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大同盟を作る男と大連盟を作る女

第百六十一話 あの人の奥さん


 律が白嶺同盟へ着いて最初に受け取ったのは、兵数の一覧ではなかった。


 小さな包みと、短い書簡だった。


『茶葉、こちらでも手に入りました。旦那さんと飲む分も入れてあります』


 差出人は、美緒。


 王城の交流会で知り合った、白嶺同盟の女性だった。


 もともとは、律の袖口についていた染みがきっかけだった。


 煮汁をこぼした。


 落とし方を教えてもらった。


 そこから、料理の話になり、夫婦の話になった。


 別れ際に交わしたのは、同盟同士の約束ではない。


 今度、うまくできたら教えて。


 そんな程度の言葉だった。


 律は包みを開け、少し笑った。


 中には、茶葉と一緒に、菓子が二つ入っていた。


 片方が、明らかに大きかった。


『大きい方は、よく食べると聞いた旦那さんへ』


「……今、いないんだけどな」


 声に出すと、部屋が静かなことに気づいた。


 律は菓子を包み直した。


 机の端へ置き、返事を書くために筆を取った。


     *


「律さん、こちらも届いています」


 翌朝、白嶺の連絡役が持ってきた書簡は、両手に余った。


 律は差出人を見て、順番を分けた。


 蒼海の瀬名。


 南風連盟で宴の配膳をまとめていた茜。


 天央会の記録係。


 以前、装備の交換を仲介した小同盟の盟主。


 合併の条件で揉めた時、一緒に夜まで話し合った副盟主。


 そして、料理や釣りや、結婚相手の愚痴を書いてくる人たち。


 隣で見ていた美緒が、目を丸くした。


「ずいぶん、お知り合いが多いんですね」


「昔、外交をやっていたので」


「北西連盟の盟主さんの紹介ですか?」


「ううん。あの人が知らない人も、結構います」


 律は少し考えた。


「たぶん、連絡を続けている相手は、私の方が多いです」


 美緒が笑った。


「意外です」


「あの人、用事があると、ちゃんと書くんですよ」


「普段は?」


「忙しいと、それで終わっちゃう」


 悪口ではなかった。


 必要な返事を後回しにしない。


 困っている人から連絡が来れば、放っておけない。


 その代わり、何も困っていない相手へ、今日はこんなことがあったと書く時間は、あまり残らなかった。


 律は、そういう書簡を書いていた。


 釣れた魚が小さかったこと。


 夫が食事を忘れて怒られたこと。


 正臣が本人だけ気づかずに好かれていたこと。


 返事は、すぐでなくてもよかった。


 ひと月ぶりに届いても、続きから話せた。


「仲良くしておくと、後で役に立つからですか?」


 美緒が尋ねた。


 律は首を振った。


「それも、外交なら大事だと思います。でも、ずっとそれだけで手紙を書いていたら、疲れます」


 書簡の一枚を開く。


 最初の数行は、新しい土地で育て始めた野菜の話だった。


「普通に、続きを知りたかったんです」


     *


 その日の午後、白嶺同盟の会議で、律は提案を出した。


「北西へ、今すぐ全部の兵を送ってほしいわけではありません」


 卓の向こうで、盟主が目を上げた。


「では、何を?」


「一度に相談できる場所を作りたいんです。兵を出せる人だけでなく、まだ出せない人も入れる場所を」


「共同戦線の会議なら、すでにいくつかある」


「はい。ただ、参加していない同盟が多いです」


 大きな同盟同士では、話が進んでいる。


 けれど、小さな同盟ほど、そこへ入ることにためらいがあった。


 入ったら、出兵を求められるのではないか。


 兵数を知られたら、弱いと見られるのではないか。


 何もできないと言えば、責められるのではないか。


「土地を一つ貸せる人。荷車を通せる人。隣の城へ確認に行ける人。それぞれの話を、出兵できるかどうかだけで終わらせたくありません」


 副盟主が腕を組んだ。


「連絡だけでも、相当な数になるぞ」


「窓口を分けます。全部を私が受ける形にはしません」


 律は、用意してきた紙を広げた。


 兵の準備は朔へ。


 敵の動きと各地の確認は葉へ。


 移動と受け入れについては、それぞれの地域の担当者へ。


 その上で、出兵の時期を相談する。


「北西連盟の指示に従え、という集まりではありません」


 律は一人ずつ顔を見た。


「自分たちで決めて動くために、隣で何が起きているか分かるようにしたいんです」


     *


 返事は、兵を出すというものばかりではなかった。


『こちらも攻撃されています。援軍は無理です』


 律は、その返事を葉へ回した。


 援軍が出ない同盟としてではなく、すでに敵を引き受けている場所として。


『戦争には参加できませんが、負傷した武将を休ませる場所はあります』


 その城へ通じる道を、受け入れ担当が確認した。


『夜なら連絡をまとめられます。昼は物資を作っています』


 杏へ連絡し、時間を分けた。


 茜からは、こんな書簡が届いた。


『こちらの盟主、北西のために兵を減らせるかって渋っています。話はしますけど、期待しすぎないでね』


 律は返事を書いた。


『渋る理由も聞かせてください。こちらで埋められる不安があるかもしれません』


 その後ろへ、少し迷ってから付け足した。


『この前教わった汁物、あの人が気に入っていました』


 翌日、茜から長い返事が来た。


 盟主が恐れているのは、出兵そのものではなかった。


 主力を出した後、隣接する別の同盟に土地を奪われることだった。


 律は、その相手の名前を知っていた。


 結婚の祝いに、保存食を送ってくれた人だった。


 すぐに話がついたわけではない。


 それでも、何を約束すれば兵を動かせるのか、初めて具体的な相談になった。


     *


 瀬名とのやり取りは、夜まで続いた。


『あなたのところへ連絡すると、普段は出てこない名前がずいぶん出ますね』


 その一文に、律は笑った。


『そちらにも、いるでしょう』


『います。ただ、盟主同士の席には出ない方が多い』


『そういう人に、ずっと助けてもらってきました』


 返事を書いている途中で、北西から知らせが届いた。


 同盟を二つに分けたこと。


 晴が北西の番犬を立ち上げたこと。


 北西連盟が、その配下になったこと。


 そして、保護期間を利用して、敵を一度押し返したこと。


 律は最後まで読み、最初へ戻った。


 夫の城が、落ちている。


 味方の手で。


 自分たちで決めたことだと分かっていても、胸が冷たくなった。


 その知らせの末尾には、短い一文があった。


『こちらは動けている。準備を頼む』


「……頼み方が、雑」


 律は呟いた。


 もっと書くことがあるでしょう、と言いたかった。


 ご飯は食べたのか。


 眠れたのか。


 城を壊されるところを、自分で見たのか。


 けれど、今それを全部書けば、あの人は全部に答えようとする。


 律は別の紙を取り、一枚だけ返事を書いた。


『準備しています。私は食べています。あなたも食べてください』


 それから、瀬名への返事を続けた。


     *


『少し、個人的なことを聞いても?』


 瀬名からそう前置きされた時、律は嫌な予感がした。


『何でしょう』


『北西の盟主は、あなたを送り出せるのですね』


 しばらく、返事が書けなかった。


 最後の夜を思い出した。


 抱きしめる腕が、少しだけ強かったこと。


 それでも、行くなとは言わなかったこと。


 律は、ゆっくり筆を動かした。


『寂しがっては、いました』


 返事はすぐに来た。


『でしょうね』


 その短さが、少し腹立たしかった。


 けれど、次の文を読んで、息が止まった。


『大事な奥さんを、安全なところへ置いておくだけにしなかった。あなたが働くことで、自分が助かると信じているのでしょう』


 律は書簡を伏せた。


 部屋には、自分しかいなかった。


 だから、頬が熱くなったことを、誰かに隠す必要はなかった。


 必要だと言われた時、嬉しかった。


 妻だからではなく、自分の判断を頼られたことが。


 そして、出発する夜には、ただの妻として抱きしめられたことが。


 両方あった。


 それが、思っていた以上に嬉しかった。


 少し時間を置いてから、律は返事を書いた。


『そうだといいですね』


 書いて、消した。


『はい。だから、ちゃんと助けます』


     *


 こちらでは、保護期間が終わろうとしていた。


 取り返した道から物資は入った。


 兵も、少しは戻った。


 けれど、天統連盟は俺たちの城へ同じ攻撃を繰り返さなかった。


 目標を、晴の城へ変えた。


 北西の番犬が親同盟だと分かった以上、そこを落とせばいい。


 俺たちの城にかかった保護は、晴の城まで守らない。


「分かってはいたんだけどね」


 晴はそう言った。


 明るくしようとした声だった。


 その後ろでは、千景が帰還した部隊を次々と数え直していた。


 新しい同盟は、できたばかりだった。


 物資の置き場所も、部隊の組み合わせも、途中だった。


 移った人たちの中には、ようやく次の兵の準備を始めた者もいる。


 そこへ、敵の主力が来た。


 俺たちは援軍を出した。


 今度は、こちらが番犬を守る番だった。


 玄が道を押さえ、岳が兵を通した。


 宗吾の指揮が届く味方と、晴の側で動く部隊を分け、互いの動きを合わせる。


 それでも、間に合わなかった。


 揃うはずの槍兵が、まだ足りない。


 正臣が運んでいる矢が、敵に道を切られて迂回している。


 真砂が手配した装備は、届いた分から配られた。


 配られた先の武将が、休む前に出ていった。


     *


「今ある分だけなら、送れます」


 真砂からの書簡を、俺は晴の城で読んだ。


 まだ、まとまった戦力にはなっていない。


 だが、もう少しなら守れる。


 そう思わせるだけの数はあった。


 俺は返事を書けなかった。


 晴が横から覗き込む。


「それ出したら、次は?」


「また、一からになる」


「じゃあ、駄目だ」


 即答だった。


「晴」


「俺が、お前に頼んだことと一緒だろ」


 晴は書簡を俺へ返した。


「今の俺の城だけ助けるために、全部使ったら駄目だよ」


 言い返せなかった。


 北西連盟で同じことを言った。


 外へ出した三人にも、真砂にも、準備を頼んだ。


 それなのに、晴の城が落ちると分かった途端、その約束を破りたくなっていた。


「腹立つな」


 俺が言うと、晴は少し笑った。


「うん。かなり」


 笑った後で、城門の方を見た。


「でも、俺たちも、ここで終わるわけじゃないんでしょ」


     *


 最後まで残せる物を選ぶ時間は、なかった。


 千景が撤収の順番を読み上げた。


 正臣が荷車を出す。


 出発した車を数え、戻ってこない車を待たず、次を出した。


 大きな箱を一つ、荷台から下ろした。


 予備の装飾品だった。


 その場所へ、矢束を積んだ。


「正臣、もう出て!」


 千景が叫んだ。


「最後の車輪だけ!」


 軸に噛んだ木片を抜き、正臣が立ち上がる。


 その背後で、城壁が揺れた。


 俺の横を巨嶽が通った。


 鎧が傷ついていた。


 岩成の盾兵が門前を支え、蒼波が外へ出ていた騎馬を引き戻す。


 晴は一つずつ指示を出していた。


 普段より、声が短かった。


「右を閉じて」


「追わない」


「戻って。もう戻っていい」


 敵を倒す指示より、帰らせる指示の方が増えていた。


 岳から知らせが来た。


 残していた道は、まだ通れる。


 ただし、長くは持たない。


「晴」


 呼ぶと、彼は頷いた。


「分かってる」


 それでも、一度だけ振り返った。


 新しい同盟の旗が、城壁の上にあった。


 掲げてから、まだ数日しか経っていなかった。


     *


 城から離れた場所で、通知を受け取った。


『北西の番犬同盟は、天統連盟の配下となりました』


 続いて、俺たちの所属関係も書き換わる。


 味方を親同盟に据えて、敵の支配を避ける。


 その形は、そこで崩れた。


 前に得た保護が、新しく丸ごと始まることもなかった。


 葉が確認してくれた通りだった。


 俺は通知を消した。


 晴が、隣で俯いていた。


「ごめん」


「謝るな」


「番犬、あんまり長く守れなかった」


 すぐには言葉が出なかった。


 守れたと言えば、慰めに聞こえる気がした。


 でも、事実だった。


「お前がいなかったら、あの時点で終わってた」


 俺は、道を進む荷車を見た。


「あれも、これも、外へ出せなかった」


 正臣が、前の車へ走っている。


 千景が人数を数えている。


 真砂からは、準備を継続するという連絡が届いていた。


「まだ動いてる」


 晴が顔を上げた。


「だから、謝るのは後にしてくれ。俺も一緒に謝らなきゃいけなくなる」


 晴は困ったように笑った。


 その顔を見て、ようやく俺も息を吐けた。


     *


 北西の番犬が落ちた知らせを受けた時、律は会議の途中だった。


 卓の上には、十の有力同盟だけではない、多くの名が並んでいた。


 まだ出兵できない同盟。


 道だけを貸す同盟。


 物資を引き受ける同盟。


 そして、戦う準備を始めた同盟。


 美緒が声を落とした。


「今日は、ここまでにしますか」


 律は書簡を読み終えた。


 晴は無事。


 千景も正臣も無事。


 夫も、まだ連絡が取れる。


 その三行を、もう一度確かめた。


「続けます」


 声が少し震えた。


 水を飲んだ。


 今度は、はっきりと言った。


「予定を変える必要があるか、確認させてください」


 卓の向こうで、一人の盟主が尋ねた。


「北西への救援を、早めるのですか」


「できるところは。でも、準備のできていない兵を、同じ道へ順番に送るつもりはありません」


 律は地図に手を置いた。


「北西へ来ている兵を、よそでも動かさなければならないようにしたいんです。皆さんの場所から、何ができるかを聞かせてください」


「旦那さんが心配でしょう」


 責める声ではなかった。


 だから、律も隠さなかった。


「心配です。今すぐ、戻りたいです」


 部屋が静かになった。


「でも、準備してくれると信じて、送り出してくれました」


 律は顔を上げた。


「私一人が戻るより、できることを増やして戻りたい」


 最初に紙を引き寄せたのは、ずっと出兵を渋っていた盟主だった。


「こちらから届く場所を、説明しましょう」


 次に、別の一人が身を乗り出した。


 その道なら、隣の同盟へ話せる。


 そこを攻めるなら、こちらへの圧力が減る。


 兵は出せないが、帰還先なら用意できる。


 声が重なった。


 律は一つずつ、名前を書き留めた。


 まだ、大軍は動かなかった。


 けれど、別々の場所で悩んでいた人たちが、同じ地図を見始めていた。


     *


 後に、この集まりは大連合と呼ばれることになる。


 世界を管理し、人の意識を選り分けていた運営に対して、人々が自分の意思で協力した、その始まりの一つとして。


 その中心にいた律を、立派な言葉で評する者もいた。


 外交に長けた指導者。


 諸同盟を結んだ調整役。


 けれど、昔から書簡を交わしていた者たちは、もう少し違う言い方をした。


 結婚するために大同盟を作った男がいた。


 その旦那を守るために、大連合を作った女がいた、と。


 その時の律は、そんな評価をまだ知らない。


 会議を終え、一人になった部屋で、冷めた茶を飲んでいた。


 机の端には、大きな菓子が一つ残っていた。


 律はそれを包み直し、夫への書簡を書いた。


『まだ、食べずに残している物があります』


 少し考えて、次の行を足した。


『早く一緒に食べたいので、そちらも諦めないでください』


 返事を待つ間にも、別の書簡が届いた。


 律は目元を拭き、その封を開けた。

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