走る
第百五十話 帰る方法はある
澪は部屋へ入ると、まず窓と扉を見た。
それから、俺の前へ椅子を寄せる。
「どこまで戻った?」
「カイに、身体をほぐしてもらっていたことだけ」
「場所の名前は?」
「分からない」
「自分の名前は?」
俺は答えようとした。
そこで、止まった。
*
分かっているはずだった。
書簡には、自分の名がある。
勲章の順位にも載っていた。
署名だってしてきた。
俺は机から一通、紙を取った。
自分の書いたものだった。
名前を見る。
俺の名前だと分かる。
だが、声にしようとすると、音が出てこない。
「……何だ、これ」
律が紙を覗いた。
俺の名を読もうとして、彼女も口を閉じた。
澪は頷いた。
「無理に続けないで」
俺は紙を置けなかった。
「ずっと、こうだったのか」
「本人の識別はできる。呼びかけも届く。でも、外の本人情報へ結びつく部分は、認識を制限されてる」
澪はゆっくり話した。
「名前がないわけじゃない。思い出せないことにも、気づきにくくされてる」
俺は律を見た。
ここで出会い、一緒に暮らしている。
なのに彼女が俺を呼ぶ、その音を、俺は今、思い出せなかった。
律の手が、紙を持つ俺の手へ重なった。
俺はようやく、それを机へ戻した。
*
レンが椅子へ座った。
「俺と澪は、犯罪管理局の人間だ」
聞いたことのない組織だった。
だが、続く言葉の意味は分かった。
「箱庭を管理してる連中とは別だ。外で、この実験への捜査が進んでる」
「外が、あるんだな」
「ああ」
俺は息を吸った。
地図の外ではない。
まだ統合されていない、別の世界でもない。
この箱庭そのものの、外。
「俺たちは、そこから来た」
レンは言った。
「武将の枠を使って潜り込んだ。カイと俺が低いランクなのは、使えた入口がそういうものだったからだ」
「澪も?」
「私は支援側の別枠。こちらへ姿を出せる条件が、なかなか揃わなかった」
澪が答えた。
王城で引いた札。
何枚も続いた登用。
その中から現れた彼女を思い出した。
「偶然、助けになる武将を引いたんじゃなかったのか」
「札を使ってくれなければ、来られなかったのは本当」
澪は言った。
「間に合ってよかった」
*
「じゃあ、カイも捜査官?」
律が尋ねた。
レンが首を振る。
「こいつは違う」
「さっき言っただろ。エステティシャン」
カイが答えた。
俺は、今度こそちゃんと聞き返した。
「なぜ、エステティシャンがいるんだ」
「お前が予約の日に来なくなったから」
部屋が静かになった。
カイは続けた。
「連絡もない。次も来ない。そのあと、こいつらが聞き込みに来た」
レンを指す。
「最後に何を話したかって聞かれたから、肩がひどく凝ってたって答えた」
「その話は、何度も聞いた」
レンが言った。
「ほかに思い出したことはないかと尋ねたら、腰も硬かったと言われた」
律が、ほんの少しだけ笑った。
俺も笑いかけた。
だが、その途中でカイが言った。
「連絡もなしに来なくなる人じゃ、なかったからさ」
俺は口を閉じた。
*
なぜ俺との接続にカイが向いていたのか。
詳しい仕組みは、説明されてもすぐには分からなかった。
ただ、外にいる本人へ近い記憶。
警戒せずに相手へ身を預けた経験。
そうしたものが、こちらへ接触するための足場になったという。
「俺より安定した」
レンが言った。
少し不満そうだった。
カイは肩をすくめた。
「普段から、力を抜いてもらう仕事だからな」
「それで済ませられる話じゃないんだが」
澪が口を挟んだ。
「でも、入れた。そこは事実」
俺はカイを見た。
最初の武将。
よく喋り、食べ物にうるさく、強い相手にだけ妙な力を出した。
その姿の奥に、知っている人がいた。
「助けに来たのか」
聞くと、カイは頷いた。
「うん」
あまりに短い返事だった。
俺は、次の言葉を探せなかった。
*
「帰れるのか」
ようやく尋ねると、レンの表情が変わった。
「方法はある」
律の指が、俺の手を握った。
俺も握り返した。
「皆も?」
「そのために来てる」
「除外された人たちは」
レンは、答える前に澪を見た。
彼女が頷いた。
「少なくとも、除外を即座の消去と同じにはしていない。外で保管されている意識を、仲間が確認してる」
俺は顔を上げた。
「戻せる?」
「戻すための処置はある。ただ、全員の所在を掴めてはいない」
澪の答えは明確だった。
「だから、王城で読めた記録が要る。誰が、いつ、どの識別で移されたか。名前だけでは追えないところを、繋げられる」
晴の持っていた書簡が浮かんだ。
いつから本人ではなかったのか。
その日付を、俺たちはもう知っている。
読んで苦しくなるだけの記録ではなかった。
*
「今、ここから出ることは?」
俺が聞くと、レンは首を振った。
「安全に全員を出す経路は、まだない」
澪が地図を出した。
俺たちの知る地形ではなかった。
幾つかの領域と、それを結ぶ線だけが描かれている。
「次の統合で、第一・第二世界側と接続される。その時、管理の経路も組み替わる」
彼女の指が、二つの線を辿った。
「そこで、外の仲間との接続を確保する。その先の中枢まで届けば、意識を取り出すための操作へ手が届く」
「次の世界へ、行くんだな」
「ああ」
レンが答えた。
「向こうにも、人がいる。俺たちがまだ確かめられていない人たちが」
俺は図を見た。
解決策がある。
それは、今すぐ全部が終わるという意味ではなかった。
次の世界がある。
そこで会う相手がいる。
その先へ進む道を、作らなければならない。
*
「どうして、今まで言わなかった」
責めるつもりで聞いたのではなかった。
それでも、声は少し硬くなった。
レンは受け止めた。
「こちらの潜入が確定すれば、入口を塞がれる。お前に繋がる記憶を、さらに切られる可能性もあった」
澪が続けた。
「ずっと黙っているつもりでもなかった。記録へ到達して、外の記憶が戻り始めた。今なら、話を本人の記憶と結びつけられる」
「この話も、見られてるんじゃないのか」
「危険がないとは言えない」
レンは即答した。
「だから、ここからは急ぐ。ただ、怖がらせて、よく分からないまま動かしたくない」
俺は三人を見た。
管理局も、俺たちの知らないことを知っていた。
この三人もそうだ。
違いを、言葉だけで決めていいのか。
迷いが顔に出たのだろう。
レンが言った。
「確かめてくれ。お前の読める記録と、俺たちの持っている情報を合わせる。食い違うなら、そこから調べる」
俺はゆっくり頷いた。
信じろと言われるより、その方がよかった。
*
話を終えた時には、茶が冷めていた。
律が立ち上がり、周へ湯を頼んだ。
俺は、ようやく椅子へ深く座った。
肩を動かす。
まだ重かった。
だが、先ほどまでの痛みとは違った。
カイが俺の首元を見た。
「途中だったな」
「何が?」
「肩」
俺は三人を見た。
箱庭の外。
犯罪管理局。
救出。
そんな話をしたあとに、肩へ戻るのか。
レンが呆れた顔をした。
澪は、少し笑っていた。
「今、できることではあるね」
カイが後ろへ回る。
俺は今度は、素直に手を下ろした。
「痛かったら言えよ」
「ああ」
温かい手が、肩へ置かれた。
思い出せることは、まだ少ない。
自分の名前も、外でどんな暮らしをしていたかも分からない。
それでも、この手が自分を傷つけないように触れていることは分かった。
律が戻ってきて、隣へ座った。
俺は彼女を見た。
「一緒に、帰ろう」
律はしばらく俺を見てから、頷いた。
「うん。帰ったあとも、ちゃんと会おうね」
俺は、その約束を覚えておこうと思った。
名前を思い出せなくても。
今、聞いた彼女の声と一緒に。
第百五十一話 描かない余白
王城で失った兵を戻すだけでは、足りなかった。
宗吾の前には、統合予定日までの表が置かれていた。
兵舎を動かせる時間。
資源が届く時刻。
今いる武将が率いられる兵数。
空欄を埋めていくほど、残された日数の短さが分かった。
「可能なところまで、増やしたい」
俺は言った。
宗吾が顔を上げる。
「王城に出す前よりも?」
「ああ。第一・第二世界側は、俺たちより長く育てている。向こうで何が起きているかも分からない」
知っていることと、まだ確かめられないことは分けた。
記憶が戻り始めたことも、三人から聞いた話も、ただ軍備を急がせるための理由にはしたくなかった。
それでも、守れるものを増やす必要があることは変わらない。
宗吾は表へ視線を戻した。
「兵数だけ増やしても、維持できなければ出せない。食糧と輸送も、同じだけ用意する」
「頼む」
彼は新しい紙を引き寄せた。
*
千景は、最初に城の復旧状況を確認した。
仮の屋根で暮らしている者がいる。
倉庫が狭くなり、外へ荷を積んでいる城もある。
兵を増やすために、それらを後回しにはしない。
「まず、暮らしを戻す分を確保する。その上で、余力を兵へ回しましょう」
真砂が頷いた。
「資源は、種類ごとに偏っています。余っている分を交換すれば、まだ動かせる兵舎があります」
朔が地図を開いた。
取得済みの高資源地。
輸送の短い道。
副将を入れ替えれば、生産を増やせる場所。
前なら、新しい土地を取りに行く話になったかもしれない。
今日は、今持っているものを、どこまで働かせられるかを考えた。
「この城、兵舎が空いてる」
朔が指した。
「資源が足りないのか?」
「鉄だけ。そこを渡せれば、止めずに作れる」
真砂が書き留めた。
巌は、その城へ通じる道を見た。
「荷車を一便、こっちへ回す。帰りは食糧を積めるな」
会議が終わる頃には、紙の上に細い線が何本も増えていた。
*
数日後、佐伯から書簡が来た。
冒頭には、輸送の確認があった。
最後に、別の話が添えられていた。
『今期の地上絵について、問い合わせが来ています』
俺は、そこで筆を止めた。
北西の猫。
地図の上に描いた、大きな顔。
土地の都合で形を変え、線が繋がるまで皆で何度も確かめた。
完成した時、遠くの同盟からも書簡が届いた。
あの目がいい。
ひげが曲がっている。
自分の城が耳の近くにある。
戦争以外のことで地図を開く時間が、あった。
俺は今の地図を見た。
畑。
鉱山。
道。
兵の補充を続けている城。
今回は、その上へ新しい線を引かなかった。
*
「描かない?」
晴が聞いた。
俺が頷くと、彼女は地図へ顔を寄せた。
少し残念そうだった。
「端の方に、小さくでも?」
俺は、彼女の指した場所を見た。
できないわけではない。
土地を取り直し、周囲へ話を通せば、何かは描けるだろう。
だが、その仕事をする者は、今も荷を運び、兵を整えている。
「今回は、やめておこうと思う」
俺は答えた。
「空いている枠も、動ける人も、補充に使いたい」
晴はしばらく地図を見ていた。
「そっか」
顔を上げる。
「じゃあ、今ある畑は、そのままがいいね」
「ああ」
「魚の尾っぽも、また今度だね」
佐伯から相談されていた絵のことだった。
俺は頷いた。
晴は寂しそうに笑ってから、机の端にある生産の一覧を取った。
「巨嶽が必要な場所、残ってる?」
*
佐伯への返事は、短く書いた。
今期は地上絵を作らない。
土地と人手を、兵の補充と統合への準備へ使いたい。
皆へ説明してほしい。
送ったあと、少しだけ机を離れた。
窓の外では、兵が訓練をしている。
動きはまだ揃っていない。
指示を聞き直す者もいる。
その列の向こうを、食糧を積んだ荷車が通っていった。
夕方、佐伯から返事が来た。
『承知しました。取得を予定していた土地は、そのまま生産用に残します』
その下に、一行あった。
『前の猫は、皆よく覚えています。新しく描かなくても、忘れはしないでしょう』
俺はその書簡を、すぐには片づけなかった。
*
兵の補充は、派手な仕事ではなかった。
朝、昨日までの数を確かめる。
昼、足りない資源を聞く。
夕方、新しく揃った隊の行き先を決める。
武将のスキルに合わせて兵種を変え、余った装備を回す。
ポイントを使い切りかけた時のように、何でも欲しがることはできなかった。
今回は、必要なものを決めてから探した。
「この武将、もう一人重ねたら上がるんだけど」
玄が言った。
朔は価格を見て首を振った。
「今は、その分を兵へ」
「分かってる。聞いただけだ」
「昨日も聞いた」
玄が紙を引っ込めた。
俺も、同じように閉じたままの市場の表示があった。
誰も、互いを強く責められなかった。
*
カイとレンも、部隊の訓練へ出るようになった。
傷が癒えたばかりなので、長い時間は動かさない。
澪が横で見て、余計な力が入っていると指摘する。
カイは訓練のあと、兵の肩や腕へ触れていた。
「ここ、ずっと力を入れたままだろ」
若い兵が頷く。
「離す時まで握り込んでたら、先に腕が疲れる。ほら、一回、下ろせ」
レンがそれを見ていた。
「お前、結局そっちもやるんだな」
「動きにくそうだから」
カイは答えた。
俺は少し離れて、その手を見ていた。
剣を持っている時より、迷いがないように見えた。
澪がこちらへ気づいた。
何も言わず、軽く頷く。
今は兵を揃える。
道具を整える。
身体を休ませ、動ける状態にする。
三人も、その準備の中にいた。
*
統合までの残りが、日に日に減っていった。
兵舎は動き続けた。
すべての城が同じ数を作れるわけではない。
資源を出す城。
装備を整える城。
輸送を引き受ける城。
自分の守りを厚くするだけで精いっぱいの城もある。
それぞれの報告を合わせると、王城で失った分が少しずつ埋まっていった。
埋まった場所から、さらに上へ積む。
宗吾は数字が増えるたび、維持に必要な食糧も書き足した。
真砂はその数字を見て、輸送の予定を直した。
巌は荷車へ積む前に、自分で袋を持ち上げていた。
誰も、余っているとは言わなかった。
*
夜、律が俺の隣へ座った。
開いていた地図を見て、尋ねる。
「今回は、本当に何も描かないんだね」
「ああ」
「少し、見たかったな」
「俺も」
俺は正直に答えた。
前の世界が終わる頃、猫の顔を何度も開いた。
ここで過ごしたことが、一目で分かるような気がした。
今回は、畑と道のままだった。
律が地図の一角へ指を置いた。
「ここ、皆で釣りに行った川」
「ああ」
「この道は、市へ行ったところ」
指が少し移る。
城。
広場。
料理を作った場所。
俺たちには、何も描かれていない地図にも、見えるものがあった。
俺は表示を少し小さくした。
兵舎の稼働を示す印が、北西の各地に灯っている。
律が俺の手へ触れた。
「今日は、もう寝よう」
俺は最後の報告を確認した。
予定通り、補充が進んでいる。
明日の分の資源も届いている。
地図を閉じた。
今回は、絵を残さない。
まだ会っていない相手のいる世界へ、皆が少しでも多くの兵を連れて行けるように。
朝になれば、また数を確かめる。




