番外2
番外編 第二話 朔の負けてもいい日
負けた方が、昼飯を買いに行く。
その条件を聞いたとき、朔は盤面より先に窓の外を見た。
城門前の広場には、いくつかの露店が出ている。炭火の煙が細く上がり、風向きが変わるたび、肉の焼ける匂いが部屋へ入ってきた。
「買いに行くだけか?」
向かいに座った岳が、片眉を上げる。
「金も出してほしいのか」
「条件は先に確認した方がいい」
「じゃあ、買いに行くだけ。代金はそれぞれ」
「人数は」
「俺とお前と、葉」
窓際で本を読んでいた葉が顔を上げた。
「私も入ってるんだ」
「昼、食うだろ?」
「食べるけど」
「なら三人分」
朔は頷き、盤面へ視線を戻した。
「いいよ」
岳が駒の入った箱を振った。
「言っとくが、ただの遊びだからな」
「分かってる」
その返事を聞いて、葉が本へ目を落としたまま笑った。
*
盤は、露店の隅で売られていたものだった。
木の板に街道と集落が描かれ、ところどころに川や山がある。互いに五つの荷駄を動かし、先に三つを向こう側の市場へ運べば勝ち。
一度に動かせるのは一つ。
普通の道は一つ進み、整備された街道なら二つ進む。
橋には、一度に一つしか荷駄を置けない。
相手を攻撃する仕組みはなかったが、狭い道に先に入れば、後ろの荷駄は待たされる。
簡単な遊びだった。
少なくとも、売っていた老人はそう言っていた。
朔は説明書を裏返した。
「天候札?」
「ああ。一巡したら一枚引く」
岳が小さな札の束を置いた。
晴天なら何も起きない。
追い風なら、そのとき動かす荷駄が一つ余計に進める。
雨なら、次の一巡は山道と橋を通れない。
朔は札を一枚ずつ確かめた。
「何してる」
「枚数を見てる」
「裏の絵が違ったら困るもんな」
「そういう意味じゃない」
晴天が六枚。追い風が三枚。雨が三枚。
引いた札は脇へ置き、なくなったら混ぜ直す。
朔は札を揃え、岳へ返した。
「そっちが先でいい」
「余裕だな」
「まだ分からない」
岳が最初の荷駄を動かした。
朔はその位置を見て、自分の駒を取った。
*
最初の勝負は、朔が勝った。
岳が先頭の荷駄を進めている間に、朔は後ろの二つも動かしていた。橋が空く順番に合わせて到着させ、三つ続けて市場へ送り込んだ。
最後の駒を置くと、岳が盤を見たまま唸った。
「それ、道を塞がれたらどうしたんだ」
「こっちへ回す」
朔が脇道を指す。
「一手遅れるだろ」
「岳も、塞いでいる間は進めない」
「ああ、そうか」
岳は頷き、椅子へ深く座り直した。
「もう一回」
「昼飯は?」
「まだ早い」
窓際で葉がページをめくった。
「私、肉を挟んだパンがいい」
「聞いてる。まだ買いに行かないだけだ」
岳が駒を戻した。
二回目も、朔が勝った。
今度の岳は、橋へ先に入った。
朔の荷駄を止めるつもりだったらしいが、雨の札が出ると、自分の荷駄もそこで動けなくなった。
その間に、朔の駒が平地の道を進んだ。
「お前、雨が来るって分かってたのか?」
「そろそろ出てもおかしくなかった」
脇に置かれた札には、晴天ばかりが並んでいた。
岳が残りの札を持ち上げる。
「数えてたのか」
「見えてるから」
「……そうか」
岳は札を置いた。
少し黙ったので、終わりかと思った。
ところが、次に顔を上げたときには笑っていた。
「面白くなってきたな」
朔は岳を見た。
「負けてるけど」
「さっきより分かってきた」
岳は自分の駒を五つ、手元へ並べた。
「もう一回」
*
三回目が始まる頃には、葉も本を閉じていた。
椅子を引いてきて、盤の横へ座る。
岳は最初の荷駄を、街道から外した。
平地を大きく回る道だった。
市場までは遠いが、橋も山も通らない。
「そこから?」
朔が聞くと、岳は頷いた。
「こいつは、こっち」
次の荷駄も、別の道へ進める。
三つ目もそうだった。
朔は眉を寄せた。
どの荷駄も、進みが遅い。
だが、一つを止めても、ほかが動く。
岳は駒を進めるたびに、盤を横から覗き込んだり、札の残りを確かめたりしていた。
朔も、少し姿勢を正した。
中央の街道は、まだ空いていた。
ここを通せば早い。
岳の先頭が市場に届くまでに、こちらは二つを運び込める。三つ目も、その後を続けばいい。
朔は駒を動かした。
一巡して、晴天。
もう一巡して、追い風。
予定より早く、最初の荷駄が市場へ入った。
「早いな」
岳はそう言ったが、自分の駒を動かす手を急がせなかった。
平地を回っていた荷駄が、ようやく盤の半分を越える。
朔は二つ目を進めた。
橋の手前に、三つ目も付けた。
葉が卓上の皿から木の実を取った。
殻を割る、小さな音がした。
朔は札の束を見た。
残りは五枚。
雨は、まだ二枚残っている。
ここで橋を渡るか。
一手かけて、平地へ回すか。
岳の荷駄は遅い。
ただし、三つとも止まらず進んでいる。
遠回りをすれば、その分だけ詰められる。
朔は橋へ駒を置いた。
岳が札を引いた。
雨だった。
「降ったな」
岳が言った。
朔は返事をせず、盤を見ていた。
*
雨の一巡が終わっても、すぐには立て直せなかった。
先に橋を出た荷駄の先で、岳の駒が街道へ入ってきた。
塞ぐためだけの位置ではない。
そこを通れば、岳自身も市場へ近づく。
朔は別の駒を動かした。
使っていなかった四つ目だった。
岳の二つ目が、市場へ入る。
朔も二つ目を入れた。
残る一つ。
盤面を見て、手順を数えた。
こちらは三手。
岳も三手。
先に動かすのは、朔だった。
届く。
そう思って駒へ手を伸ばし、止まった。
岳の荷駄の先には、整備された街道があった。
次に入れば、二つ進める。
二手だ。
朔は別の経路を見た。
山を抜けても足りない。
道を塞ぎに行くにも、一つ遠い。
卓の下で、足の位置を変えた。
部屋の中が暑かった。
窓は開いているのに、風が入ってこない。
葉が水差しを持ち上げた。
「飲む?」
「あとで」
短く返し、札を見た。
追い風が出れば、まだ間に合う。
だが、自分の手番で引けるわけではない。
次の一巡を待つ前に、岳は着く。
駒から指を離した。
もう一度、最初から数え直す。
どこかにあるはずだった。
こちらが動かせるもの。
相手に遅れを生じさせる場所。
一手を取り戻せる経路。
「朔」
岳が呼んだ。
「……分かってる。少し待って」
「待つけどな」
岳は盤の端に肘をつかないよう、椅子を後ろへ引いた。
「負けても、パンだぞ」
朔は顔を上げた。
岳は困ったような、笑いたいような顔をしていた。
その隣で、葉が空の皿を指さした。
「そろそろお腹すいた」
窓の外から、露店の呼び声が聞こえた。
焼き上がったらしい。
誰かが二つ頼み、別の誰かが釣り銭を落とした。金属の転がる音に、笑い声が重なった。
朔はもう一度、盤を見た。
木の荷駄が並んでいた。
小さな車輪は、彫ってあるだけで回らない。
岳の駒の一つには、最初から角に欠けがあった。
朔は息を吐いた。
「……そうだった」
「何が」
「昼飯」
岳が頷く。
「葉の分もあるから、注文は間違えるなよ」
「肉を挟んだパン」
「あと、飲み物」
葉が付け加えた。
朔は自分の荷駄を一つ進めた。
岳も進めた。
次の手で、勝負が終わった。
*
「勝った」
岳は最後の駒から手を離し、しばらく眺めていた。
それから、もう一度言った。
「勝ったな」
「見れば分かる」
朔が返すと、岳の口元が上がった。
「三回かかった」
「一勝二敗だぞ」
「ああ。次で並ぶ」
「もう次の話か」
言ってから、朔は笑った。
思ったより大きな声が出た。
自分でも意外で、口元へ手をやった。
岳がこちらを見ていた。
「何だよ」
「いや」
朔は首を振った。
笑いが、まだ少し残っていた。
「ずいぶん嬉しそうだと思って」
「嬉しいだろ。お前、ずっと勝つつもりの顔してたし」
「勝つつもりだった」
「知ってる」
葉が卓に代金を並べた。
「感想は、食べながらにしない?」
*
露店には、少し列ができていた。
朔は最後尾に並び、前の客が注文するのを聞いていた。
肉を多めにするか。
野菜を増やすか。
辛いソースを付けるか。
そのくらいのことを、皆が真剣に考えていた。
順番が来ると、朔は三人分を頼んだ。
「辛いのは?」
店主に聞かれ、考える。
岳は食べそうだった。
葉は、聞いていない。
「別にできるか」
「小さい器に入れとくよ」
「頼む」
包みができるまで、店の脇で待った。
先ほどの盤面を思い出す。
橋の手前。
あそこで迂回していれば、どうなったか。
岳は一つを街道へ寄せただろう。こちらが平地へ出れば、その荷駄と競ることになる。
勝てたかどうかは分からない。
ただ、雨が出たせいだと言うには、岳の三つの荷駄はよく散っていた。
止めにくかった。
朔は、そこでようやく気づいた。
岳は二回目に負けた後から、もう同じ運び方をしていなかった。
「お待たせ」
差し出された包みを受け取る。
温かかった。
飲み物を持つ手と包みを持つ手を入れ替え、落とさないように抱え直した。
扉を開けるには、どちらかを一度置かなければならなかった。
*
戻ると、岳と葉が盤を挟んで座っていた。
岳は先ほどと同じように、荷駄を三方へ分けていた。
葉は一つだけを、まっすぐ進めている。
「それだと、後ろが遅れるぞ」
岳が言った。
「うん」
葉は駒を置いた。
岳が別の荷駄を動かす。
葉は、また先頭を進めた。
「……一つしか動かさないのか?」
「ここに着いたら考える」
朔は包みを卓へ置いた。
盤面を覗く。
葉の荷駄は、ちょうど道が合流するところへ向かっていた。
そこへ止まれば、岳の二つが待たされる。
岳も気づいたらしかった。
「あ」
朔は飲み物を並べた。
「飯にするか?」
「待て。一手だけ」
「冷めるぞ」
「一手」
葉がこちらを見た。
朔は肩をすくめ、包みを開いた。
焼けたパンの間から、湯気が上がる。
岳が盤を見ている。
葉は先に食べ始めた。
朔もひと口かじった。
肉の汁が落ちそうになり、慌てて包みを持ち直す。
「岳」
「何だ」
「負けても、昼飯はもうあるぞ」
葉がむせた。
岳は顔を上げ、朔を見た。
それから、椅子の背へ体を預けた。
「……それ、言いたかっただけだろ」
「少しな」
岳が笑った。
朔も笑い、辛いソースの器を差し出した。
*
食事の後、二人はもう一度向かい合った。
窓際には空の包みが重ねてある。
葉は本を開き直したが、椅子は盤の見える場所に残した。
「次は何を賭ける?」
岳が駒を並べながら聞いた。
朔は少し考えた。
「何もなしでいい」
「買い出し、懲りたか」
「両手が塞がると、ここの扉を開けにくい」
「ああ。引く方だからな」
「次は誰か開けてくれ」
「分かった」
岳が天候札を混ぜた。
朔は五つの荷駄を、自分の前へ並べる。
今度は、最初から中央へ寄せなかった。
岳がその手元を見て、にやりとした。
「真似するのか」
「試してみる」
「さっきのやり方にも、弱いところはあるぞ」
「それを今から見る」
岳が最初の駒を動かした。
朔は盤を見た。
勝ちたいと思った。
向かいの岳も、きっと同じだった。
朔は端に置いた荷駄を取り、昨日までなら選ばなかった道へ進めた。




