蛇足
蛇足編 盟主、見習いになる
帰ってきた人たちは、少しずつ日常へ戻っていった。
もちろん、全員が同じ速さではない。
退院した人もいれば、まだ病院で過ごしている人もいる。
前の仕事へ戻る人。
しばらく休む人。
何をしたかったのか、改めて考え始めた人。
七人の連絡先にも、城や兵とは違う言葉が増えた。
『電車、思ったより疲れる』
玄から届いた。
『座れなかった?』
杏が聞く。
『降りる駅を間違えて歩いた』
朔の返事は早かった。
『移動経路を確認しろ』
岳が続いた。
『帰り道も』
俺は画面を見て笑った。
現実へ戻っても、役割が変わらないところはある。
*
晴は、近所の子どもと釣りをしていた。
送られてきた写真では、小さな魚を持って、本人だけが大物を釣ったような顔をしている。
千景は仕事へ戻り、早速、誰が作ったのか分からない引き継ぎ資料に困っているらしい。
『向こうで同盟を分けた時の方が、まだ記録がありました』
という連絡に、俺は返す言葉がなかった。
正臣は奈緒と、料理教室を探していた。
今度は主催する側ではなく、習う側だという。
巌は、真砂の新しい仕事の相談に付き合っていた。
『また何か始める気だ』
そう書いてきた本人も、ずいぶん楽しそうだった。
俺は、その頃まだ、家の中で迷っていた。
比喩ではない。
実家が、思っていたより広かった。
*
「こっちは、普段使ってないから」
母に言われて、俺は廊下の先を見た。
扉がある。
その向こうにも廊下がある。
「使ってない場所、多くない?」
「そう?」
「そう、じゃなくて」
病院にいた頃から、少し変だとは思っていた。
手続きが早い。
必要な物が、頼む前に揃う。
見舞いへ来る人が、母にやたら丁寧に挨拶する。
退院の日には、迎えの車に運転手がいた。
俺は、前の生活の記憶を少しずつ取り戻していた。
その途中で、自分の実家が相当に裕福だったことも思い出した。
父は会社を経営している。
一つではない。
祖父の代から続いている事業もあるらしい。
らしい、というのは、以前から俺が細かく把握していなかったためだった。
「俺、向こうで資源の箱一つに、あんなに悩んでたのに」
呟くと、母が首を傾げた。
「何の話?」
「いや……」
目の前の花瓶が、妙に気になった。
値段は、聞かないことにした。
*
父と落ち着いて話したのは、その夜だった。
食卓は広いのに、使っているのは端の方だけだった。
「しばらくは、何もしなくていい」
父は言った。
「必要なことを済ませて、体を戻してから考えればいい」
「うん」
「会社に入れとも言わない。別のことをしたいなら、それもいい」
責められると思っていたわけではない。
ただ、何かを決めなければならない気がしていた。
助けてもらった。
帰ってこられた。
なら、早く元へ戻らなければ、と。
父は俺の返事を待たず、汁椀を持った。
「今は、帰ってきたんだから。それで十分だ」
俺は箸を置いた。
母は何も言わず、取り分けた皿をこちらへ寄せた。
その夜は、いつもより少し多く食べられた。
*
犯罪対策室から連絡が来たのは、それからしばらく経ってからだった。
事件後、国内での支援や各方面との調整を担当してくれていた窓口だ。
話したいことがあるという。
また、あの世界での聞き取りかと思った。
行ってみると、別の資料を渡された。
「国際調整の仕事に、関心はありますか」
俺は資料から顔を上げた。
「国際調整?」
「今回の事件は、日本だけでは対応できませんでした。被害者の保護、各国の捜査機関との連絡、技術の取り扱い。今も、調整が続いています」
そこまでは分かる。
分かるが、なぜ俺に聞くのかは分からない。
「あなたに、研修へ参加していただけないかという話が出ています」
「俺、専門の勉強をしてきたわけじゃないですよ」
「ですから、研修からです」
担当者は、穏やかに答えた。
「いきなり国を代表して交渉していただくわけではありません」
それは、心から安心した。
*
紹介されたのは、外交の実務を学ぶための研修枠だった。
国際法。
語学。
各国の制度。
議事録の作り方。
説明を聞くほど、知らないことが増えていった。
あの世界で人と話せたからといって、すぐにできる仕事ではない。
先方も、そのつもりはなかった。
面談と課題があり、何度も話をした。
書いた文章には、細かな修正が入った。
自分では同じ意味だと思っていた言葉が、相手の国や立場によって違って受け取られることを教わった。
「その場で、善意で約束してはいけないこともあります」
説明を受けて、俺は少し黙った。
「心当たりがありますか」
「かなり」
面談相手が、初めて笑った。
「では、そこから学んでいきましょう」
*
数か月後、俺は見習いになった。
正式な肩書きは、もう少し長い。
俺自身は、日本の外交官になるための見習い、と説明していた。
七人へ伝えると、しばらく返事が来なかった。
最初に返してきたのは、玄だった。
『城が国になったのか』
『そんな簡単な話じゃない』
すぐに否定した。
朔が続いた。
『勝手に物資を融通するなよ』
葉。
『分からないことは確認して』
岳。
『帰れなくなる約束はするな』
杏。
『ご飯は食べてね』
誰も、仕事内容を詳しく知らないはずだった。
それなのに、注意されることには、全部心当たりがあった。
律からは、個別に連絡が来た。
『おめでとう。今度、ちゃんとお祝いしよう』
俺は、その一文を何度も読んだ。
*
実家の話が知られたのは、その少し後だった。
自分から隠していたつもりはない。
ただ、話す機会がなかった。
退院後の集まりをどこで開くか相談していた時、母が庭を使えばいいと言った。
人数を伝えた。
大丈夫だと言われた。
皆に写真を送った。
返事が止まった。
玄から通話が来た。
「お前んち、砦?」
「家だよ」
「何人守備置ける?」
「置かない」
「じゃあ、あの門は何だ」
「門だよ」
会話にならなかった。
真砂からは、珍しく即座に連絡が来た。
『少し、お仕事のお話を』
その直後、巌から届いた。
『止めといた』
ありがたかった。
*
律は、笑うだけだった。
「聞いてた?」
「前に、お母さんから少し」
「言ってくれればよかったのに」
「自分の家でしょう」
それは、そうだった。
電話の向こうで、律が少し考える。
「でも、意外だった」
「何が?」
「向こうで、安い武将を探して、すごく悩んでたから」
「あれは、あっちの生活だし」
「うん。そういうところ、いいと思う」
不意に言われて、黙った。
律は、こちらが黙ったのを察したらしい。
「今、照れた?」
「照れてない」
「そう」
声が、笑っていた。
*
デートの日は、晴れた。
俺も律も、以前よりずっと歩けるようになっていた。
それでも、予定は詰めなかった。
昼を食べる。
近くを少し歩く。
疲れたら、店へ入る。
それだけだった。
待ち合わせ場所へ着くと、律はもういた。
淡い色の服を着て、片手に小さな鞄を持っている。
俺を見つけて、手を上げた。
その姿を見て、足が少し速くなった。
「待った?」
「今、来たところ」
「本当に?」
「本当。今日は、確認しなくていいの」
そう言って笑った。
俺も笑った。
*
入ったのは、小さな洋食店だった。
席へ案内され、向かい合って座る。
律がメニューを開いた。
「何にする?」
「迷ってる」
「すぐ決めそうなのに」
「仕事で一日中、知らないことを確認してるから、昼くらい簡単に決めたいんだけど」
「それで迷ってるんだ」
俺は頷いた。
律が、メニューの端を指す。
「じゃあ、違うものを頼んで、少し分ける?」
「それがいい」
注文を済ませた。
同盟の食料を分配するのとは違う。
どちらを頼んでも、誰も困らない。
そんな小さな相談が、妙に楽しかった。
*
「仕事、どう?」
律が聞いた。
「知らないことばかり」
「うん」
「会議に出ても、分かったつもりで聞いてた言葉が、後で違う意味だと分かったりする」
「大変そう」
「大変。でも、聞ける人がいるから」
先輩がいた。
資料があった。
分からないまま決める前に、確認する時間があった。
全部を自分で引き受けなくていい。
そのことを、毎日覚え直していた。
「この前、何も決めてない会議なのに、すごく疲れた」
俺が言うと、律は頷いた。
「次に何を話せるか、決まったんじゃない?」
俺は顔を上げた。
「……そうかもしれない」
「だったら、進んでるよ」
いつか外交官だった彼女は、簡単そうに言った。
俺が資料を読み返して、ようやく分かりかけていたことだった。
「律も来ればいいのに」
つい口から出た。
律が、ゆっくり俺を見る。
「今日は、勧誘されに来たんじゃないんだけど」
「すみません」
「よろしく」
ちょうど料理が運ばれてきた。
助かったと思った。
*
食後、川沿いを歩いた。
少し先に橋がある。
遊歩道の脇には、ベンチが並んでいた。
律の歩幅へ合わせる。
合わせているつもりでいると、律も俺に合わせていた。
それに気づいて、二人で笑った。
「普通に歩こう」
「うん」
しばらくして、律の手が近づいた。
俺から握った。
もう、確かめるために強く握る必要はなかった。
離れたら消えるわけではない。
それでも、繋いでいたかった。
「悠」
「何?」
「仕事を始めるって聞いた時、少し心配だった」
俺は、隣を見た。
「また、いなくなるまで頑張るのかなって」
言い返せなかった。
律は、俺の手を軽く揺らした。
「でも、今日、ちゃんと休み取ってきたから」
「取った」
「連絡も、さっきから見てない」
「急ぎのものは、今日は先輩が見てくれる」
「そっか」
律は前を向いた。
「じゃあ、安心」
俺は、繋いだ手を見た。
信じてもらうには、帰ってくることも必要なのだと思った。
*
ベンチに座って、飲み物を買った。
近くで子どもが鳩を追っている。
すぐに母親らしい人に呼び戻されていた。
川面が光っていた。
「実家、すごかったね」
律が不意に言った。
「急にその話?」
「この前、お母さんに庭を案内してもらったから」
「庭だけで、結構歩くだろ」
「うん。いい運動になった」
俺は額を押さえた。
律が笑う。
「お母さん、優しかった」
「何か言われた?」
「悠がちゃんと食べてるか、聞かれた」
「……皆、それを聞くな」
「心当たりがあるでしょう」
「ある」
律は少し間を置いて、続けた。
「それから、また来てねって」
俺は彼女を見た。
「来る?」
「悠が、呼んでくれるなら」
「呼ぶよ」
すぐに答えた。
律が、満足そうに頷いた。
*
夕方になる前に、帰ることにした。
まだ歩けそうだった。
もう一軒、寄ることもできたと思う。
でも、疲れ切る前に帰る。
今日は、その予定だった。
駅へ向かう途中で、端末が鳴った。
七人の連絡先だった。
『庭の集まり、肉を持っていく』
玄。
『先に人数を決めよう』
朔。
『座る場所も確認したい』
葉。
『雨ならどうする』
岳。
『悠のお母さんに、私からも挨拶したい』
杏。
律が俺の画面を覗いた。
「また会議してる」
「庭で昼を食べるだけなんだけどな」
「皆、ちゃんと楽しみたいんだよ」
その言い方がよくて、俺は頷いた。
返事を書く。
『家で確認する。食事の後は、何も予定を入れなくていいと思う』
送ると、玄からすぐに返ってきた。
『何もしないの、賛成』
律が笑った。
*
改札の前で立ち止まった。
今日は、それぞれの家へ帰る。
同じ城へ帰っていた頃とは、少し違う。
「楽しかった」
律が言った。
「俺も」
「次は、私が店を決めるね」
「お願いします」
「外交官の見習いさんは、日程だけ調整してください」
「それ、今の仕事で一番難しいやつかもしれない」
「じゃあ、いい練習になる」
律は笑った。
俺も笑って、手を放した。
彼女が改札を抜ける。
一度振り返る。
手を上げた。
俺も、上げ返した。
姿が見えなくなってから、自分の帰る方へ向き直った。
端末が鳴った。
『帰ったら、連絡するね』
律だった。
俺は立ち止まって返した。
『俺も。次の店、楽しみにしてる』
予定表を開く。
研修。
仕事。
通院。
皆が家へ来る日。
その先に、まだ空いている休日があった。
俺はそこへ、小さく印をつけた。




