もう一歩
第百六十六話 もう一歩、前へ
朝、出兵を取りやめる書簡が減った。
それだけのことで、地図が変わった。
昨日までは、攻撃の予定が決まっても、その後ろに取り消し線が入っていた。
後方の城が危ない。
補給の道が切れた。
留守を守る兵が足りない。
そのたび、前へ出るはずだった部隊が戻っていく。
今日は違った。
『後方の守備、引き継ぎ完了』
『予定通り出兵します』
『交代の部隊が到着。こちらも前進可能』
杏が書簡を並べる。
隣で玄が、何度も地図を見直していた。
「これ、全部来るのか」
「全部がここへ来るわけじゃない」
俺が言うと、玄は頷いた。
「分かってる。だから、すげえんだろ」
東でも。
南でも。
俺たちの見えない場所でも。
誰かが後ろを守った分だけ、別の誰かが前へ出られる。
その積み重ねが、ようやく敵の対応を上回り始めていた。
*
葉から届いた地図には、敵の中継地が三つ記されていた。
一つを取れば、別の道へ迂回できる。
二つを押さえても、遠回りになるだけで、兵は届く。
三つ目まで使えなくなれば、北西へ向けた戦力を、そのまま維持することは難しい。
ただし、三か所を同時に攻める余裕はなかった。
そこで、順番を決めた。
最初に、東。
敵が守るために兵を動かしたところで、中央。
最後に、北西から残った道へ手を伸ばす。
手順だけなら、簡単だった。
難しいのは、途中で誰かが押し戻されても、慌てて全部を変えないことだった。
『各隊、次の報告を待つ位置を確認してください』
律の書簡にあった。
『早く着いた場合も、予定の地点を越えて進まないこと』
玄が読んで、俺を見る。
「これ、暁の輪に言ってるよな」
「お前にもだ」
「だと思った」
*
――東側、天統連盟第一中継地。
暁の輪は、見えるところまで来ていた。
敵の守備隊も、それを見ていた。
速い相手だ。
一度道を開ければ、後ろへ回られる。
その警戒から、天統は分岐に兵を寄せた。
しかし、迅は突っ込まなかった。
騎馬の列を止め、丘の陰へ回す。
姿を消した部隊を追って、敵の見張りが動く。
その間に、別の方向で土煙が上がった。
「そっちは荷車だ」
迅が呟いた。
荷を軽くした輸送隊が、決められた道を走っている。
前線へ向かう大部隊に見えるほどではない。
ただ、無視していい動きなのか、一度確認しなければならない。
その一手間を作った。
敵の守備が、わずかに広がる。
迅が手を上げた。
「今度は本物だ。行くぞ!」
待機していた騎馬が動いた。
正面の守備へぶつからず、その背後へ続く細い道へ入る。
道を知っている案内役が先頭を走った。
暁の輪が作った速さに、地元の知識が加わる。
敵が進路を変える前に、一隊が中継地の裏へ抜けた。
ただし、そこから先へは行かなかった。
「止まれ!」
迅が叫ぶ。
後ろの部隊が、ぎりぎりで止まる。
「今日は俺たちが、先に待ってやる番だ!」
数刻後、天央会の歩兵が到着した。
速さで開けた場所を、厚い列が引き継いだ。
*
東の中継地が危ない。
その知らせで、天統の部隊が動いた。
全部ではない。
中央の守備は残された。
敵も、こちらの次を考えていた。
そこへ黒鉄が来た。
前回と同じように、強力な武将が並ぶ。
天統の守備は、今度こそ一か所へ寄りすぎなかった。
武将の突入を受け止める部隊。
その横から攻撃する部隊。
後続を切り離すための騎馬。
黒鉄の得意な形へ、対策を用意していた。
鉄心は、それを見て笑わなかった。
「俺たちだけで来ると思ったか」
背後から、矢が飛んだ。
遠矢衆。
南の守備が落ち着いたことで、弓兵の一部を中央へ回せるようになっていた。
敵の横撃部隊が、矢を避けて動く。
そこへ、長槍会の槍が進んだ。
黒鉄が突っ込むための場所を、三つの部隊で作る。
「中央、二列目まで!」
鉄心の命令で、武将が前へ出た。
突破役が敵の先頭を崩す。
その後ろを、歩兵が埋める。
敵の騎馬が横から回ろうとしたところへ、奔馬会が現れた。
互いに相手の全部を理解しているわけではない。
今日初めて並んだ武将もいる。
だから、凝った連携はしなかった。
槍が止める。
弓が動かす。
黒鉄が開ける。
騎馬が、横から来る敵を受け持つ。
役割を絞った連撃が、守備隊を少しずつ押し下げた。
*
敵も、反撃した。
中央へ集まった部隊の帰り道に、別働隊が現れた。
補給を運んでいた荷車が止まる。
護衛だけで受け止めるには、数が多かった。
連絡が飛んだ。
前進を続けるか。
引き返すか。
その判断を迫られる前に、別の旗が立った。
鳴瀬と久我の部隊だった。
「来ると思っていたぞ」
久我が言った。
鳴瀬は敵の兵数を見て、眉を寄せた。
「思っていたより多い」
「そこまで当てられたら、苦労せん」
道の脇へ伏せていた槍兵が立つ。
荷車は後ろへ下がった。
迎え撃つ部隊は、追わない。
道を守る。
今は、それだけでいい。
敵の別働隊は、前線を背後から揺さぶるはずだった。
そこで戦闘を強いられた。
旧第一、第二世界で、互いに嫌になるほど同じ手を使い合った二人が、敵の得意な揺さぶりを受け止めた。
「中央には?」
久我が聞く。
鳴瀬は書簡へ短く記した。
『道は通る。続けろ』
*
俺たちが動いたのは、中央の守備が下がり始めた後だった。
岳が先に確かめていた土地へ、部隊を出す。
配下の間に取った場所だ。
敵の道へ、横から近づける。
以前なら、そこまで行くだけで何度も戦わなければならなかった。
今は、その手前まで自分たちの足場があった。
「前、少ない」
玄が言った。
少なく見せているだけかもしれない。
俺もそう思った。
沈烈が、部隊を止める。
小さな先行隊を出した。
敵の反応を見る。
側面の林へ、岳が見張りを回す。
葉からの報告とも合わせる。
少なかった。
本当に、兵を抜かれていた。
北西へ何度も押し寄せた部隊が、今は東と中央を守るために動いている。
俺は地図を畳んだ。
「行こう」
*
宗吾の指揮が重なった。
玄の部隊が、正面を押す。
俺は沈烈を、その後ろにつけた。
敵の先頭を倒すことより、味方の列が崩れないことを優先する。
トレードで揃えた武将の技能が、ここで効いた。
盾兵が受け止める。
以前なら一度の衝突で乱れていた列が、まだ残っている。
その横から、槍が入る。
敵将が前へ出た。
カイが顔を上げる。
「今度は、出番か?」
「一人で行くなよ」
「分かってる」
レンが隣へ並んだ。
「言われるのは、だいたいお前だな」
「お前も含まれてるんだけど」
二人が走った。
敵将の一撃を、正面から受けない。
カイが引きつけ、レンが脇へ入る。
敵が体を向けたところで、味方の盾兵が前へ出た。
澪は後方で弓を構え、二人と、その周囲を見ていた。
「右、空くよ」
放たれた矢が、敵の支援役を怯ませる。
ほんの短い間だった。
そこへ、レンが踏み込んだ。
敵将が下がる。
カイは追いかけなかった。
横へ回り、味方の槍兵が進む場所を空ける。
俺たちは、敵の部隊を少しずつ道から押し出した。
*
中継地の手前で、敵の援軍が見えた。
玄が武器を上げる。
俺も、次の指示を出そうとした。
その時、横から声が飛んだ。
「そこまで!」
律だった。
一瞬、聞き間違いかと思った。
白嶺の部隊と一緒に、道を登ってくる。
鎧を着ていた。
髪をまとめ、こちらをまっすぐ見ていた。
「右へ寄って。後続を通して」
俺は、思わず一歩前へ出た。
「律、なんで」
「後で」
短かった。
すぐ後ろから、新しい兵が進んでくる。
朔が揃えた部隊の一部だった。
装備が合っている。
兵種が揃っている。
疲れた武将を無理に混ぜていない。
あれだけ欲しかった、まとまった戦力だった。
「こちらで受けます」
指揮役が告げた。
律が俺を見る。
「道、ありがとう。ここから使わせて」
俺は頷き、部隊を横へ動かした。
新しい盾の列が、俺たちの前を通った。
*
交代は、綺麗にはいかなかった。
敵も、その瞬間を狙ってきた。
帰る部隊と前へ出る部隊の間へ、騎馬が突っ込む。
俺たちは何度も、それで削られていた。
今度は、横から味方の騎馬が現れた。
晴の蒼波だった。
離れた場所へ出していた部隊を戻し、自分のいる位置から、交代の隙間へ送り出す。
衝突が起きる。
敵の先頭が止まる。
その間に、新しい盾兵が列を作った。
「間に合った!」
晴が、遠くで手を上げた。
俺は手を上げ返した。
番犬が落ちた時、間に合わなかったものが。
今日は、間に合った。
*
第三中継地が落ちたのは、日が傾き始めた頃だった。
最後まで残った守備隊は、簡単には退かなかった。
槍兵を前へ出し、後ろから弓を射ち続けた。
こちらも兵を失った。
攻めた側が無傷で済む戦いではなかった。
それでも、補充は来た。
矢が運ばれた。
負傷した武将が下がった場所へ、次の武将が入った。
真砂が用意した帰還後の分まで、順番に動いている。
敵は、逆だった。
東からの道が使えない。
中央の道も押さえられている。
残った兵だけで支える時間が、長くなっていた。
やがて、守備の列が下がった。
沈烈が、深追いを止めた。
旗が立つ。
北西へ兵を送り続けていた三つの中継地が、その日、すべて桃園大連盟の手に渡った。
*
勝った、という報告の後にも仕事はあった。
周辺を確かめる。
残った敵の部隊を見失わない。
占領した場所へ、誰が兵を置くか決める。
大城から出た敵が、別の道へ向かっているという知らせも来た。
戦争は終わっていない。
ただ、その知らせを受けた南風からは、こう返ってきた。
『木陰ほか、守備の三同盟と対応します。前線の部隊は継続可能』
俺は、その一文を律へ見せた。
彼女は読み終え、深く息を吐いた。
「よかった」
小さな声だった。
それまでずっと、指示を出す声で話していた。
そこで初めて、肩の力が抜けたように見えた。
*
城へ戻ると、遅い食事が用意されていた。
律は、俺の隣へ座った。
久しぶりだった。
話したいことは、いくらでもある。
けれど、先に二人とも椀を持った。
向かいで玄が、何か言いたそうな顔をしている。
杏が、その袖を引いた。
岳は何も見ていないふりで、地図を巻いていた。
「……来るなら、教えてくれればよかったのに」
俺が言うと、律は汁を飲んでから答えた。
「書いたよ」
「え?」
「最後の書簡。白嶺の交代部隊に同行するって」
読んだ。
確かに読んだ。
部隊が来ることばかり考えて、頭の中で人の姿になっていなかった。
律が、少し笑った。
「疲れてるね」
「うん」
「私も」
その言い方が、いつもの律だった。
俺は椀を置いた。
「準備、ありがとう」
「こちらこそ。道、残してくれてありがとう」
言葉が止まった。
どちらも、簡単ではなかった。
全部を説明しなくても、それだけは分かった。
卓の下で、律の手が触れた。
俺は、その手を握った。
*
食事が終わる頃、杏が新しい書簡を持ってきた。
差出人は、直哉だった。
統合後、最初に守り切れなかった城の主。
配下にされた後も、危険を避けながら敵の動きを知らせてくれていた人だった。
『城の前を通る兵が、減りました』
続きがあった。
『今日、北へ戻っていく荷車を見ました。初めてです』
俺は地図を開いた。
直哉の城は、まだ敵の支配の中にある。
その周りにも、返事を待っている人がいる。
岳が指を置いた。
「ここからなら、道を繋げられる」
玄が身を乗り出す。
「次だな」
律は、すぐに頷かなかった。
残っている兵を確認し、他の同盟の予定を見る。
それから、言った。
「相談しよう。今度は、取り戻すために」
俺は直哉へ返事を書いた。
まだ、いつとは言えない。
助けると約束して、明日の危険を見落としたくはなかった。
だから、分かっていることを書いた。
『三つの中継地を押さえました。そちらへ通じる道を、今、皆で確認しています』
筆を止めて、もう一文。
『知らせてくれた道が、役に立ちました』
書簡を閉じる。
地図の周りには、まだ人がいた。
今夜、俺たちが決めるのは、次にどこまで退くかではなかった。




