休めない
番外編 第一話 玄は休めない
玄から書簡が届いたのは、朝の八時だった。
『北の砦、空いてるぞ』
俺は食べかけのパンを皿に戻し、窓の外を見た。
城の向こうには、青い空が広がっている。門前の道を荷車が通り、畑では人影が動いていた。少し離れたところで、誰かが鶏を追いかけている。
再設計されたこの世界にも、朝は来る。
現実で朝食を済ませたばかりなのに、こちらでもパンを食べているのは、焼きたてを勧められたからだった。胃にもたれる心配がないと分かると、人間は案外、簡単に二度目の朝食を始める。
俺は返信を書いた。
『おはよう』
すぐに返ってきた。
『おはよう。北の砦、空いてる』
「分かってるよ」
声に出してから、もう一度書簡を開いた。
『今日は釣りに行くんじゃなかった?』
少し間があった。
『その前に取れる』
俺はしばらく、その一文を眺めた。
玄らしいな、と思った。
思ったが、集合時間までは、もう三十分もなかった。
*
川へ続く道の分かれ目で、玄が地図を開いていた。
釣り竿は肩に担いでいる。
腰には剣もある。
「釣りに剣っている?」
「道中で何かあったらどうする」
「今日は街道沿いだよ」
「街道沿いなら何も起きないのか?」
そう言われると、返す言葉に困った。
そこへ、後ろから晴がやって来た。
「お待たせ!」
両手で大きな籠を抱えている。上から布をかけてあるが、持ち上がった端から丸いパンが見えていた。
玄が籠を見た。
「何人分だ、それ」
「三人分」
「六人くらい食えるだろ」
「魚が釣れなかったら困るでしょ」
「釣るために行くんだが」
「うん。だから、釣れたら魚も食べよう」
玄は何か言いかけ、やめた。
その代わり、開いていた地図を俺たちの方へ向ける。
「ここから北に寄れば、砦まで近い。守備も薄いし、今なら競合もいない。先に部隊を出しておけば――」
「玄、それ閉じて」
晴が言った。
「経路の確認だ」
「川、こっちだよ」
晴が指した道の先では、木々の間から水面が光っていた。
玄は地図を見た。
川を見た。
それから、地図を畳んだ。
「……帰りに確認する」
晴が俺の方を見て、笑うのをこらえたような顔をした。
俺は見なかったことにした。
*
釣り場は、川が緩やかに曲がった先にあった。
岸辺の草は短く、その少し奥には、三人で座るのにちょうどいい平たい岩がある。対岸から張り出した枝が水面に影を落としていた。
晴が籠を置いて、大きく息を吸った。
「ここ、前に見つけたんだ」
「いつ?」
「散歩してたとき。あの辺で魚が跳ねたから」
指さした先を見たが、今は何もいない。
玄はしゃがみ込み、水に指先を入れた。それから上流へ目を向け、持ってきた袋を開ける。
中には、いくつかの小さな包みが入っていた。
「それは?」
「餌」
「そんなに?」
「何に食いつくか分からないだろ」
包みを順番に並べていく。虫らしいもの、練った団子のようなもの、何かを細かく刻んだもの。
さらに、小さな紙を出した。
俺は嫌な予感がした。
「何を書くの」
「場所と餌と釣果。次に来たときに使える」
「もう次の攻略が始まってる……」
「釣れないよりいいだろ」
もっともだった。
実際、最初の一匹を釣り上げたのは玄だった。
銀色の小さな魚が、朝日を受けて跳ねた。
「おお!」
晴が竿を置いて駆け寄る。
玄は魚を桶に移し、すぐ紙に何かを書き込んだ。
次の一匹も玄だった。
その次も。
俺の浮きは、一度だけ沈んだ。慌てて竿を上げたら、餌だけなくなっていた。
晴はというと、糸を垂らしたまま、籠からパンを出していた。
「もう食べるの?」
「一個だけ」
半分に割って、こちらへ差し出してくる。
俺は受け取った。
「玄も食べる?」
「今いいところだ」
「さっきもそう言ってた」
玄の浮きが沈んだ。
すかさず竿が動く。
四匹目だった。
晴が口の中のパンを飲み込んだ。
「ほんとだ」
*
昼になる頃には、玄の桶だけに魚がいた。
俺は一匹かけたものの、岸へ上げる直前に逃がした。
晴は川底の枝を釣った。
「結構大きい」
両手で枝を掲げていたので、俺はひとまず頷いた。
玄が俺の仕掛けを手に取った。
「針に付けすぎだな。これだと餌の端だけ取られる」
「ああ、そういうことか」
「あと、浮きが沈んでから上げるまでが遅い」
「それは何となく分かってる」
「分かってるなら――」
言いながら、玄が手を止めた。
視線が、俺の肩の向こうへ動く。
何かの通知を見ているらしかった。
俺には内容までは見えない。
ただ、玄の眉間に寄った皺で、だいたい分かった。
「北の砦?」
「……ああ」
「誰かが取った?」
玄は頷いた。
そのまま少し黙っていたが、やがて俺の針に餌を付け直した。
「朝、出しておけば間に合ったな」
軽い口調だった。
俺も、軽く返すつもりだった。
でも、玄は仕掛けを返した後で、もう一度、何もない空間へ目を向けた。
「取りに行きたかった?」
「空いてたからな」
「うん」
「大した守備じゃなかったし」
「うん」
川を、小さな葉が流れていった。
岩に引っかかり、しばらく揺れた後で、また下流へ流れ出す。
玄はそれを見ていた。
「何も出してないと、落ち着かないんだよ」
少しして、そう言った。
「部隊?」
「ああ。建築でもいい。何か動いてれば、あとで結果が返ってくるだろ。何もしてなければ、その時間はそのまま終わる」
俺は竿を持ち直した。
よく分かった。
あの世界では、一日の遅れが、次の日の選択肢を減らした。
誰かが兵を増やしているときに、自分だけ何もしないのは怖かった。仲間が襲われたとき、昨日もう少しやっていればと思いたくなかった。
玄は、それを俺よりずっと長い時間、考えていたのかもしれない。
「まだ、朝起きると確認する」
玄が言った。
「攻められてないか。誰か落ちてないか。書簡を見落としてないか」
「俺も、書簡は見るよ」
「お前の書簡は、多いからな」
「今は前ほどじゃないけどね」
玄が鼻で笑った。
その横へ、晴が皿を差し出した。
パンと、厚く切った肉と、野菜が載っていた。
「とりあえず、ご飯」
玄は皿を受け取った。
晴は自分も岩に座り、足を伸ばした。
「次に誘ったときも、来てくれる?」
「何だ、急に」
「今日、砦取れなかったから。もう来ないって言われたら、困るなと思って」
玄が晴を見た。
晴は肉をパンに挟もうとして、思ったより厚かったのか、両手で押さえていた。
玄はしばらくその様子を見た後、皿へ視線を戻した。
「……来るだろ。それくらい」
「じゃあ、よかった」
晴はようやくパンを持ち上げ、大きくかじった。
玄も食べ始めた。
砦の話は、それで終わった。
*
午後は、少し風が出た。
水面が細かく揺れるようになり、俺には浮きが沈んだのか、波に隠れたのか分からなくなった。
玄に聞くと、両方だと言われた。
「どっちがどっち?」
「見てれば分かる」
「さっきから見てるんだけど」
「なら、そのうち分かる」
戦争のときより、教え方が雑だった。
晴は満腹になったらしく、竿を脇に置いて草の上に寝転んでいた。最初は俺たちの会話に加わっていたが、返事の間隔が長くなり、そのうち静かになった。
玄が振り返った。
「寝たぞ」
「寝たね」
「釣りに誘った本人が」
「場所を見せたかったんじゃないかな」
玄は対岸を見た。
木の枝が、風に揺れている。
その下に落ちた影も、同じように揺れていた。
「まあ、悪くない場所だな」
言ってから、玄は竿を少し動かした。
しばらく、二人で川を見ていた。
近くで虫が鳴いている。
遠くで荷車の車輪が鳴り、やがて聞こえなくなった。
玄の脇に置かれた紙が、風でめくれた。
俺は飛ばないように小石を置いた。
「もう書かないの?」
「餌はだいたい分かった」
「じゃあ、次はもっと釣れるね」
「お前が今より早く竿を上げればな」
俺は笑った。
玄も、ほんの少し口元を緩めた。
その直後、俺の浮きが沈んだ。
「あ」
「上げろ」
手に力が入る。
竿の先がしなった。
今までとは違う重みがあった。
「いる。これ、いるよな?」
「いるから引いてるんだろ。急に引くな」
「さっき上げろって」
「上げるのと、引き抜くのは違う」
玄が立ち上がった。
俺の横へ来て、川の中を覗く。
「少し右。そっちの石に擦れる」
言われたとおりに竿を動かした。
水面の下で、銀色の腹が光った。
それを見た途端、どうしても逃がしたくなくなった。
「玄」
「分かってる。落ち着け」
玄が網を取る。
俺は竿を支えた。
魚が一度、大きく跳ねた。
晴が起きた。
「釣れた!?」
「まだ!」
俺と玄の声が重なった。
晴がこちらへ走ってくる。
その足音に焦った俺が竿を引きすぎ、玄が「動くな」と言い、晴がその場でぴたりと止まった。
少しずつ、魚が岸へ寄る。
網が水へ沈んだ。
次の瞬間、玄が持ち上げた。
魚が網の中で暴れ、水滴が俺たちの顔に散った。
「……釣れた」
自分で言ってから、笑いが出た。
晴が覗き込む。
「大きい!」
玄の桶にいた魚より、ひと回り大きかった。
俺は思わず玄を見た。
玄は魚を見下ろしていた。
少し悔しそうな顔をしている。
でも、そのまま網を俺へ差し出した。
「お前が持て。釣ったんだから」
俺は両手で受け取った。
思ったより、重かった。
*
帰り支度を始めたのは、日が傾いてからだった。
晴が籠を持ち上げ、朝よりずいぶん軽い、と言った。あれだけ食べれば当然だった。
玄は桶を覗き、小さな魚から川へ戻していた。
俺も隣にしゃがんだ。
「全部持って帰らないの?」
「食う分だけでいいだろ」
魚が玄の手を離れ、浅瀬で向きを変えた。
少しの間、その場に留まっていたが、やがて川の深いところへ消えた。
最後に残ったのは、夕食にする数匹と、俺が釣った一匹だった。
玄が網を片づける。
俺は紙の上の小石をどけた。
午前中の記録の下は、白いままだった。
「これ、忘れ物」
「ああ」
玄は受け取り、畳んで袋に入れた。
帰り道の分かれ目に着いたとき、俺は北へ続く道を見た。
「砦、確認していく?」
玄も一度、そちらを見た。
夕日が道の先を赤く照らしていた。
「もう誰かのものだろ」
「そうだけど」
「魚がある。先に戻るぞ」
玄は桶を持ち直し、城へ続く道を歩き始めた。
晴が俺の横で、小さく笑った。
*
その晩、現実へ戻ってから、玄から連絡が来た。
『次、いつ空いてる』
俺は画面を見て笑った。
『釣り?』
『ああ』
少し考えて、翌週の予定を送った。
玄からは、短く了承が返ってきた。
続けて、もう一通。
『上流にも行けそうな場所があった』
俺は椅子に座り直した。
『次の場所も調べたの?』
『帰りに見えた』
『餌は?』
『今日のを少し変える』
やっぱり玄は、簡単には休めない。
そう思っていると、さらに連絡が来た。
『晴にも聞いといてくれ』
『分かった』
『飯は、今日くらいでいい』
六人分はあると言っていた籠の中身を、俺たちはほとんど食べきっていた。
俺は晴への連絡に、その一文も付け加えた。
すぐに返事が来た。
『じゃあ、次は違うパンにする!』
それを玄へ伝えると、今度は返信まで少し時間がかかった。
『同じのも少し頼む』
俺は声を出して笑った。
窓の外は、もう暗かった。
翌週の予定表を開き、空いていた欄に「釣り」と入れる。
集合時間は朝の九時。
玄には、八時に砦を見つけないでくれ、と送ろうとして、やめた。
代わりに、こう書いた。
『次は最初から川に集合な』
返事は短かった。
『分かってる』




