祝杯
第百七十一話 桃園の祝杯
犯罪管理局の人が来ると聞いた時、少し身構えた。
退院の予定が、ようやく話に出始めた頃だった。
歩ける距離は伸びていた。
食事のために起きて、少し動いて、休む。
その繰り返しにも、だいぶ慣れた。
だから、面談室へ呼ばれた時には、また何か起きたのかと思った。
扉を開ける。
レンがいた。
澪もいた。
そして、初めて会うスーツ姿の男性が一人。
「調子はどうだ」
レンが聞いた。
「その聞き方だと、また出兵の相談かと思う」
「今日は兵数を聞きに来たわけじゃない」
「歩ける距離は増えた」
「なら、よかった」
あまり表情は変わらなかった。
それでも、本当にそう思っているのは分かった。
*
男性は、榊と名乗った。
犯罪管理局で、今回の事件の事後対応を担当しているという。
身分証を示してから、椅子を勧めてくれた。
「まず、体調や生活のことで、困っていることはありませんか」
いくつか尋ねられた。
眠れているか。
嫌な記憶が急に浮かぶことはあるか。
家族や、あの世界で知り合った人と連絡が取れているか。
答えを急かされることはなかった。
覚えていないことは、そう言えばよかった。
ひと通り話した後、榊は書類を閉じた。
「ここからは、少し別のお願いです。答えにくければ、断っていただいて構いません」
俺は頷いた。
「あなたの行動について、確認したいことがあります」
「俺の?」
「はい。あの実験の中で、当初の予測から大きく外れる集団行動が生まれています。その中心に、何度もあなたがいた」
俺は、思わずレンを見た。
レンは肩をすくめた。
「俺たちも、そこは知らん」
*
「人をまとめるために、何を意識していましたか」
質問は、普通だった。
けれど、すぐには答えられなかった。
何を意識していたか。
食事を忘れないこと。
帰る道を残すこと。
同じ人へ頼みすぎないこと。
思い浮かぶものはあった。
どれも、自分でできなくなって、誰かに叱られたことばかりだった。
「……人の話は、聞こうとしてました」
「はい」
「でも、聞けてなかったことも多いです。後で杏に教わったり、律に怒られたり」
榊が、少し笑った。
「では、協力を続けてもらうために、報酬を調整したのでしょうか」
「調整したのは、朔と真砂です。あと千景さんとか、佐伯さんとか」
「戦術面では?」
「俺より得意な人が、大勢いました」
自分でも、ひどい受け答えだと思った。
何を聞かれても、他の人の名前が出る。
榊は、困った顔をしなかった。
「では、あなた自身が決めたことは?」
俺は、しばらく考えた。
「頼む相手、ですかね」
口にしてから、少し違う気もした。
「この人なら絶対失敗しない、とは思ってなかったです。でも、失敗した時にも話せる人には、頼めた」
澪が、手元の記録から顔を上げた。
「頼んだ後は?」
「口を出したくなりました」
レンが短く笑った。
「我慢できたのか」
「できなかった時もある」
格好のつかない話だった。
でも、それ以上に立派な答えはなかった。
*
「外へ送り出した三人については、かなり強く信頼していたようですね」
「はい」
そこだけは、すぐに答えられた。
「帰ってきてほしいとは思いました。でも、俺が寂しいから戻ってくれって言ったら、任せたことにならないので」
「奥さんも、その一人だった」
俺は咳払いした。
「……こっちでは、まだです」
「ああ、失礼しました」
榊は丁寧に頭を下げた。
澪が、明らかに笑うのを我慢していた。
「何だよ」
「別に。律さんからも、似たような話を聞いたから」
「律にも聞いたのか」
「うん。あの人の方が、あなたのことを上手に説明してくれた」
「それ、内容を聞いても?」
「本人に聞いて」
今度は、レンまで笑った。
俺は水を飲んだ。
面談の目的が、少し分からなくなってきた。
*
榊は、最後にこう言った。
「特別な才能の一つに名前をつければ、説明できるのではないか。そう考える人は、こちらにもいます」
俺は黙って聞いた。
「ただ、記録を見るほど、あなた一人では説明できない。あなたが誰かへ任せ、その人が別の誰かを連れてくる。その繰り返しが大きかったように見えます」
「たぶん、そうだと思います」
「研究側は、人間同士の不信や対立を、かなり細かく数えていました。一方で、揉めた後も関係を続けるために、誰が何をしているのか。その部分を、十分に見ていなかった」
真砂の帳面を思い出した。
千景の確認。
杏の書簡。
律の、用事のない時にも続いていたやり取り。
そういうものは、戦果の一覧には出てこない。
けれど、なければ、途中で全部ばらばらになっていたと思う。
「ありがとうございました」
榊が言った。
「今日は、ここまでで結構です」
俺は少し肩の力を抜いた。
その瞬間、澪が卓へ別の端末を置いた。
「じゃあ、ここからが本題」
「今までのは?」
「ちゃんと本題。次の本題」
*
画面に、城が映った。
見覚えがあった。
胸が、一度強く鳴った。
石の城壁。
見張り台。
その向こうに続く、広い土地。
俺は、反射的に手を引いた。
レンがすぐに言った。
「記録映像じゃない。新しく作り直したものだ」
「作り直した?」
「正式なゲームとして」
画面が動いた。
城門が開く。
道が伸びる。
畑があり、川があり、遠くに砦が見えた。
あの世界だった。
少なくとも、風景は。
「押収した技術のうち、安全に使える部分を整理しました」
榊が説明した。
「開発と運営は、管理局の監督下にある別のチームが担当します。閉じ込める仕組みも、意識を入れ替える仕組みもありません」
画面の端には、終了の表示があった。
澪がそれを押す。
風景が消え、開始前の画面へ戻った。
「いつでも、こうして終われる。現実の身体を休ませるための時間制限もある」
もう一度、城が映る。
俺は、その景色を見た。
「……同じ武将も?」
「いる」
レンが答えた。
「調整は入ってる。あのままじゃ、ゲームにならん」
「デュアルは?」
「それも含めて」
澪が笑った。
「あなたたちが文句を言いそうなところは、だいぶ直したつもり」
*
「何で、そこまで」
聞くと、榊は少し考えた。
「戻りたくない方がいることは、承知しています。参加は自由です」
俺は頷いた。
「ただ、あの世界で得たものまで、すべて奪われたままにしたくないという声もありました」
宴。
釣り。
料理教室。
七人で、初めて地図を囲んだ場所。
思い出したくない夜もある。
でも、なくなってほしくないものもあった。
榊は、そこで少し表情を緩めた。
「それに、維持費はかかります」
「……はい?」
「犯罪管理局も、収入が必要ですから。正式運営が始まったら、課金はじゃんじゃんしていただけると」
俺は、レンを見た。
レンは目を逸らした。
澪が吹き出す。
「言い方!」
「大切な説明です」
榊は真面目な顔だった。
「被害者支援の費用を、皆さんに請求するという話ではありませんよ。ゲームの運営収益です」
「武将を引けと?」
「そこは開発側と調整中です。まずは城の外観や衣装などから」
俺は腕を組んだ。
「猫の旗は?」
「ご用意できます」
「……そうですか」
澪がこちらを指した。
「今、払う顔した」
*
案内は、皆にも届いた。
最初は、反応が分かれた。
玄は早かった。
『やる』
朔からは、すぐに質問が飛んだ。
『何が持ち越される。ポイントの扱いは。取引は可能か』
葉は説明書を読み始めた。
岳は、途中で終了した場合の扱いを確かめた。
杏は、参加する人へ連絡していた。
参加しないと決めた人にも、無理に勧めなかった。
律からは、短い連絡が来た。
『悠は、どうする?』
俺は、少し考えた。
『一度、見てみたい』
返事はすぐだった。
『じゃあ、一緒に』
*
指定された日。
体調の確認を受け、利用できる時間を決めた。
今度は、自分で開始を選んだ。
意識を失う怖さは、少しあった。
指が止まる。
隣にいた職員が、待ってくれた。
「今日はやめても、大丈夫ですよ」
「……いえ」
俺は息を吐いた。
「行ってきます」
開始の表示に触れた。
*
目を開けると、椅子に座っていた。
長い卓が、目の前にあった。
白い布。
皿。
杯。
花の飾られた枝。
顔を上げる。
広い宴会場だった。
いや、天井はなかった。
青い空の下に、何十もの卓が並んでいる。
周囲には、桃の木。
その向こうに、王城の壁が見えた。
統合前、皆で宴を開いた場所に似ていた。
けれど、あの時よりずっと大きい。
「……は?」
声が出た。
隣で、椅子の音がする。
律がいた。
俺と同じように、周りを見ていた。
「これ、説明にあった?」
「なかった」
向かいに、玄が現れた。
卓の上を見た。
「飯がある!」
続いて朔が現れ、玄の声を聞いた瞬間に顔をしかめた。
「最初に言うこと、それかよ」
葉が目を開ける。
岳が周囲を確かめる。
杏が、俺たちを見つけて立ち上がった。
「いた!」
七人が、同じ卓にいた。
*
あちこちで、声が上がった。
「お前、その顔のままか!」
「そっちこそ!」
「現実で先に会った時、分からなかったぞ!」
笑い声。
名前を呼ぶ声。
椅子を引く音が、次々と重なった。
晴が走ってきた。
千景が後ろから、走るなと言っている。
正臣は、なぜか早くも料理の並べ方を見ていた。
「それ、今日は仕事じゃないよ」
奈緒に言われて、手を止めた。
真砂が卓の端を確かめている。
巌が聞いた。
「何を見とる」
「料理の追加が有料かどうか」
「今日は忘れろ!」
遠くで、瀬名が手を上げた。
高瀬もいた。
直哉が、少し照れたように会釈した。
木陰の栄一は、皿を持ったまま、見知らぬ人へ何か説明している。
たぶん、また兵の数を聞かれている。
俺は立ち上がった。
誰から挨拶すればいいのか、分からなかった。
*
会場の前に、澪が現れた。
弓を持っていなかった。
代わりに、小さな拡声器を持っていた。
「聞こえますか!」
十分すぎるほど、聞こえた。
レンが横で、少し音を下げた。
「今日は試験運用です。出兵も、領地取得も、城の防衛もありません」
会場から、笑いが起きた。
「皆さんの席と料理を用意しました。途中で退出しても大丈夫です。残り時間は、それぞれの表示で確認してください」
俺は視界の端を見た。
終了の表示がある。
いつでも、帰れる。
それを確かめてから、ようやく周囲の景色を落ち着いて見られた。
「それから」
澪が少し、声を柔らかくした。
「おかえりなさい。今日は、遊びに来てくれて、ありがとうございます」
*
拍手が起きた。
大きくなった。
誰かが澪の名を呼んだ。
レンの名も。
カイは、いつの間にか俺たちの卓に座っていた。
「何でそっちにいるんだよ」
俺が言うと、皿を引き寄せながら答えた。
「俺、局員じゃないから」
「助けた側だろ」
「それで立ちっぱなしにされるのは、ちょっと」
玄が大きく頷いた。
「分かる」
「お前は食べたいだけだろ」
朔が言った。
そのやり取りを聞いて、胸の奥が熱くなった。
戻ってきた。
同じ場所へ閉じ込められたのではない。
自分たちで、また集まった。
*
「盟主!」
誰かが呼んだ。
反射的に振り返る。
いくつもの卓から、こちらを見ていた。
「乾杯、やってくれ!」
「奥さんも!」
律が、俺の隣で目を閉じた。
「……こっちでも、それなのね」
「俺だけじゃ、たぶん逃げられない」
「知ってる」
手を差し出すと、律が取った。
二人で、会場の前へ出た。
見渡すと、旗が並んでいた。
北西の猫。
北西の番犬。
白嶺、翠河、天央会、蒼海。
小さな同盟の旗もあった。
途中でなくなった名前も、残されていた。
その下で、人が笑っていた。
*
杯を持った。
何を話そうかと思った。
大変だったことなら、いくらでもある。
誰に助けられたかも、一晩では話し終わらない。
でも、今日は、戦いの説明をしなくてよかった。
「……また、会えてよかったです」
それだけで、少し声が詰まった。
律が隣に立っている。
後ろには、仲間がいる。
「この世界には、嫌な思い出もあります。でも、皆と過ごした時間まで、嫌いにはなれませんでした」
静かになった会場を見た。
「また集まれる場所を作ってくれて、ありがとうございます」
レンが腕を組んで、少しだけ顎を引いた。
澪が笑った。
律が、続けた。
「今日は、帰る時間になったら帰りましょう」
あちこちで笑いが起きた。
「眠くなったら休んで、食べたいものを食べて。話し足りなかった分は、また今度にして」
俺も頷いた。
「また今度、があるので」
杯を上げた。
会場中で、杯が上がる。
巌が、待ちきれないように笑った。
晴が、もう高く掲げていた。
「それじゃあ」
律と目を合わせた。
「桃園の再会に」
「皆の、これからに」
声を揃えた。
「乾杯!」
*
杯の触れ合う音が、桃の木の間を渡った。
祝杯を上げるために、隣の卓へ行く人がいる。
久しぶりの相手へ、何度も同じ話をする人がいる。
泣いている人の隣へ、黙って座る人もいた。
俺たちが席へ戻ると、玄が皿を確保していた。
「遅い!」
「お前、待ってなかっただろ」
「待ちながら食った」
朔が肩をすくめる。
葉が笑う。
杏はもう、別の卓から来た人を紹介し始めていた。
岳が、俺の椅子を少し引いてくれた。
律が隣へ座る。
俺は杯を置いて、皆を見た。
今度は、明日の戦いを決めるための卓ではなかった。
何を食べるか。
誰と話すか。
次は、いつ会うか。
それくらいのことで、十分に忙しかった。




