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復帰

第百六十九話 おかえりと言われる場所


 細い光は、消えなかった。


 暗闇の中で、一度だけ強く張った。


 俺と律を繋いだ手とは別の、何かが触れている感覚があった。


 肩でも、腕でもない。


 どこか深いところで、帰る方向だけが分かる。


「まだ、繋がってる」


 俺が言うと、律が頷いた。


「うん」


 暗闇の向こうから、また声がした。


「関係性の維持には、共通の危機が――」


 途中で、雑音が入った。


 声が途切れる。


 短い衝撃音。


 続いて、別の声が響いた。


『動くな。両手を見える位置へ』


 俺たちは、同時に顔を上げた。


 暗闇の一部が、薄く明るくなる。


 部屋が見えた。


 白い壁。


 いくつもの機械。


 床へ押さえられている人間。


 こちらを見ようと顔を上げたところへ、別の誰かが腕を回した。


 もう一度、命令が飛ぶ。


 今度は、反論する声がなかった。


     *


『管理端末、確保』


『実証区画の責任者、拘束完了』


『停止操作を引き継ぐ。独断で電源を落とすな』


 聞こえてくる声は、淡々としていた。


 勝利を喜ぶ叫びではなかった。


 確認して、次の人へ渡す。


 誰かが一つ終わらせるたび、別の誰かが先へ進む。


 俺は、そのやり取りを聞いていた。


 なぜか、少しだけ笑いそうになった。


 外にも、こういう人たちがいた。


 俺たちの見えない場所で、ずっと準備していた人たちが。


『二名の隔離先、追跡できるか』


「できる!」


 澪の声だった。


「カイが、切らせてない!」


 光が揺れた。


 その先に、手が見えた。


 見慣れた手だった。


「はい。延長料金、発生してるよ」


 カイの声がした。


 いつもと同じ調子にしようとして、少し掠れていた。


 俺は、ようやく息を吐いた。


「予約、そんなに長く取ってない」


「勝手に追加したの、そっちじゃないからね。請求先は、押さえてもらった」


 暗闇に、細い裂け目が走る。


 レンの声が重なった。


「話は後だ。そこから動くな」


     *


 律の手が、少し震えていた。


 俺も、震えていたと思う。


 怖くなかったわけではない。


 怖いと言う間もなく、二人だけになった。


 戻れると思ったところで、また奪われた。


 それを、今になって体が理解し始めていた。


 律が俺を見た。


「今度こそ」


「ああ」


 光が広がる。


 カイは、俺たちを力任せに引かなかった。


 足元から、何かがほどける。


 冷たく張りついていたものが、一つずつ離れていく。


 澪が名前を確かめた。


 外から、照合の返事が来る。


 レンが、最後に残った隔てを貫いた。


 風のようなものが通った。


 律の髪が揺れた。


「また、後で」


 俺が言うと、律は頷いた。


「絶対ね」


 握った手の感触が、最後まで残った。


     *


 次に聞こえたのは、短い電子音だった。


 繰り返している。


 一定の間隔で。


 眩しいと思った。


 目を閉じようとして、自分がまだ、ほとんど開けていないことに気づいた。


 喉が乾いていた。


 体が重い。


 腕を動かそうとしたが、思っていた場所まで上がらなかった。


「……りつ」


 声になったかどうか、分からなかった。


 近くで、椅子の動く音がした。


「起きた?」


 知らない声ではなかった。


 そのはずだった。


 でも、顔がすぐに思い浮かばない。


 ゆっくり目を開くと、女性がこちらを覗き込んでいた。


 泣きそうな顔をしていた。


 泣きそうなのに、口元は笑っていた。


「ちょっと待ってね。先生、呼んでくるから」


 立ち上がりかけて、また戻ってくる。


 俺の手に触れた。


「……よかった」


 その声を聞いて、思い出した。


 母だった。


     *


 病院だった。


 城ではない。


 寝台でも、野営の幕でもない。


 白い天井。


 腕に繋がった管。


 カーテンの向こうで、誰かが歩く音。


 医師が来た。


 名前を尋ねられた。


 答えられた。


 自分でも、少し驚いた。


 あの世界では、口に出そうとすると曖昧になっていた音が、何の抵抗もなく出た。


 次に、ここがどこか分かるかと聞かれた。


「病院……ですか」


「はい。戻ってきています」


 その言葉で、胸の奥が緩んだ。


 戻ってきた。


 まだ、実感はなかった。


 けれど、隣で母が何度も頷いていた。


「慌てなくて大丈夫です。確認は少しずつしていきます」


 医師がそう言った。


 俺は、聞きたいことを一つに絞ろうとした。


 できなかった。


「みんなは」


 それだけが出た。


     *


 全員の意識が戻ったと知らされたのは、その日のうちだった。


 同じ病院にいる人ばかりではない。


 救出された場所や、必要な治療によって、いくつかの病院へ運ばれている。


 目を覚ますまでの時間にも差はあった。


 それでも、箱庭から取り出した人々について、外との接続を失ったままの人は残っていないという。


 途中で意識を除外された人も。


 代行に城を動かされていた人も。


 最後まで戦っていた人も。


 何もしないまま、城で過ごしていた人も。


 誰を取り戻すか、選ばれなかった。


 全員だった。


 俺は何度も、同じ説明を聞いた。


 説明してくれた人は、嫌な顔をしなかった。


「はい。皆さん、戻っています」


 その返事を聞いてから、ようやく眠れた。


     *


 カイが来たのは、翌日だった。


 鎧を着ていなかった。


 武器も持っていない。


 見慣れない服を着ていたのに、立ち方は同じだった。


 顔を見て、別の記憶が動いた。


 明るい店内。


 温かいタオル。


 予約の確認。


 肩を触られて、硬いと言われた声。


「……本当に、店の人だったんだな」


「そこ、まだ疑ってた?」


 カイは椅子を引いて座った。


「こちらとしては、常連さんに忘れられて、少し傷ついてるんだけど」


「悪い」


「まあ、予約をすっぽかした理由としては、かなり強い方だったね」


 笑おうとして、喉が痛んだ。


 咳をすると、カイがすぐに呼び出しのボタンへ目を向けた。


「無理して喋らなくていいよ」


 その後ろから、レンと澪が入ってきた。


 二人とも、武将ではなかった。


 身分証を見せる。


 犯罪管理局。


 ようやく、その名前が現実のものになった。


     *


「関係者は、全員確保した」


 レンが言った。


 俺は顔を上げた。


「最後に、俺たちを止めた奴も?」


「ああ。管理権限を持っていた連中も、現場の実行役も。複数の拠点へ、同時に入っている」


 澪が、椅子を寄せた。


「皆さんの記録を回収できたから、向こうが隠そうとしていた対象も照合できた。外の仲間が押さえていた資料と、繋がったの」


 俺は、白い掛け布団を見た。


 聞かなければならない気がした。


 知りたくない気もした。


「あいつら、何をしたかったんだ」


 二人は、一度だけ視線を交わした。


 レンが答えた。


「目的は、一つじゃない」


     *


 人が、どんな時に戦うのか。


 誰に従うのか。


 損失を受けた時、どこまで組織に残るのか。


 恐怖を弱めれば、どれだけ攻撃的になるのか。


 仲間への愛着を強めれば、他者をどれだけ敵視するのか。


 箱庭で集められた情報は、研究室の中で終わっていなかった。


 戦闘用AI。


 部隊を動かす戦術AI。


 補給や指揮の判断を支援する仕組み。


 人間の集団が混乱した時、その動きを予測し、誘導するための分析。


 そうしたものへ、実験結果が使われていた。


「天統の動きも、そこから?」


「過去の実験結果と、今回の戦闘記録を使って、判断を更新していた」


 道を狙った。


 交代を狙った。


 物資の薄い場所へ回り込んだ。


 俺たちの苦しんだ経験そのものが、敵を動かす材料になっていた。


 澪が続けた。


「成果を売って、資金を得ていた。組織が自分たちで使うための開発もあった」


 金儲け。


 組織の目的。


 そのために、世界を作り、人を閉じ込め、条件を変えた。


 役に立たないと判断すれば、意識を外した。


 俺は、しばらく何も言えなかった。


     *


「俺たちが仲良くしてたのも、記録か」


 ようやく出た声は、自分でも驚くほど小さかった。


 料理教室。


 釣り。


 結婚。


 宴。


 戦争をやめるための相談。


 あれも全部、誰かの画面に数字として出ていたのだろうか。


「記録はされていた」


 レンは、曖昧にしなかった。


「ただ、お前たちが誰を好きになるかまで、あいつらが決めたわけじゃない」


 カイが、俺の手元を見た。


「最後、手を放さなかったでしょ」


 俺は律の感触を思い出した。


「それ、誰かに命令された?」


「……されてない」


「じゃあ、そこは持って帰ってきていいんじゃない」


 すぐに納得できたわけではなかった。


 腹は立った。


 気持ち悪さも残った。


 けれど、律と過ごした時間まで、連中のものにしたくはなかった。


 俺は掛け布団の上で、ゆっくり手を開いた。


     *


 困ったことに、戻ってきたからといって、全部を思い出せたわけではなかった。


 昔から知っている顔は分かる。


 名前も、少しずつ繋がる。


 けれど、ここへ来る前、どんな毎日を送っていたのか。


 どこへ行って、何をしていたところを巻き込まれたのか。


 そのあたりが、ひどく曖昧だった。


 同じような人は多いらしい。


 直前の記憶がほとんどなく、今、鮮明に話せるのは箱庭での生活ばかり。


 医師からは、無理に思い出そうとしなくていいと言われた。


 生活の記憶を、家族と少しずつ確かめていく。


 写真を見る。


 知っている物に触れる。


 急いで、空白を埋めようとしない。


 そういうところから始めることになった。


 母が持ってきた写真を見ながら、俺は首を傾げた。


「ここ、行ったっけ」


「行ったわよ。あなたが道を間違えて」


「……それは、何となく嫌な感じがする」


「そこだけ思い出すのね」


 母が、少し笑った。


     *


 話せることを話してみた。


 最初に、七人で集まったこと。


 同盟を作ったこと。


 武将を育てたこと。


 城を取って、取られたこと。


 母は真面目に聞いていた。


 途中から、顔つきが少し変わった。


「それ、ずっとゲームしてたみたいな話ね」


「いや、まあ、仕組みはそうなんだけど」


「友達ができて、お祭りをして、釣りをして?」


「戦争もあった」


「それは、さっき聞いた」


 母は、手元の写真を揃えた。


 それから、呆れたように言った。


「こっちは、いつ起きるかも分からなくて、毎日ここへ来てたのに」


 何も言えなかった。


 母が、俺の顔を見た。


「楽しそうなところばっかり、覚えてるのね」


 少しだけ、責める響きがあった。


 でも、その目には涙が溜まっていた。


「ごめん」


 言うと、すぐに首を振った。


「あなたが謝ることじゃないわよ」


 そう言ってから、手を握られた。


 強かった。


「笑って話せることもあったなら、よかった」


 母は、しばらく手を放さなかった。


     *


 似たようなやり取りは、あちこちで起きていたらしい。


 玄は、目を覚まして間もなく食事の心配をして、家族に呆れられた。


『寝てる間も、飯のこと考えてたのかって言われた』


 届いた短い連絡に、俺は笑った。


 朔は、物資のやり繰りを説明していたら、家でもそれくらい整理してほしいと言われたという。


 杏は、友達が大勢できたと話して、そんなのんきな話なのかと驚かれた。


 その後、家族に抱きしめられた。


 岳は、帰る道を作っていたと話したら、まず自分が帰ってきてよ、と泣かれたそうだ。


 葉からの連絡は、短かった。


『説明が長くなるので、今は休んでと言われた』


 その後に、もう一文。


『でも、家族が寝ていないので、そちらを先に休ませたい』


 相変わらずだった。


 画面を見て、胸が温かくなった。


 同盟の書簡ではない。


 城の位置も、兵数も、そこにはない。


 それでも、返事が来た。


     *


 全員が、すぐに笑えたわけではなかった。


 思い出すと話せなくなる人もいる。


 眠る前に、城を攻められる音を思い出す人もいる。


 戻ってきた家族の顔を見て、かえって長く泣いた人もいた。


 病院では、そういう話も、急がず聞いてくれた。


 明日までに決めなくてもよかった。


 返事が遅れたからといって、誰かの城が落ちることもない。


 それを、俺は何度も確かめるように、窓の外を見た。


 道を、普通の車が走っていた。


 荷物を運ぶ車。


 どこかへ帰る車。


 それを守るための兵は、並んでいなかった。


     *


 数日後、短い距離なら歩いていいと言われた。


 思っていたより、足に力が入らなかった。


 城壁を走った記憶と、現実の体が合わない。


 ゆっくり立つ。


 支えを借りる。


 数歩進んで、息を整える。


「焦らないでくださいね」


 看護師に言われ、頷いた。


 その時、母が廊下の先を見た。


「ああ、いらした」


「誰が?」


 聞く前に、見えた。


 律だった。


 車椅子に座っていた。


 隣に付き添う人がいる。


 鎧を着ていない。


 武器も持っていない。


 病院の服で、膝に薄い掛け物を載せていた。


 それでも、すぐに分かった。


 律も、こちらを見た。


 笑った。


 少し、泣きそうな顔で。


     *


「見つけた」


 律が言った。


 俺は頷いた。


「俺も」


 言いたかったことが、いくつもあった。


 無事でよかった。


 待たせた。


 もう一度会えてよかった。


 どれも、うまく口から出なかった。


 律が手を伸ばした。


 俺も、手を伸ばした。


 今度の手は、少し冷たかった。


 骨の感触も、皮膚の感触も、あの世界とは違った。


 でも、握り返す強さを知っていた。


 母が、横で小さく息を吐いた。


「まあ……本当に、幸せそうな顔して」


 少し呆れた声だった。


 律が顔を赤くする。


 俺も、何か言い訳をしようとした。


 母は、その前に笑った。


「よかったわね」


 それ以上、何も言わなかった。


 律の手を握ったまま、俺は頷いた。


 病院の廊下に、午後の光が差していた。


 律の手を握ったまま、俺は口を開いた。


 あの世界では、何度思い浮かべても、言葉にできなかった自分の名前。


 今度は、ちゃんと伝えられた。


 律は一度だけ目を見開いて、それから、確かめるように俺の名を呼んだ。


「うん」


 返事をすると、ようやく帰ってきた気がした。

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