到達した場所
第百七十話 悠と呼ばれる朝
「悠さん、起きてますか」
声をかけられて、返事が少し遅れた。
看護師がカーテンから顔を出す。
「まだ眠かったですか?」
「いえ。起きてます」
そう答えてから、自分の手首を見た。
病院の識別帯に、名前が書いてある。
悠。
昔から、自分の名前だった。
それなのに、呼ばれるたび、少しだけ不思議な感じがした。
盟主でもない。
北西の猫でもない。
誰かの相談を待っている人でもない。
ただ、俺が呼ばれている。
「今日は午前中にリハビリがあります。その前に朝ご飯ですね」
「はい」
「昨日みたいに、先に歩いて行こうとしないでくださいね」
「……はい」
もう一度返事をすると、看護師は笑った。
「呼んでくれれば、一緒に行きますから」
*
朝食の盆には、蓋のついた器が並んでいた。
起こした体で座っているだけでも、少し疲れる。
それが、まだ妙だった。
俺の中には、城壁を駆け上がった記憶がある。
荷物を運んだ。
何時間も立って、地図を見ていた。
眠らないまま、次の出兵を決めたこともある。
なのに、今は椅子へ移るだけで、息を整える必要がある。
夢だったのかと思う瞬間もあった。
そんな時、卓上の端末へ連絡が来る。
『朝飯、食ったか』
玄だった。
俺は短く返した。
『今から』
すぐに次が来た。
『俺も』
それだけだった。
戦況の報告も、兵の相談もない。
俺は画面を見て、少し笑った。
夢なら、こんな連絡までは続かないだろう。
*
リハビリの部屋には、手すりがあった。
椅子があり、段差があり、床には歩く時の目印がある。
戦場のどんな道より、安全そうに見えた。
実際、安全に練習するための場所だった。
それでも、立ち上がろうとすると怖かった。
足が、自分の思った通りには動かない。
力を入れたつもりでも、膝が頼りない。
担当の療法士が、横から声をかける。
「急がなくて大丈夫です。まず、足の位置を確かめましょう」
言われた通りにする。
前へ体を動かす。
立つ。
たったそれだけで、額に汗が出た。
「いいですね。少し止まりましょう」
「もう少し、行けます」
口にしてから、嫌な予感がした。
隣の人が、穏やかな顔のまま俺を見た。
「今日は、立った時の様子も確認したいんです」
「あ、はい」
「進める距離だけが、練習ではないので」
俺は手すりを握り直した。
どこかで、何度も聞いたような話だった。
*
数歩進んで、椅子へ戻った。
戻った時の方が、立った時より難しかった。
早く座りたい。
そう思って、体を下ろす動きが雑になる。
支えてもらい、ようやく腰を落ち着けた。
「すみません」
「大丈夫です。今のところを、少しずつ練習しましょう」
俺は息を吐いた。
向こうの壁まで、行けると思っていた。
見えている。
近い。
それなのに、今日はここまでだった。
悔しいと思った。
そんなことで悔しがる自分が、少し情けなくもあった。
「頭の中だと、もっと動けるんです」
ぽつりと言うと、療法士は頷いた。
「今の体の感覚を、確かめ直しているところですね」
俺は自分の足を見た。
責めても仕方がない。
この体は、俺の覚えていない時間を、ずっと耐えていたのだ。
そのことを、忘れそうになる。
「今日は、昨日より立ち上がる動きが滑らかでしたよ」
「そうですか」
「はい。ご本人は、歩く方が気になったかもしれませんが」
見てくれていた。
俺には分からなかった、小さな変化を。
それが、思ったより嬉しかった。
*
部屋へ戻ると、母がいた。
着替えを棚へ入れ、机の上を整えている。
「どうだった?」
「歩いた」
「そう」
「少しだけ」
「少し歩けたのね」
言い直されて、顔を上げた。
母は当たり前のように、袋を畳んでいた。
少ししか、ではない。
少し、できた。
そう聞こえた。
「それから、律さんが後で来られるって」
思わず背筋が伸びた。
母がこちらを見る。
「今の方が、元気そう」
「そんなことない」
「分かりやすいわね、悠」
言い返そうとして、やめた。
たぶん、言い返すほど分かりやすくなる。
*
律は、昼過ぎに来た。
今日は付き添いの人と一緒に、車椅子で談話室まで来られたという。
俺も手伝ってもらって、そこへ移った。
窓際の席。
卓を挟んで向かい合う。
地図がなかった。
書簡も、兵数の一覧もない。
あるのは、飲み物と、小さな時計だけだった。
「悠」
律が呼んだ。
「何?」
「ううん」
少し笑う。
「呼んでみただけ」
俺は、返事の続きを失った。
律は楽しそうだった。
「まだ慣れない?」
「慣れないというか」
「うん」
「律に呼ばれるのが、新しい」
口にしてから、顔が熱くなった。
律も、少し目を伏せた。
「私も」
窓の外を、鳥が横切った。
二人とも、しばらくそれを見ていた。
*
「今日は、どうだった?」
律が聞いた。
「立って、少し歩いた」
「疲れた?」
「かなり」
「私も。座ってる練習だけで、思ったより疲れる」
律は膝の上の掛け物を直した。
俺は、何か励ました方がいいのかと思った。
でも、すぐによくなると言えるわけではない。
頑張れと言うのも、違う気がした。
「戻ったら、休もう」
そう言うと、律が頷いた。
「うん。悠もね」
「俺は大丈夫」
律が黙った。
俺も黙った。
数秒後、言い直した。
「……俺も休む」
「よろしい」
その言い方が懐かしくて、笑ってしまった。
*
しばらくして、端末が鳴った。
七人の連絡先をまとめた場所に、新しいメッセージが入っていた。
玄だった。
『今日、昨日より歩けた』
杏が返す。
『よかったね』
続けて、朔。
『距離を競うなよ』
『まだ何も言ってねえだろ』
『言いそうだから』
律が画面を覗き込んだ。
「見抜かれてる」
「俺も、似たようなこと言われた」
「でしょうね」
葉からも連絡が来た。
『調子がよくても、それぞれ予定が違うから、比べない方がいいって言われた』
岳は短かった。
『帰りの分も残せ』
俺と律は、同時に笑った。
場所が変わっても、言うことが変わらない。
そのことが、ありがたかった。
俺は少し考えてから書いた。
『今日は椅子に戻る方が難しかった』
送ってから、こんなことを書いてよかったのかと思った。
すぐに玄から返事が来た。
『分かる』
その後に、杏も続いた。
『私、靴を履くところで疲れた』
立派な報告は、一つもなかった。
それでも、話してよかったと思った。
*
午後、カイが顔を出した。
談話室の入口で俺たちを見つけ、少しだけ足を止めた。
「お邪魔だった?」
「そう思うなら、聞く前に帰ればいいのに」
律が言った。
「元気そうで何より」
カイは笑って、少し離れた椅子へ座った。
手には、店の名前が入った小さな封筒があった。
「予約票?」
俺が聞くと、カイは首を振った。
「今日は違う。前に店で預かった物の確認。こういうのは、落ち着いてからでいいけど」
封筒を卓へ置く。
それから、俺の姿勢を見た。
「また、肩が上がってる」
「無意識なんだよ」
「知ってる」
「少し、ほぐしてもらった方がいいのかな」
「今は、ここの先生たちに任せて」
即答だった。
「退院して、施術を受けていいって話になったらね。それまでは、勝手に仕事しない」
俺は頷いた。
カイが、窓の外を見る。
剣も、技能もない。
それでも、不思議と頼もしかった。
できることを知っていて、今やらないことも決められる。
その人が、俺たちの帰る道を繋いでくれたのだと思った。
*
「ところで」
カイが俺と律を交互に見た。
「お二人とも、現実では初対面に近いんだよね」
俺たちは顔を見合わせた。
確かに、そうだった。
知っていることは、多い。
怒る時の顔。
疲れている時の声。
困った相手を、放っておけないところ。
でも、知らないことも多い。
どんな家に住んでいたのか。
普段、何をしていたのか。
何を食べて、どんな道を歩いていたのか。
本人にも、まだはっきり思い出せないところがある。
律が、俺を見た。
「じゃあ、改めて」
「今?」
「うん」
少し姿勢を正す。
「律です」
俺も、つられて背を伸ばした。
「悠です」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
言い終えて、二人で笑った。
カイが、呆れたように頷く。
「よかった。結婚式の予約を頼まれるのかと思った」
「そこまでは、まだ」
律が答えた。
それから、俺を見た。
「こっちでも、ちゃんと順番にしようね」
胸が、少し熱くなった。
あの世界で交わした約束を、なかったことにするのではない。
ここで暮らしていくために、もう一度、一つずつ。
俺は頷いた。
「うん」
*
夕方、部屋へ戻る時間になった。
談話室で長く座っていただけなのに、体は疲れていた。
律も、少し眠そうだった。
帰り際、手を伸ばした。
指先が触れる。
ほんの少し握って、放す。
「また明日」
律が言った。
俺は頷いた。
「疲れてたら、連絡だけでも」
「悠もね」
付き添いの人が車椅子を動かす。
律は途中で一度振り返った。
俺は手を上げた。
見えなくなってからも、しばらく廊下の先を見ていた。
「戻りましょうか」
声をかけられ、振り返る。
「はい」
今日は、誰かを待つために残らなくてよかった。
部屋へ戻って、眠ればいい。
明日、また会える。
*
その夜、母に昔の話を聞いた。
子どもの頃のこと。
苦手だった食べ物。
学校へ持っていく物を忘れて、取りに戻った日のこと。
聞いても、すぐには思い出せない話がある。
途中で、急に景色が浮かぶ話もある。
母は、思い出せなくても先を急がなかった。
最後に、俺が幼い頃の写真を一枚、卓へ立てた。
「今日は、このくらいにしましょう」
「うん」
「明日も来るから」
俺は写真を見ながら頷いた。
帰ってきた場所にも、知らないことが残っている。
思い出すことと、新しく覚えること。
どちらも、これから少しずつ増えていくのだろう。
*
消灯の前に、律から連絡が来た。
『今日は会えて嬉しかった』
俺はすぐに返した。
『俺も』
それから、少し考えた。
明日はもっと歩く。
早く退院する。
会いに行けるようになる。
そんな言葉が浮かんだ。
でも、今日は別のことを書いた。
『明日も、終わったらちゃんと休む』
返事には、笑っている顔がついていた。
『私も。おやすみ、悠』
名前を、目で追った。
たった一文字だった。
それなのに、その一文字が自分へ届くまで、ずいぶん遠くを回った気がした。
『おやすみ、律』
端末を置いた。
廊下で、静かな足音がした。
次の出兵を待つ必要はなかった。
俺は明日の予定を一度だけ確かめて、目を閉じた。




