ばんっけん! 卍
第百五十九話 三人を、外へ
律の名前を書いて、手が止まった。
紙の上には、まだ三つしか名前がない。
律。
朔。
葉。
その下に、行き先も、役割も書こうとした。
書けなかった。
「そこまで決まってるなら、呼びなよ」
背後から声がした。
振り返ると、杏が入口に立っていた。
「見えた?」
「見えるところで悩んでるから」
彼女は机の向こうへ回り、紙を覗き込んだ。
いつものように何か茶化されるかと思った。
けれど、杏は三人の名前を読んだ後、俺の顔を見ただけだった。
「七人で話す?」
「……うん」
「分かった。集める」
すぐに踵を返した。
「杏」
「何?」
「反対しないのか」
「まだ理由を聞いてないもの」
そう言ってから、少しだけ声を落とした。
「でも、一人で送り出したことにしないでね。それは、嫌だから」
*
玄は、携帯食をかじりながら入ってきた。
岳は地図を持っていた。
朔は帳面を二冊。葉は書簡の束。
律は最後に来て、俺の隣の椅子を引いた。
「長い話?」
「たぶん」
「なら、先にこれ」
卓に、小さな包みが置かれた。
中には握り飯が二つ入っていた。
「周さんから。昼、食べてないって」
俺は包みを見つめた。
これから言おうとしていることと、目の前に置かれた物の温度が、ひどく噛み合わなかった。
「先に食えよ」
玄が言った。
「大事な話を空腹ですると、俺みたいになるぞ」
「どうなるんだ」
「途中から飯のことしか考えなくなる」
「もうなってるだろ」
朔が言い、少しだけ笑いが起きた。
俺は握り飯を一つ食べた。
塩が、いつもより強く感じた。
*
「律と、朔と、葉に、北西連盟を出てほしい」
誰も、すぐには答えなかった。
玄の手が止まった。
律は俺を見ていた。
その顔が変わる前に、言葉を続けたくなった。
逃げるように説明したくなった。
それを、どうにか堪えた。
「外で、戦い直す準備をしてほしい」
葉が、持っていた書簡を卓に置いた。
「移籍先は」
「まだ決めてない。白嶺と翠河には受け入れの相談をしてる。蒼海にも連絡できる。ただ、三人とも同じ場所に入ってほしいわけじゃない」
「私たちを分けるの?」
律が尋ねた。
「うん」
「理由を聞かせて」
俺は地図を広げた。
ここ数日で失った土地に、小さな印が増えていた。
敵の道は、真っすぐではない。
こちらが守りを厚くすると迂回し、援軍を出せば、その出発元を探る。
守れた場所の隣で、別の土地が取られる。
「今、俺たちは、兵ができるたびに前へ出してる」
朔が頷いた。
「補充してるつもりで、次に減る分を用意してる状態だな」
「それでも出さないと、道が切れる」
「うん」
「このまま全員でここにいたら、全員が同じことを続ける」
準備をする時間がない。
敵を押し返せるだけの兵を揃える前に、できた分から使う。
資源も、装備も、武将の回復も。
すべてが、今日を越えるために消えていく。
「外には、まだ兵をためられる場所がある。俺たちが受け持ってる分、準備する時間ができた同盟もある。でも、それぞれ事情が違う。攻められてる場所も、怖がってる相手も違う」
「そこで、話をまとめる役が要る」
葉が言った。
「それだけじゃない」
俺は三人を順に見た。
「ちゃんと戦えるところまで、持っていける人が要る」
*
「朔には、兵をためてほしい」
「俺が一番、出し渋りそうだから?」
「出す時まで含めて、考えられるから」
朔は笑わなかった。
帳面を閉じ、両手をその上に置いた。
「今までみたいに、余った物を回すだけじゃ足りないと思う。兵種も、装備も、使う場所に合わせて揃えないといけない。途中で資源が足りなくなれば、他から調達する必要もある」
「俺たちに渡すなってこと?」
胸の奥を突かれた。
「……必要なら、そうしてほしい」
「お前が足りないって言っても?」
答えるまでに、少し時間がかかった。
「うん」
朔は、俺の顔を見続けた。
「それ、今ここで言ったこと、忘れるなよ」
「忘れない」
「俺は忘れないからな」
帳面が、もう一度開かれた。
「真砂と話す。北西を出る前に、外で使える取引先と、こっちに残す在庫を分けたい」
それは、引き受けるという返事だった。
ほっとしたのに、同時に怖くなった。
朔が外で備えを持つということは。
困った時、いつも卓の向かいにいた相手が、そこにはいなくなるということだった。
*
「葉には、敵と味方の動きを見てほしい」
「今も見てる」
「今より、広く」
北西の地図ばかりを見ていると、敵のすべてがこちらへ向いている気になる。
けれど、天統連盟が相手にしているのは俺たちだけではない。
第一、第二世界にも、飲み込まれずに残っている同盟がある。
南や中央には、兵を失いながら守っている人がいる。
その動きが、まだ繋がっていない。
「どこで敵の兵が減ったか。どこから増援が出たか。どの道を空けたくないのか。北西の報告だけじゃ、分からない」
葉が頷く。
「ただ、向こうの人たちに、情報を全部出してもらえるとは限らないよ」
「うん」
「同じ敵と戦ってるからって、兵数まで簡単に教えるとは思わない」
「無理に聞かなくていい。見せてくれる範囲からでいい」
「それと、出兵しない城を、勝手に代行と決めつける話も止めたい」
葉の指が、書簡の端を押さえた。
「怖くて動けない人と、準備してる人と、入れ替わってる人を、一緒にしたら駄目だから」
「頼む」
葉は一度だけ、目を伏せた。
「じゃあ、北西の記録は杏にも渡す。岳には、道の変化だけ別に送ってほしい。全部まとめてからだと遅くなる」
「分かった」
岳が答えた。
いつもなら葉に渡せば済んでいた話を、これからは自分たちで整理しなければならない。
机の上から、少しずつ当たり前がなくなっていった。
*
最後に、律を見た。
律は腕を組んでいた。
「私は?」
「兵を動かしてほしい」
「ここでも動かせる」
「ここじゃなくて、外から」
「あなたを助けるために?」
その問いには、すぐ答えられた。
「俺だけじゃない」
律の目が、わずかに細くなった。
「北西を助けるために、他を空にしてほしくない。今ここで起きてることを、別の場所へ移すだけにもしたくない」
「難しいこと言うね」
「うん」
「兵を集めて、他の盟主と話して、それぞれの城も守りながら、こっちの敵まで減らせってことでしょ」
「……そうなる」
「ひどい仕事」
「分かってる」
律は長く息を吐いた。
それから、俺の横ではなく、地図の向こう側へ椅子を動かした。
「だったら、指揮は向こうで話して決める。私が行ったからって、他の同盟の兵を勝手に使えるわけじゃない」
「もちろん」
「北西が危なくなったからって、準備のできてない部隊を走らせろとは言わないで」
「言わない」
「それから」
律の声が、少し低くなった。
「私にだけ、生きてればいい、みたいな仕事を渡してるなら断る」
部屋が静かになった。
逃がしたい気持ちが、なかったわけではない。
城門の外から騎馬が現れるたび。
帰還の報告が遅れるたび。
律の名前を探してしまう自分がいた。
けれど、それだけなら、こんな仕事は頼めなかった。
「律が、必要なんだ」
俺は言った。
「ここにいてくれたら、助かる。すごく助かる。でも、ここにいる俺を助けるだけで終わってほしくない」
律は何も言わなかった。
「朔が揃えて、葉が見つけた機会に、ちゃんと兵を出せる人が要る。怖くても、出すと決められる人が」
「……私なら、できると思う?」
「思う」
それだけは、迷わなかった。
「三人なら、必ず準備してくれると思ってる」
律は俺を見ていた。
やがて、組んでいた腕をほどいた。
「分かった。行く」
*
「じゃあ、こっちは四人か」
玄が言った。
俺と、玄と、杏と、岳。
七人で囲んでいた卓が、急に大きく見えた。
「俺にも聞けよ」
玄がこちらを見る。
「悪い。残ってもらうつもりで話してた」
「残るけどさ」
「なら、いいだろ」
「よくねえよ。格好つけるところがなくなる」
朔が鼻で笑った。
玄は地図の上へ身を乗り出した。
「こっちで受け持つ。ただし、いつまでも受け続けられるとは思うなよ」
「思ってない」
「危なくなったら、城からでも引っ張り出す。盟主だから最後まで残るとか言い始めたら、担ぐからな」
「俺も手を貸す」
岳が淡々と続けた。
「二人で運ぶなら、荷物は持てるな」
「人を荷車みたいに相談するな」
「暴れるなら縄も要る」
杏まで頷いた。
笑いが起きた。
その笑いが収まる前に、葉が尋ねた。
「盟主城が落ちた場合のことも、調べていい?」
誰も笑わなくなった。
俺は頷いた。
「頼む」
「配下になった後、どこまで連絡や援軍のやり取りができるか。外から助けるには何が必要か。今のうちに、実例と仕様を確認する」
負けた後の話だった。
口にするのが怖くて、避けていた話でもあった。
「落とさせないつもりではいるけど」
岳が言った。
「落ちたら終わり、にはしない方がいい」
葉が紙に書き留める。
俺も、その文字を見た。
負けない計画だけでは、もう足りなかった。
*
三人の行き先が決まるまで、二日かかった。
律は白嶺同盟へ。
受け入れた人々の兵を立て直すだけでなく、周囲の同盟と共同で出兵するための調整に加わる。
朔は翠河同盟へ。
水運と複数の生産地を持つ彼らと、兵の生産、装備、物資の融通を整える。
葉は、中央で連絡網を広げようとしている天央会へ。
蒼海の瀬名や、高瀬が繋いでくれた第一世界の盟主たちとも、そこで情報を合わせることになった。
どの同盟も、ただ俺の頼みを聞いたわけではなかった。
自分たちにも必要な役目だから、引き受けてくれた。
佐伯が交わした書簡をまとめ、千景が移籍の手続きを整えた。
真砂と朔は、夜遅くまで帳面を突き合わせていた。
「それは向こうへ持っていきなさい」
「こっちも足りないだろ」
「向こうで買い直す方が高い。こちらは別の装備で揃えます」
「じゃあ、その差額は記録しとく」
「請求書にしないでくださいよ」
「するかどうかは、戦争が終わってから考える」
いつもの商売の話に聞こえた。
だから、その部屋には長くいられなかった。
*
出発前の夜、律が荷物をまとめていた。
鎧と武器は、すでに運び出してある。
今、袋へ入れているのは、着替えや櫛や、そういう物だった。
「それも持ってくのか」
俺が尋ねると、律は手元を見た。
小さな湯飲みだった。
「向こうで使うから」
「もっといいの、あるだろ」
「これでいい」
俺が講座で作った物だった。
底が厚くて、見た目より重い。
律は布に包み、袋の真ん中へ入れた。
「割れるぞ」
「割れないように包んでる」
「そうか」
「うん」
会話が止まった。
明日から別の場所で寝る。
そんなことは、この世界に来てから何度もあった。
遠征もした。
別の同盟にいた時期もある。
なのに、一緒に暮らすようになってからの部屋は、荷物が一つ減るだけで、ひどく広く見えた。
「本当はさ」
律が袋の口を閉じた。
「残るって、言おうと思った」
「うん」
「あなたが苦しい時に、隣にいたかったから」
俺は、何も言えなかった。
律が近づいてくる。
「でも、それで二人とも動けなくなるのは嫌だなって」
「……うん」
「だから、ちゃんと準備する。向こうの人にも、私を受け入れてよかったと思ってもらえるように」
抱き寄せると、律の腕が背中へ回った。
鎧越しではなかった。
その温かさに、行かないでほしいと言いそうになった。
喉まで出た言葉を飲み込む。
律が、背中を一度だけ叩いた。
「帰ってきて、って言って」
俺は目を閉じた。
「帰ってきて」
「うん」
少し間を置いて、律が続けた。
「あなたもね。帰る場所を、一人で勝手になくさないで」
*
朝、三人は同じ道から出発した。
途中までは、護衛も輸送隊も一緒だ。
分かれ道から先は、それぞれの受け入れ先が迎えを出してくれる。
晴が、朔へ包みを渡した。
「食べる物」
「量が多いな」
「三人分」
「俺に持たせるのか」
「一番ちゃんと分けそうだから」
葉が手を出しかけて、引っ込めた。
玄が笑う。
杏は三人と、最後の連絡方法を確かめていた。
定期の報告が遅れても、すぐに落城したと決めつけないこと。
道が切れた場合は、別の相手を経由すること。
無事という一言だけでも、送れる時に送ること。
岳が、先の道を指した。
「昼前に尾根を越えてくれ。そこまでは、こっちで見てる」
「頼む」
律が答えた。
葉は、厚い帳面を俺に渡した。
「こっちに残す分。最初のページだけは、毎朝見て」
開くと、兵数ではなく、交代の担当者の名前が書いてあった。
俺一人が決めなくても回るように。
俺が眠っていても、誰かが判断できるように。
「ありがとう」
「使ってね。持ってるだけじゃ駄目だから」
朔が肩を叩いた。
「兵が揃うまで待て、とは言わない。待てない時は、ちゃんと言え」
「でも、無理はするな」
「それは、こっちが判断する」
そう言ってから、朔は口元を緩めた。
「任せるって、そういうことだろ」
最後に、律が俺の前に立った。
何か言いたかった。
昨夜、あれほど話したのに、まだ足りない気がした。
律の方から、手を握ってきた。
「行ってきます」
俺も握り返した。
「行ってらっしゃい」
手が離れた。
三人が歩き始める。
律が一度だけ振り返った。
俺は手を上げた。
見えなくなるまで、下ろせなかった。
*
160話
城へ戻る途中で、北から出兵の報告が届いた。
天統連盟の部隊が、新しい防衛線へ向かっている。
岳が書簡を読み、玄へ渡した。
「来たな」
「ああ」
杏は、もう連絡先を確かめていた。
俺は一度だけ、三人の去った道を見た。
呼び戻せば、まだ間に合う。
律がいれば、指揮を分けられる。
朔がいれば、足りない物をその場で相談できる。
葉がいれば、報告を読む速度が上がる。
その全部を、分かった上で送り出した。
「どうする」
玄が聞いた。
俺は防衛線の方へ向き直った。
「予定通り、交代で受ける。追わない。荷車の道を優先する」
「了解」
「杏、三人にも敵が動いたことは伝えてくれ」
杏が俺を見た。
俺は続けた。
「こっちは決めた通りにやる。そっちも進んでくれって」
杏が頷いた。
城門の向こうで、兵が並び始めている。
俺は葉の帳面を開き、今日の担当を確かめた。
ここには、四人いる。
外には、三人いる。
三人なら、必ず準備してくれる。
そう信じるために必要なのは、心配しなくなることではなかった。
呼び戻したくなるたび、任せたと自分に言い聞かせることだった。
第百六十話 猫を守る番犬
守る場所を一つ下げるたび、次に守る場所が近くなった。
最初は、北の丘だった。
次は、二本の道が合流する林の手前。
その次は、俺の城から、出陣する兵の列が見える場所だった。
岳が退路を作り、玄が敵を引きつける。
杏が帰還先を振り分け、宗吾が残った兵に合わせて指揮の効果を重ねる。
敵の先頭を止めることはできた。
深追いをさせて、横から叩けたこともある。
それでも、勝った場所へ次の敵が来た。
こちらは、戻った兵を数え直さなければならなかった。
「明日の朝までは持たせられる」
岳が言った。
地図の上に置いた指は、もう動かなかった。
「その後は?」
俺が聞くと、岳は俺を見た。
「敵が今と同じだけ来るなら、難しい」
玄が椅子の背へ頭を預けた。
「俺のところも、次でまとまった兵を出せなくなる」
誰も、気合でどうにかなるとは言わなかった。
気合で出せる分は、とっくに出していた。
*
城が落ちる。
その言葉を、初めて具体的な予定として卓に置いた。
いつか起きるかもしれない話ではない。
明日か。
少し延ばせても、その次か。
天統連盟の配下にされた場合、こちらが自由に動かせる範囲は狭くなる。連絡まで全部なくなるわけではないが、土地や同盟単位の行動には制限がかかる。
敵は、その先を見て攻めている。
北西の道を奪うだけではない。
俺たちがまとまって抵抗すること自体を、終わらせようとしていた。
「葉から、返事」
杏が書簡を置いた。
何通もの問い合わせを重ねたらしく、本文の後ろに、確認先と実例が並んでいた。
その中の一文で、俺の目が止まった。
『配下化直後の保護期間は、配下となった側の君主城への新たな攻撃を防ぐ。保有する土地、砦、城外の部隊は対象外』
続きを読む。
『保護中も出兵は可能。出兵によって城の保護は解除されない。ただし、所属を変えれば自由に繰り返せる仕組みではない』
指が止まった。
玄が身を起こす。
「なんかあったか」
「城を落とされても、すぐ次の相手に取り直されない期間がある」
「直哉のところにも、あったやつか」
「うん。ただ、城の中で大人しくしてろってことではないらしい」
岳が書簡を受け取った。
最後まで読んで、もう一度、最初へ戻る。
「城を気にせず、守備の兵を動かせる」
「ああ」
玄が地図を見る。
「敵に落とされてから、反撃するってことか?」
「いや」
俺は、晴の名前が書かれた紙を引き寄せた。
「敵に落とされる前に、こっちで配下になる」
*
「俺がお前の城を落とすの?」
晴は、最初、聞き間違いだと思ったらしかった。
「そうなる」
「なんで」
「その前に同盟を分ける。今残ってる人数を、だいたい半分ずつに」
千景が眉を寄せた。
「分けた側の盟主を晴にして、そちらが北西連盟を配下にする、ということですか」
「うん」
晴が口を開きかけた。
俺はその前に、葉の書簡を二人へ渡した。
「天統に落とされる前に、味方の配下になる。そうすれば、城を守るために置いてる兵を、一定期間だけ外へ出せる」
「城は保護されても、土地は取られますよ」
「だから、外で止める」
岳が地図を広げた。
「今、こっちは城へ通じる道を全部守らなきゃいけない。一本でも抜けられれば終わる。城への攻撃が通らなくなるなら、守る場所を絞れる」
玄が続けた。
「しかも、城の守備に残してる兵を使える。向こうは俺たちの野戦の兵数を見てるだろうけど、そこまでは全部削れてねえ」
「全部使ったら、保護が切れた後は?」
千景の問いに、俺は頷いた。
「そこまでに道を取り返す。無理なら、今度こそ退く。その判断の時間を作りたい」
勝ち続けるための仕組みではない。
一度、息を吸うための時間だった。
晴は書簡を持ったまま、俺を見た。
「でも、お前、合併でやっていこうって」
「言った」
「配下にしてまとめるのは、やめようって」
「うん」
晴の声が小さくなった。
「俺、それが好きだったんだけど」
胸の奥が痛んだ。
俺も、そうだった。
だから、都合のいい言い換えでは済ませたくなかった。
「配下になる側に、断る余地がなかったら同じだと思う。今回は、先に全員へ説明する。残れない人は、晴の方へ移ってもらう」
「……うん」
「その上で、俺は晴に頼みたい。俺たちを配下にして、天統に持っていかれないようにしてほしい」
晴は長く黙っていた。
千景が、彼の隣で書簡を置いた。
「保護の条件と、配下になった後の制限を、もう一度確認します。実行してから違いました、では済みませんから」
晴が顔を上げた。
「千景は、いいの?」
「嫌ですよ」
即答だった。
「同盟を二つに分ける手続きも、物資の仕分けも、こんな状況でやりたくありません」
それから、俺を見た。
「ですが、明日、全部を敵に決められるよりはいいです」
*
誰を、どちらへ残すか。
その話が、一番長かった。
強い者をこちら、弱い者をあちら。
そんな分け方はできなかった。
配下になれば、今と同じ同盟内の連絡だけでは済まなくなる。使える機能が変わり、指揮や支援の効果が届く範囲も確認し直さなければならない。
指示が途切れた時、自分で退く判断ができるか。
決めていた道が塞がれた時、別の相手へ連絡できるか。
同じ同盟の印がなくても、隣の部隊に合わせられるか。
こちらへ残るのは、その連携を続けられる者を中心にした。
玄と岳が、顔と名前を一人ずつ確かめた。
杏は、連絡を受ける側まで書き込んだ。
宗吾は残る。
部隊の交代と、限られた強化のタイミングを合わせる役は、手放せなかった。
一方で、新しい同盟には、兵を立て直す人、輸送を動かす人、受け入れや生活を支える人を厚く置いた。
晴が盟主。
千景が全体の整理を引き受ける。
正臣が輸送と物資の集積を担当することになった。
「俺、ですか」
正臣は、渡された一覧を見て固まった。
「荷物運びだけじゃないですよね、これ」
「荷物がどこへ行ったかまで、分かってる人が必要なの」
千景が言った。
「今までも、そうしてくれていたでしょう」
「でも、戦争の判断は」
「それは晴と、部隊を動かす人がします。あなたは、ない物をあると言わず、届かない物を届くと言わないでください」
正臣は紙を見直した。
それから、小さく頷いた。
「それなら、できます」
「あと、食事も」
「食事?」
「兵を出す人が食べ忘れます」
俺と玄が、同時に視線を逸らした。
正臣は、その様子を見て初めて少し笑った。
「分かりました。そこは厳しくやります」
*
「私も、晴さんの側へ移ります」
真砂が言った。
卓の上には、朔へ送る予定の書簡が置かれていた。
「こちらへ残っても、できることはあります。ただ、配下の制約を受けない立場で、取引と兵の準備を進めた方がいい」
「頼みたい」
「ええ。今度は、今日の補充だけを考える仕事から、少し離れます」
真砂は帳面を閉じた。
「朔さんが外で揃えている分と、こちらで準備する分を合わせます。同じ装備を別々に取り合って値を上げるような真似は、避けたいですから」
巌が隣で頷く。
「俺もつく。話を通す先が増えるからな」
「手綱役ですか」
真砂が聞くと、巌は笑った。
「必要ならな。だが、今はお前に走ってもらわんと困る」
真砂も、わずかに笑った。
その笑顔が消えてから、俺を見る。
「ただし、準備できた物を、端から全部は送りません」
「朔にも言われた」
「話が早くて助かります」
頼もしいと思った。
同時に、明日からの苦しさも分かった。
足りないと言えば、どうにかしてくれた人たちが、足りないと知ったまま、渡さない判断をする。
その先の戦いを作るために。
俺は頷いた。
「必要な時に、まとまった戦力にしてくれ」
*
新しい同盟の名前は、晴が決めた。
「北西の番犬」
千景の筆が止まった。
「……番犬ですか」
「猫を守るんだから、番犬でいいだろ」
俺は顔を上げた。
「今は北西連盟だぞ」
「知ってるよ」
晴は、当たり前のように言った。
「でも、お前たち、猫だろ」
玄が吹き出した。
杏は笑いながら、目元を指で押さえた。
晴は少し困った顔をした。
「変かな」
「いや」
俺は首を振った。
「頼もしそうな名前だ」
「じゃあ、それで」
千景が新しい書類へ、ゆっくりと名前を書いた。
北西の番犬。
その文字の下へ、次々と人の名前が移っていった。
*
実行は、翌朝だった。
敵の攻撃が薄くなったからではない。
それ以上、待てなかった。
玄が北の道で敵を止め、岳が最後の輸送隊を通す。
杏は両同盟の連絡役を繋ぎ、千景は移籍が完了した人数を確認し続けた。
一人でも手続きが終わらないままでは、予定した役割が崩れる。
「あと二人です」
報告の直後、北から別の書簡が来た。
敵の弓兵が、城へ届く場所まで進んでいる。
俺は城壁へ上がった。
遠くに、味方の列が見えた。
そのさらに向こうに、敵の旗がある。
玄の部隊が、少しずつ下がっていた。
走ってはいない。
けれど、もう止まれてもいなかった。
「完了しました!」
千景からの知らせを、杏が読み上げた。
俺は振り返った。
城門の外には、晴の部隊がいた。
つい昨日まで、同じ同盟の援軍だった兵たちだ。
今は、別の旗を掲げている。
守備の部隊を退かせる命令を出した。
喉が乾いていた。
「本当にやるんだな」
晴から、最後の書簡が来た。
俺は短く返した。
「頼む」
巨嶽が前へ出た。
守るために何度も見送った武将が、こちらの城門へ武器を向ける。
腹の底が、ひやりとした。
分かっていても、体が拒む。
一撃。
城が揺れた。
周が、俺の横で目を閉じた。
次の衝撃で、門の一部が崩れた。
誰も、声を上げなかった。
やがて、目の前に通知が現れた。
『北西連盟は、北西の番犬同盟の配下となりました』
続けて、保護期間を示す表示が浮かんだ。
俺はその残り時間を、二度確認した。
確認してから、息を吐いた。
「玄を戻してくれ」
杏に言った。
「今度は、全員で迎えに行く」
*
城へ向かっていた敵の先行部隊が、進路を変えた。
保護のかかった城を攻め続けることはできない。
だが、敵もその場で立ち尽くしはしなかった。
左右へ分かれ、周辺の土地へ向かう。
道を奪い、保護が切れるまで囲むつもりだった。
その動きを、岳が見ていた。
「右へ入った方を叩く。左は追うな」
城門が開いた。
修繕されていない門の下を、守備に残していた盾兵が通る。
続いて槍兵。
最後に、数を温存していた最上級弓兵が出た。
俺たちは、城への最後の攻撃に備えて、兵を残していた。
それを今、外へ出せる。
沈烈が槍を掲げる。
「前列、詰めすぎるな。敵を受けてから、左右を開け」
宗吾の強化が重なった。
数字は、決して大きくない。
それでも、揃った兵へ同じ瞬間に届けば、戦列の崩れ方が変わる。
右へ回り込もうとしていた敵の騎馬が、盾の列へぶつかった。
前進が止まる。
その後ろから来た兵が、行き場を失った。
「朱音!」
弓が鳴った。
城へ向かうために細く伸びた敵の隊列へ、横から矢が入る。
玄の部隊が退いてきた。
こちらの盾兵の間を通り抜けながら、玄が叫ぶ。
「奥に、まだいるぞ!」
「分かってる! 戻れ!」
俺が返すと、玄は一瞬だけ笑い、今度は振り返らずに下がった。
*
晴の部隊は、別の道から動いた。
同じ指揮の効果を当てにはできない。
だから、合図を先に決めていた。
俺たちが正面を止める。
敵の横列が崩れたところで、晴が道の出口を押さえる。
蒼波の騎馬が走った。
敵を深く追わず、退路と増援の道を分ける。
そこへ、岳が迂回させていた部隊が入った。
敵の前列が、後ろを向く。
その瞬間、沈烈が前進を命じた。
押した。
ここ数日、下がるために踏ん張っていた足が、初めて前へ出た。
カイとレンが、突出してきた敵将へ向かう。
二人だけを敵の奥へ送ることはしない。
盾兵が近くにいる。
澪が、見通しの利く斜面に立っている。
敵将がレンへ狙いを定めた瞬間、その位置が入れ替わった。
盾を構えた味方の武将が攻撃を受け、空いた横へカイが踏み込む。
敵の勢いが、そこで切れた。
「追いすぎるな!」
俺は叫んだ。
勝てそうになると、足が前へ出る。
それで何度も、帰る道を失いかけた。
「道まででいい! 荷車を通せるところまで!」
*
夕方、失っていた分岐に、味方の旗が戻った。
北の丘までは届かなかった。
取り返せなかった城もある。
敵の本隊を崩したわけでもない。
それでも、包囲に使われかけていた二本の道を、こちらが使えるようになった。
正臣の輸送隊が、その道から入ってきた。
矢と食料。
修繕用の資材。
千景から、次の交代についての書簡。
荷車の脇には、北西の番犬の旗があった。
玄が、それを見て笑った。
「本当に犬になったな、あいつ」
俺も笑おうとして、うまくいかなかった。
目の前には、配下であることを示す表示が残っていた。
保護の時間は、減り続けている。
明日になれば、敵は今日と違う動きをするだろう。
それでも、今夜は城門の外に兵を置き続けなくていい。
帰ってきた兵を、眠らせられる。
晴から書簡が届いた。
『そっちの城、壊してごめん。直す分、送った』
俺はしばらく、その文字を見ていた。
それから返事を書いた。
『助かった。次も頼む』
杏が受け取り、連絡役へ渡した。
その後ろで、真砂から新しい報告が届いていた。
朔との調整がついたこと。
次に揃える兵種が決まったこと。
今度は、完成する前に小分けにして送らないこと。
俺は頷き、書簡を畳んだ。
城は一度、落ちた。
同盟も、二つに割れた。
その日の終わりに、俺たちは初めて、敵を押し返した道から夕食を受け取った。く




