さんにん
第百六十二話 送り出された者たち
*
――朔
送れる物は、ある。
それが、一番きつい。
何もなければ、ないと言える。
兵がいなければ、作っているところだと返せる。
けれど、目の前の倉庫には物資がある。
修繕を終えた武器が並び、兵舎では次の兵が揃い始めている。
今すぐ動かせば、北西へ届く物もある。
玄が欲しがるだろう槍も。
岳が道を守るために欲しい盾も。
あいつが、喉から手が出るほど欲しいはずの兵も。
それを、俺は送らずにいる。
*
「この分だけでも、回しましょうか」
翠河同盟の担当者に言われた時、危うく頷きかけた。
番犬が落ちたという報告を読んだ直後だった。
晴が、同盟を作った。
あいつらを味方の配下に入れて、城を守る時間を作った。
押し返した。
その知らせを受けてから、まだ大して経っていない。
もう落ちた。
紙の上では、数行だった。
向こうでは、その数行の間に、眠れない夜が何度あったのだろう。
「……いや」
俺は首を振った。
「予定通り、揃えてください」
「ですが」
「今ある分だけ出したら、次も同じことになります」
口にして、自分の声が嫌になった。
冷静そうだった。
少し事情が分かっている奴が、慌てている人を諭すような声だった。
そんな余裕は、どこにもなかった。
倉庫の端にある槍を一本、今すぐ玄へ持っていきたかった。
*
あいつには、何度も助けられた。
ただ、俺が覚えているのは、大きな戦いばかりじゃない。
計算を間違えた時のことを、よく覚えている。
これだけあれば足りる。
そう言った物資が、足りなかった。
輸送の時間を甘く見た。
途中で必要になる分を、見落とした。
俺が報告すると、あいつはしばらく黙った後で聞いた。
「今、何が足りない?」
怒られた方が、楽だった。
そのつもりで行ったから。
けれど、あいつは俺を叱るより先に、足りない物を並べさせた。
誰に頼むか。
何を後に回すか。
いつまで持たせるか。
一緒に決めた。
終わってから、計算のどこが違ったか聞かれた。
その順番が、ありがたかった。
だから俺も、誰かが失敗した時は、なるべく同じようにしている。
できない日もある。
余裕がないと、先に顔に出る。
まだ、あいつほど自然にはできない。
*
俺は、一度、自分の同盟を作った。
あいつと離れてやってみたかった。
ついていくのが嫌だったわけじゃない。
自分なら、もう少しうまく回せる部分もあると思った。
実際、うまくできたことはある。
無駄な取引を減らした。
兵を作る順番を変えた。
資源が偏った時の融通も、仕組みにできた。
でも、仕組みに入らない相談が来た。
今すぐ必要だという人。
理由を言いたくない人。
得にならなくても、助けたい相手がいるという人。
正しい計算だけでは、決まらなかった。
あいつが何を抱えていたのか、そこで少し分かった。
今度は外へ出てくれと言われた。
俺が必要だから、と。
嬉しかった。
だからこそ、引き受けた仕事を途中で変えたくない。
苦しそうな書簡が来るたびに物資を切り崩したら、俺を送り出した意味がなくなる。
*
帳面には、二つの数字を書いている。
今日、北西へ送れる量。
別の場所から敵へ圧力をかけるために、必要な量。
前者なら、もう出せる。
後者には、まだ足りない。
あと少しが、長い。
弓兵は揃っても、守る歩兵が足りない。
兵が揃っても、戻ってきた後の補充がない。
一度出て終わりの部隊なら、もっと早く作れる。
でも、あいつらが欲しいのは、次の一回を代わりに受けるだけの援軍じゃない。
敵が北西ばかりを見ていられなくなる戦力だ。
戻って、補充して、また出られる部隊だ。
「朔さん」
担当者が呼んだ。
「予定していた資材、最後の便が着きました」
俺は帳面を閉じた。
やっと一つ、足りない物が減った。
北西へ書簡を書く。
『予定は遅れていない。揃えている』
そこまで書いて、手が止まった。
遅れていない。
それは、俺たちが決めた予定に対してだ。
向こうの城が落ちる速さには、間に合っていない。
紙を取り替えた。
『まだ出せない。ただ、出せる日を曖昧にはしない。次の報告で、日を決める』
今の俺に言えるのは、それだった。
*
――葉
北西の報告は、詳しい。
誰が出たか。
どの道を通ったか。
何を失って、どこまで戻れたか。
杏が人を確かめ、岳が場所を確かめている。
玄の報告は短いけれど、実際にぶつかった相手の強さが分かる。
そこへ彼の判断が加わる。
長く一緒にいたから、書かれていないところも想像できる。
それが、今は少し危ない。
*
「北西へ回った部隊では?」
天央会の会議で、私はそう言いかけた。
東の道から、敵の兵が減ったという報告だった。
北西は苦戦している。
番犬も落ちた。
なら、そちらへ増援が向かったのではないか。
筋は通る。
でも、確認は取れていなかった。
「まだ分かりません」
言い直した。
「途中の城へ、確認をお願いします」
翌日、その兵は南の別の同盟を攻めていたと分かった。
私が最初の推測を言い切っていたら、そこの救援が遅れたかもしれない。
机の端に、短い注意書きを置いた。
北西を中心に決めつけない。
書いた文字が、少し痛かった。
*
彼は、私を冷静だと思っている。
他の人にも、そう言われる。
たぶん、黙っている時間が長いからだ。
驚いた時も。
腹が立った時も。
何を言えばいいか分からない時も。
私は、先に口が止まる。
中で何も起きていないわけではない。
番犬が落ちたと知った時、最初に思ったのは、なぜもっと早く知らせてくれなかったのか、だった。
知らせは来ていた。
危ないことも、次の防衛線も、送られていた。
私は読んでいた。
知っていた。
それでも、落ちたという結果が届くまで、どこかで、また何とかすると思っていた。
あの人たちなら。
彼なら。
その期待が一番、身勝手だった。
*
一覧の中には、返事のない城がある。
周辺の盟主からは、代行に変わったのではないかと疑われている。
けれど、返事がないことだけでは決められない。
負けるのが怖くて、書簡を開けない人もいる。
知らない同盟へ情報を渡したくない人もいる。
何を言っても出兵を求められると思って、黙っている人もいる。
私は、質問を変えてもらった。
兵を出せるか、ではなく。
隣の道を誰が使っているか。
城の前で、最近何か変わったか。
それでも返事がなければ、知り合いを探す。
律に聞くと、意外なところから名前が出る。
『その人、魚を干すのが上手な人と仲がよかったはず』
戦争の資料に、魚の話を書く日が来るとは思わなかった。
その相手を経由すると、返事が来た。
城主は、まだそこにいた。
怖くて、誰にも答えられなかっただけだった。
彼の報告で、敵の輸送隊が夜に通る道が一つ分かった。
ただ、私が最初に名簿へ書いたのは、その情報ではない。
本人確認。返答あり。
その一行だった。
*
私が、ここで間違えれば。
知らない人だけではない。
玄が、その道へ出るかもしれない。
岳が、退路に選ぶかもしれない。
杏が、安全だと誰かに伝えるかもしれない。
怖い。
だから、全部を確認してから出したくなる。
けれど、それでは遅い。
確認できたこと。
まだ分からないこと。
私がそうだと思っているだけのこと。
分けて送る。
完璧になるまで持っていた情報が、誰かを助けるとは限らない。
彼にも、何度かそう言われた。
「分からないって書いてくれればいい。分からないまま、こっちも考えられるから」
その言葉に、ずいぶん助けられた。
今は、それを他の人にも伝えている。
*
北西へ来ている敵の兵が、どこから補充されているか。
少しずつ、線が繋がり始めた。
一つの城から、全部出ているわけではない。
いくつもの土地で作られ、道を分けて運ばれている。
そのうち二本は、途中で同じ場所を通る。
北西からは遠い。
天央会と、その隣の同盟からなら届く。
地図の上へ指を置いた。
ここを押さえれば勝てる、とは言えない。
だが、敵は対応しなければならなくなる。
別の場所から兵を出すか。
輸送を遅らせるか。
北西へ送るはずだった部隊を戻すか。
どれになっても、今のままではなくなる。
律へ書簡を書いた。
確認の取れた道と、まだ取れていない道を分けた。
必要な追加調査も添えた。
最後に、一文だけ足した。
『こちらから、動かせるものがありそうです』
書き終えてから、久しぶりに窓を開けた。
外は明るかった。
北西でも、同じように朝になっているはずだった。
*
――真砂
私は、善人ではない。
こういう時に自分で言うと、かえって格好をつけているようで困るのだけれど。
困っている人を見て、利益になるか考えたことがある。
人が楽しんでいる場所へ、次に何を売れるか考えたこともある。
彼の評判を使えば、取引を広げられると思った。
実際、やった。
講座を開き、人を集め、物資を動かした。
一つひとつは、喜ばれる仕事だった。
その積み重ねで、こちらを通さなければ不便になる仕組みを作ろうとした。
彼には、それが見えた。
見えた上で、私を同盟へ入れた。
副盟主にまでした。
最初は、ずいぶん大胆なことをすると思った。
*
「巌さんをつけます」
そう言われた時には、笑いそうになった。
監視役。
相談役。
私が何かを急ぎすぎた時、止める役。
分かりやすい。
ただし、本当に縛るつもりなら、もっと細かく決めるはずだった。
彼は、私の提案を止めなかった。
必要な条件を聞いた。
困る人が出るなら、その扱いを考えさせた。
それでも、できるところまでやれと言った。
仕事が広がった。
責任も広がった。
気づけば、私の方が、彼に説明せず進めることを嫌がるようになっていた。
手綱を握られた。
周りはそう言って安心していた。
少し違う。
使ってもいい力と、任された相手が、目の前に増えてしまったのだ。
雑には扱えなくなった。
*
番犬が落ちる前、私はすでに、準備を進める後方の拠点へ移っていた。
取引を受け持つ同盟の人たちと、現物を確かめる必要があったからだ。
だから、城が落ちたことは書簡で知った。
所属の表示も変わった。
同時に、今まで使えていた手続きの一部が使えなくなった。
味方だった相手への物資移動を、別の形で組み直さなければならない。
自由にできるふりをしたところで、物は動かない。
私は帳面を開き直した。
私が決められること。
相手の同盟に、改めて決めてもらうこと。
もうできないこと。
分けていると、巌さんが向かいに座った。
「寝たか」
「今、聞きます?」
「今だから聞いとる」
返事をしなかったら、食べ物を置かれた。
見張り役というのは、本当に面倒だ。
*
「今なら、抜ける話もできるぞ」
巌さんが言った。
顔を上げると、冗談ではなかった。
「向こうから、声は来とるだろう」
「ええ」
来ていた。
私個人を受け入れる。
取引も保護する。
今までの蓄えも、なるべく不利益のないようにする。
悪い話ではなかった。
少なくとも、目先の安全だけなら。
「どうする」
「条件を読んでいます」
「そうか」
「断るにしても、相手が何を欲しがっているかは知っておきたいので」
巌さんが笑った。
「お前らしいな」
相手は、私だけを欲しがっているわけではなかった。
私が連絡できる人。
物資が集まる場所。
誰がどれだけ足りていないかという情報。
それも含めて、値をつけていた。
以前の私なら、面白がったかもしれない。
今は、先に顔が浮かぶ。
眠らずに荷を確かめる正臣。
細かな不備を黙って拾う千景。
名前だけは妙に楽しそうに決めていた晴。
面倒なことになったものだと思う。
帳面の数字が、人の顔に戻ってしまう。
*
彼の器が大きいのか、今でも測り切れない。
世間が言うほど、堂々としてはいない。
迷う。
落ち込む。
人を送り出してから、寂しそうな顔もする。
それなのに、任せた物を取り上げない。
自分が困ったからといって、すぐに返せとは言わない。
今回も、そうだった。
今ある兵なら送れると伝えた。
晴の城が危なかった。
返事が来るまで、いつもより長かった。
私はその間、送る準備もさせていた。
命じられたら、そうするしかないと思っていた。
返事には、準備を続けてほしいとあった。
読み終えて、しばらく動けなかった。
私を信じた。
そんな綺麗な言葉だけでは足りない。
彼と晴は、自分たちが失うものを知りながら、こちらへ時間を残した。
その時間を、私は預かっている。
*
朔さんへ、数字を送る。
こちらで揃えられる装備。
先方の合意が取れた物資。
まだ引き渡しの確約ができない分。
葉さんから届いた道の情報を、輸送の担当者へ回す。
律さんには、兵を動かせる日と、動かした後に補充できる量を送る。
全員、欲しい答えが違う。
でも、同じ一回の出兵を作っている。
その形が、ようやく見え始めていた。
「真砂」
巌さんが呼んだ。
「先方が承知した。帰還後の補充も、引き受けるそうだ」
私は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
「では、朔さんへ」
「もう伝令を出した」
「助かります」
帳面に、一本線を引いた。
未確定だった欄が、一つ埋まった。
まだ全部ではない。
それでも、ようやく、彼へ返せる物ができつつあった。
利益だけでは計算しにくい。
貸した物を、そのまま返すのとも違う。
彼が私にくれた仕事も、居場所も、そんな取引だったのだと思う。
*
その夜、短い書簡を書いた。
励ましは、律さんが書くだろう。
情勢は葉さんが伝える。
兵の準備は朔さんから届く。
私からは、事実だけでいい。
『揃い始めました。今度は、戻った後の分もあります』
書き終えて、もう一行足した。
『預かった時間は、無駄にしていません』
巌さんへ渡すと、彼は一読して頷いた。
「届くといいな」
「届けてください」
「おう」
外では、荷車が動き始めていた。
北西へ直接向かう荷ではない。
別の場所で兵を揃え、別の道から敵を動かすための荷だった。
私は次の帳面を開いた。
まだ、こちらの仕事は終わっていなかった。




