのが難しかった。
数字の横に、覚えのない書き込みがある。
『湊へ確認。夕方』
これは、何を聞くつもりだったのか。
『玄、戻ったら』
その後には何も書いていない。
戻った玄を捕まえて用件を済ませたのか、それとも、別のことが起きて忘れたのか。
昔の自分の筆跡なのに、今の自分には分からないことが多かった。
葉は机の端から新しい紙を取った。
書き写そうとして、手を止める。
きれいにまとめ直せば、読めるようにはなる。
だが、この帳面のどこまでを写せばいいのだろう。
迷っていると、扉が鳴った。
「開いてるよ」
悠が顔を出した。
「頼まれてた分、持ってきた」
抱えていた数冊を、机の空いているところへ置く。
「ありがとう」
「何か見つかった?」
「分からないものが、たくさん」
悠は少し笑って、机の向かいへ回った。
葉が開いていた頁を見る。
「……岳、三杯?」
「何だと思う?」
「おかわり」
「それは私もそう思う」
悠は椅子を引いた。
頁に手を触れないようにしながら、身を乗り出す。
「この字、葉?」
「私」
「珍しいね。こんなに大きく書くの」
「書きにくかったんだと思う」
「何で?」
葉は、染みのある余白へ目を戻した。
そのとき、窓を叩く雨の音を思い出した。
*
その朝、葉の右手の指先は、ずっと冷たかった。
雨が降る前に届くはずだった荷が遅れていた。
街道の一部に水が溜まり、荷車が進めなくなったという。
書簡は何通か届いたが、場所の呼び方が送り手によって違っていた。
南の坂。
石橋の手前。
古い小屋のある曲がり角。
同じ場所を指しているのか、別々の場所で止まっているのか、それすら分からない。
葉は地図を広げ、届いた紙を並べた。
確認の書簡を書き、返事を待つ間に、使える備蓄を数え直す。
扉が開くたび、湿った風が入ってきた。
次に開いたときには、風と一緒に岳が入ってきた。
袖も裾も濡れている。
「橋じゃない」
入るなり、そう言った。
「水が溜まってるのは、その先。曲がり角から下ったところだ」
葉は地図へ指を置いた。
「ここ?」
「そう。荷車は三台とも、手前の高いところに上げた。荷は濡れてない」
「三台、一緒なんだね」
「ああ」
葉は別々に置いていた書簡を、一つに重ねた。
それだけで、机が少し広くなった。
「道は?」
「今すぐは無理だな。水が引くか、脇へ板を渡すか」
「分かった。先に届け先へ知らせる」
筆記具を持ち直した。
指がうまく曲がらなかった。
書きかけた線が震え、葉はその横へ書き直した。
岳が机の前に立ったまま、こちらを見ていた。
「何?」
「手、冷えてるのか」
「少し」
「火の近くで書けばいいだろ」
「紙、移さないと」
「移せばいい」
岳はそう言って、重ねた書簡を持ち上げた。
「待って。それは順番がある」
岳の手が止まった。
葉は紙を受け取り、三つの山へ分け直した。
「こっちから」
「全部紙だろ」
「全部違う紙」
岳は何か言いたそうにしたが、最初の山を両手で持った。
*
火のそばの机は、小さかった。
帳面を開くと、地図を置く場所がない。
地図を置くと、書簡が載らない。
葉が困っていると、岳は地図を隣の椅子へ広げた。
「これで見える」
「座れないよ」
「立ってる」
確かに、それで済んだ。
葉は火へ手をかざしてから、もう一度書き始めた。
指が温まってくると、今度はじんじんした。
その間に、悠が入ってきた。
片手に書簡、もう片方に、大きな木の盆を持っている。
「こっちにいた」
「何か来た?」
「玄から。昼に確認するって」
「何を?」
「全部」
葉は目を閉じた。
「もう少し、分けて言ってほしい」
「そう返しておく」
悠は書簡を置こうとして、机に場所がないことに気づいた。
盆にも、置く場所がなかった。
岳が椅子の地図を持ち上げる。
「ここ」
「助かる」
置かれた盆には、湯気の立つ鍋と、器が三つ載っていた。
葉はそこで初めて、腹が空いていることに気づいた。
「これ、何?」
「豆の煮込み。台所で、持っていけって」
悠が器へよそった。
豆の間に、小さく切った肉と野菜が見えた。
岳が濡れた上着を脱ぎ、椅子の背へかける。
「葉、先に食べなよ」
「この一通だけ」
そう答えて、葉は書きかけへ目を戻した。
荷が遅れていること。
濡れていないこと。
届く見込みは、道を確かめてから伝えること。
短い内容なのに、いつもより時間がかかった。
筆記具を強く握るほど、文字が大きくなる。
欄に収まらないので、次の行を少し右へずらした。
書き終え、息をつく。
顔を上げると、岳が空の器を盆へ置いたところだった。
「もう食べたの?」
「温かいうちの方がうまい」
悠が二杯目をよそった。
葉も器を受け取り、匙を入れた。
豆は柔らかかった。
口へ運ぶと、思ったより熱くて、慌てて息を吸った。
悠が笑った。
「急がなくていいよ」
「岳が二杯目だから」
「鍋にまだあるって」
葉は今度は少し冷ましてから食べた。
火のそばで食べるには、ちょうどいい味だった。
外では雨が続いている。
岳が持っていた地図の端から、水が一滴、床へ落ちた。
「濡らした?」
葉が聞くと、岳は首を振った。
「俺の袖」
「乾くまで、机に載せないでね」
「分かってる」
悠が地図を受け取ろうとした。
だが、悠の手にも器があった。
二人が互いの手元を見て、少し困った顔をしたので、葉は食べながら笑ってしまった。
*
「豆の煮込みだ」
悠が言った。
今の声だった。
葉は顔を上げた。
机の向こうで、悠が頁を指さしていた。
「思い出した。雨で荷が止まった日」
「うん」
「岳、地図をずっと持ってた」
「濡れた袖でね」
悠が笑った。
葉も笑い、余白の一行へ視線を戻した。
「何で、三杯って書いたんだろう」
「四杯目を食べそうだったからじゃない?」
「そうだっけ」
「俺も、そこまでは覚えてないな」
葉は前後の頁をめくった。
遅れていた荷は、その日の夕方に届いていた。
濡損なし。
不足なし。
到着時刻の横に、確認済みの印。
そこは、いつもの小さな字に戻っていた。
「ちゃんと届いてる」
葉が言うと、悠は頷いた。
「岳たちが道に板を敷いたんじゃなかったかな」
「それは書いてない」
「俺の記憶違いかも」
「聞いてみようか」
葉は連絡を開いた。
『昔、雨で荷車が三台止まった日、覚えてる?』
返事は、少しして届いた。
『どの雨だ』
悠に見せると、声を出して笑った。
葉はもう一通送った。
『豆の煮込みを三杯食べた日』
今度は早かった。
『四杯だ』
*
岳は、その後すぐに顔を出した。
「そこを訂正するために来たの?」
悠が聞くと、岳は扉を閉めながら答えた。
「近くにいただけだ」
葉は帳面を岳の方へ向けた。
「三杯って書いてある」
「その後、もう一杯食った」
「覚えてるんだ」
「鍋を返しに行ったとき、残ってるから食えって言われた」
葉は余白を見た。
そこに書かれた三杯は、間違ってはいなかった。
ただ、続きを知らなかった。
岳が机の前へ立ち、頁を覗き込む。
「懐かしいな」
「道、板を敷いたんだっけ?」
悠の問いに、岳が頷いた。
「板だけじゃ沈むから、下に石も入れた。荷車は軽くして、一台ずつ通した」
「それ、葉の帳面には書いてなかった」
「書くほどのことじゃないだろ」
「でも、知らなかった」
葉が言った。
岳は顔を上げた。
「届いたんだから、それでいいと思ってた」
「うん。あのときは、それでよかった」
葉は到着の欄へ指を置いた。
「ここに印を付けて、次へ行けたから」
届いたと分かれば、届け先へ知らせる。
余った分を移し、足りない場所へ回す。
確認が済んだ紙は片づける。
そうして机を空けると、また新しい紙が載った。
岳が石を運んでいた時間は、この小さな印の向こう側にあった。
葉は新しい紙を引き寄せた。
「今、書いてもいい?」
「何を」
「荷車を通したときの話」
岳は悠を見た。
悠は何も言わず、椅子を一つ引いた。
岳はそこへ座った。
「大した話じゃないぞ」
「うん」
「一台目を押してた奴が、途中で靴を取られてな」
葉の筆が止まった。
「泥に?」
「ああ。探そうとして手を突っ込んだら、もう片方も沈んだ」
悠が吹き出した。
「それは初めて聞いた」
「笑うなよ。引っ張る方も大変だったんだ」
岳はそう言いながら、少し笑っていた。
*
話を聞き終える頃には、窓から差す光が机の端へ移っていた。
新しい紙には、荷車の話が書いてある。
使った板の枚数は、岳も覚えていなかった。
手伝った全員の名前も、すぐには出なかった。
覚えていないところは、空けておいた。
その代わり、二台目の荷車を通したとき、皆で拍手したことを書いた。
三台目が通ると、誰も拍手せず、その場に座り込んだことも書いた。
「疲れたから?」
葉が聞くと、岳は頷いた。
「あと、腹が減ってた」
「四杯食べたのに」
「その後の話だ」
悠が笑い、葉も筆を持ったまま笑った。
二人が帰った後、部屋は静かになった。
葉は、新しい紙と古い帳面を並べた。
帳面を清書するために取った紙だったが、書き上がったものは、ずいぶん違っていた。
日付。
雨。
荷車三台。
その下に、人の話が続いている。
葉は読み返し、紙の下の方へ一行を足した。
『岳は四杯だったと言っている』
乾くのを待って、帳面のその頁へ挟む。
丸い染みは、そのままにした。
豆の煮込みが跳ねたのかもしれない。
濡れた袖から落ちた水かもしれない。
どちらでも、あの机にはありそうだった。
*
夕方、悠から連絡が来た。
『あの日の鍋、葉が持って帰ってくれたんだっけ?』
葉は首を傾げた。
岳が返しに行って、四杯目を食べた。
さっき、そう聞いたばかりだった。
『岳だよ』
返すと、すぐに次が届いた。
『そうだった。俺、何を運んだんだろう』
葉は少し考えた。
小さな机。
隣の椅子。
火。
地図を持つ岳。
食事の後で、悠が何かを抱えて出ていった。
紙ではなかった。
もっと大きくて、かさばるもの。
葉は思い出して、笑った。
『岳の上着』
『ああ』
『火のそばに置きすぎて、片方の袖だけ熱くなってた』
しばらくして、返事が来た。
『それは忘れててよかったやつだ』
葉は、帳面から新しい紙を抜いた。
下の方には、まだ少し余白があった。
そこへ、悠の話を足した。
書き終えてから机の引き出しを開け、綴じていない紙の束を取り出す。
明日は、湊に聞いてみよう。
いつかの夕方、自分は何を確認したかったのか。
湊も覚えていないかもしれない。
それなら、その日は別の話をすればいい。
葉は紙を帳面へ戻した。
挟んだ一枚のぶんだけ、表紙がわずかに浮いていた。




