まだまだ
第百五十八話 守るために、離れる
戻ってきた兵の列は、出ていった時よりも短かった。
そんなことは、報告を読めば分かる。
損耗数も、消費した矢も、次の出兵までに必要な時間も、葉がまとめてくれている。
それでも、城門の内側に立っていると、数字では分からなかったことが見えた。
帰還した部隊を迎えるために用意した水桶が余っている。
荷車を引いてきた馬だけが戻り、載せていた盾がない。
最後尾の兵が門をくぐってからも、誰もすぐには門を閉めようとしなかった。
まだ来るのではないかと、俺も道の向こうを見ていた。
「これで全部です」
沈烈の声で、ようやく顔を戻した。
槍の穂先が欠けていた。専用装備を手に入れてから、あいつがこれほど露骨に武器を傷めて帰ってきたことはなかった。
「修繕を先に。次は別の部隊を出す」
「承知しました。ただし、交代の部隊にも伝えてください」
沈烈は北の道を振り返った。
「敵は、こちらの交代を待っています」
*
「ずっと攻め続けているわけじゃないんだ」
玄は椅子に腰を下ろすなり、そう言った。
差し出された椀を受け取ったが、中身には手をつけない。
「こっちが粘ってる間は、少し引く。追えば横から来る。追わなきゃ別の道を伸ばす。それで、兵を入れ替えようとすると詰めてくる」
「交代の時刻を読まれてる?」
「時刻というより、動きだと思う」
葉が地図に小さな印をつけた。
「帰還する部隊と、前進する部隊がすれ違う場所。そこを見られている。こちらが疲れた部隊を下げるたび、守りの薄くなる場所を探される」
「じゃあ、交代させなきゃいいって話にはならねえな」
玄が笑おうとして、やめた。
卓の向こうで、冬馬が両手を組んでいた。
「俺、次も行けます」
「お前は今、帰ってきたところだろ」
「でも、道は覚えたんで。初めて行く人よりは」
「冬馬」
俺が呼ぶと、冬馬の肩がわずかに動いた。
「怖いまま、もう一回行こうとしてくれてるのは分かる。でも、今のお前を基準にしたら、全員が帰れなくなる」
冬馬は何か言いかけた。
口を閉じ、しばらくしてから、小さく頷いた。
玄がようやく椀に口をつけた。
「交代をなくすんじゃなくて、交代できる場所まで下げようぜ」
部屋が静かになった。
それが何を意味するか、全員が分かっていた。
岳が地図の一点に指を置く。
「ここなら、左右を丘で絞れる。後ろに二本、道がある。片方を狙われても、もう片方から兵を入れられる」
「そこまで下げると?」
俺が聞くと、葉が答えた。
「北側の城への援軍が、間に合わなくなる」
地図の上では、指一本分だった。
その幅の中に、何人もの城があった。
*
「結局、見捨てるんですか」
書簡ではなく、目の前で言われた。
北側に城を持つ盟主たちのうち、道が通じている者に集まってもらった。来られない者には、杏が同じ内容を伝えている。
声を上げた男は、統合前、同盟の鍛冶講座に道具を貸してくれた人だった。
普段は、誰かが言い争うと先に間へ入る。
その人が、握り締めた拳を卓の上に置いていた。
「北西連盟に入れば、困った時は助け合えるって。俺もそう思って入ったんです。兵だって出しました。王城にも」
「知っています」
「だったら、なんで俺の城なんですか」
答えられなかった。
公平な順番で敵が来るわけではない。
準備を怠った者から襲われるわけでもない。
統合で置かれた場所が悪かった。
それで説明はつく。
納得できるはずがなかった。
「今の場所で守り続けると、援軍も一緒に失います」
俺は地図を相手の方へ向けた。
「だから、守る線を下げたい。その前に、運べる物資と、戻せる兵を動かします。受け入れる城はこちらで用意します」
「城を捨てろと?」
「城を守り切れない可能性を前提に、準備させてほしい」
「言い方を変えただけでしょう」
「……そうです」
男の顔が歪んだ。
俺の隣で、晴が息を吸った。
何か言おうとしていた。
けれど、先に声を出したのは千景だった。
「移動先で必要な物を、先に決めます」
彼女は用意してきた紙を広げた。
「寝る場所、食事、倉庫、武将の待機場所。それぞれ、誰が受け持つかまで書きます。着いてから空いている場所を探してください、とはしません」
「そんな話をしてるんじゃ――」
「はい。城を離れたくないという話をしています」
千景は相手を見た。
「ですから、離れた後まで不安なままにしたくありません」
男は黙った。
その隣にいた年配の女性が、ぽつりと言った。
「窯があるんだけどね」
全員の視線が向いた。
「統合して、やっと場所を決めたところなの。前の世界で教わって、今度は自分の城でも焼けるようにしようと思って」
彼女は困ったように笑った。
「土と棚なら運べるでしょうけど。窯は、そう簡単にはねえ」
晴が俯いた。
俺たちは兵数の話をしていた。
城の中では、もう次の暮らしを始めようとしていた人がいる。
「窯は……今回は、残すことになると思います」
俺が言うと、女性は目を伏せた。
「そう」
それだけだった。
怒鳴られるよりも、その短い返事が重かった。
*
会議の後、晴が追いかけてきた。
「俺、北へ行ってくる」
「晴」
「もう一回守れば、って話じゃないよ」
晴は首を振った。
「荷物を運ぶ。あの人、たぶん一人じゃ、何を残すか決められないから」
「……頼む」
「お前は?」
「受け入れ先と、他同盟への連絡」
「じゃあ、そっち頼む」
いつもの調子だった。
だからこそ、背中を見送った後、しばらく動けなかった。
隣に来た律が、俺の手から書簡を抜き取る。
「同じところ、三回読んでる」
「読めてはいる」
「判断できてない」
言い返そうとして、やめた。
その通りだった。
「全員に残ってくれって言ったの、俺なんだよな」
「うん」
「大きくなれば、争いを抑えられると思った」
「抑えられたでしょ。前の世界では」
律は書簡を畳んだ。
「今は、違う相手が来てる。それで、違う判断が必要になった」
「簡単に切り替えられない」
「知ってる」
律の指が、俺の手に触れた。
握るというより、固まった指を開かせるような触れ方だった。
「だから、一人で決めないで。私たちにも、嫌な決定をさせて」
顔を上げる。
律はまっすぐ俺を見ていた。
「守りたい人がいるの、あなただけじゃないんだから」
*
問題は、受け入れる場所だった。
北西連盟の城だけで受け止めようとすると、敵の進む先に物資を集めることになる。
後方だと思っていた城が、翌日には前線になる。
それを繰り返せば、荷車を走らせるだけで兵も資源も削られていく。
「同盟の外へ出します」
真砂が言った。
巌の隣で、何枚もの帳面を開いている。
「白嶺同盟と翠河同盟に打診しました。全員ではありませんが、物資の保管と、一部の方の受け入れについて話が進んでいます」
「もう?」
「先に相談だけ。決めるのは皆さんです」
真砂は一枚の紙をこちらへ押した。
「ただし、保管を引き受ける側にも、兵と倉庫の余裕が必要です。無制限には頼めません」
「費用は」
「向こうも、今は物資が欲しいそうです。余剰の装備と、こちらで手配できる資材を組み合わせます」
朔が紙を覗き込んだ。
「これ、北西の物資を全部売る形にはしないよな」
「ええ。預ける物と、対価にする物は分けます。返してもらう時に揉めている余裕はないでしょう」
「なら、俺も見る」
「助かります」
巌が腕を組んだ。
「人の方は、もう少し難しいぞ」
俺は頷いた。
物資を運ぶのと、人が同盟を移るのは違う。
合併して、一緒にやっていこうと言った。
その相手に、今度は別の同盟へ行ってほしいと頼む。
「移った先で兵を立て直してもらう。ここへ戻ることを条件にはしない」
口にすると、胸の奥が少し冷えた。
「移籍先にも、そう伝えてほしい」
「それでよろしいんですか」
真砂が尋ねる。
「戻ってくるまでの預かり扱いでは、受け入れる側も困るだろ。人は倉庫の荷物じゃない」
真砂はしばらく俺を見ていた。
それから、帳面の端に書いてあった一文を線で消した。
「では、そこを明確にします」
巌が低く笑った。
「せっかく集めたのにな」
「本当にな」
「だが、まあ。結婚するために集めたことになっとるからな。もう目的は達成しとる」
律が巌を見た。
「今、その話します?」
「今だからじゃ」
笑えないと思っていた。
なのに、少しだけ息が抜けた。
*
最初の荷車が動く朝、俺も北へ向かった。
長くはいられない。
だからといって、紙の上で決めたままにはしたくなかった。
城の庭には、運び出す物が並べられていた。
資源の箱。予備の武器。食料。
その隣に、妙に小さな包みがあった。
「皿」
晴が言った。
「あの窯で、試しに焼いたやつだって」
布の端から、不揃いな縁が見えた。
割れないように、古い衣服で何重にも包まれている。
「もっと積めるんじゃないか」
荷台を見て俺が言うと、恭介が首を振った。
「重さを残しています。帰り道で荷車が止まった時、他の車へ移せる分です」
以前なら、ぎりぎりまで積んだかもしれない。
そう言いかけて、やめた。
恭介は縄を締め直し、車輪を確かめていた。
朱音が城壁から降りてくる。
「敵の先行部隊、進路を変えた。こっちを見てる」
「出発を早める」
岳の声が飛んだ。
空気が一度に変わった。
運ぶ物を迷っていた人たちが、荷台へ手を伸ばす。
晴が大きな箱を持ち上げた。
「それは置いてく」
玄が言った。
「でも、中に」
「予備の槍だろ。こっちで使う。荷車を出してくれ」
玄の後ろには、盾を持った兵が並んでいた。
戻ってきたばかりだったはずなのに、もう鎧を着ている。
「交代は?」
「ちゃんと寝た。冬馬とも話した。今回は、俺が前で、あいつが帰り道」
玄は俺の顔を見て、少し笑った。
「一人で決めてねえよ」
その言い方に、何も返せなくなった。
城門の外で、矢が一本、地面に刺さった。
続いて数本。
敵は城へ押し寄せず、道の先へ兵を回そうとしていた。
荷車を止めるつもりだ。
「朱音、右の斜面。敵を倒し切らなくていい。道に出させないで」
「了解!」
「岳、先頭を進めて。後ろを待たせない」
「分かってる」
指示を出しながら、残っている人を数えた。
一人、足りない。
窯のあった建物へ走ると、あの女性が扉の前に立っていた。
「行きましょう」
「ええ」
返事はあった。
足は動かなかった。
建物の中には、まだ乾いていない器が並んでいた。
手をかければ崩れてしまいそうな、柔らかい土の色だった。
「……置いていけば、駄目になるわね」
俺は答えられなかった。
代わりに、晴が横へ来た。
「一個だけ、持っていこう」
「まだ持てないのよ」
「板ごとなら?」
女性が顔を上げた。
晴は器の載った薄い板を、両手でそっと持ち上げた。
「割れたら、ごめん」
「傾けないで」
「うん」
「そっち、もう少し上」
「こう?」
「そう」
ようやく、彼女が歩き始めた。
*
帰りの道で、敵の騎馬が姿を見せた。
荷車の列がざわめく。
玄たちの正面を抜けた部隊ではなかった。さらに外を回ってきた別働隊だった。
「止まるな!」
岳が叫んだ。
止まれば、後ろから詰まる。
分かっていても、馬の足が鈍る。
俺が武将を前へ出そうとした時、道の脇にいた蒼波が剣を掲げた。
離れた場所で牽制に回っていた味方の騎馬が帰還し、その姿が蒼波の周囲へ現れる。
敵の進路へ、横から味方の列が差し込んだ。
衝突。
槍が折れ、土が跳ねる。
晴は、器の載った板を俺に押しつけた。
「持ってて!」
「おい!」
「俺の武将だから、俺が見る!」
荷車の横を走り、蒼波へ指示を飛ばす。
勝つための追撃はしない。
敵の先頭を押し返し、荷車が進むだけの幅を作る。
その間に冬馬の盾兵が後方へ入り、騎馬の帰り道を確保した。
俺の両手の上で、乾いていない器が小さく震えていた。
戦場で、何を持たされているんだと思った。
けれど、放り出すことはできなかった。
*
新しい防衛線へ入ったのは、昼を過ぎてからだった。
荷車は一台、車輪を傷めて途中に残した。
物資もすべては運べなかった。
護衛の兵も減った。
それでも、人の名前を読み上げるたび、返事があった。
杏が最後の一人に印をつけて、深く息を吐いた。
「全員、いる」
そこで初めて、俺は板を下ろした。
器の縁が、少し潰れていた。
女性はそれを見つめ、親指でそっと押し戻した。
「まだ直せるわ」
その一言に、妙に救われた。
夕方、北に残した城へ敵の部隊が入ったと報告が届いた。
地図の色が変わる。
俺たちの土地が、また減った。
一方で、白嶺同盟からは受け入れ可能な人数が、翠河同盟からは安全に通せる道の候補が届いていた。
高瀬からの書簡には、短い追伸があった。
『こちらでも二人、手を貸してくれることになりました。まだ兵は少ないですが、道の確認ならできます』
俺は、その二人の名前を葉に渡した。
今はまだ、敵の進軍を止めるほどの力にはならない。
それでも、次に誰かを動かす時、知らない道ではなくなる。
「盟主」
千景が新しい名簿を持ってきた。
「移籍について、最初の希望者が出ました」
紙を受け取る。
何度も一緒に砦へ出た名前があった。
料理教室で見かけた名前もあった。
迷った跡のある筆で、行き先が書かれていた。
「先方に、よろしく頼むと伝えて」
「はい」
千景が出ていった後、俺は椅子に座った。
疲れた、と思った。
兵を失うのもつらい。
土地を失うのもつらい。
一緒にいようと集まった人を、自分の手で送り出すのは、想像していたよりずっとつらかった。
隣に律が座る。
何も言わず、水を置いてくれた。
「小さくなるな」
俺が言うと、律は名簿を見た。
「ここにいる人数はね」
窓の外で、荷車から皿を下ろしている晴の声がした。
玄が何か言って、叱られている。
器を載せた板を、今度は二人で運んでいた。
俺は水を飲み、次の書簡を開いた。
送り出す相手には、無事に着いてほしい。
残る相手には、明日も帰ってきてほしい。
そのために決めなければならないことが、まだ机の上に残っていた。




