魚釣り
第百二十七話 釣れたら夕飯
目が覚めると、律がまだ隣で眠っていた。
窓の外は明るい。
起きる時刻は、とっくに過ぎている気がした。
俺は身体を起こしかけた。
「今日は、いいんだよ」
目を閉じたまま、律が言った。
「起きてたのか」
「今、起きた」
「何か届いてるかもしれない」
「急ぎなら、周が呼んでくれる」
その通りだった。
昨日、千景にも同じことを言われた。
念のためと書類を持ち帰ろうとしたら、その書類は千景の机へ移った。
仕方なく、枕へ頭を戻す。
律が少しだけ目を開けた。
「休むの、下手だね」
「何をしていいか、まだ決まってないからな」
「朝ご飯を食べる」
「そのあとは?」
「食べてから決める」
立派な予定だった。
俺は頷いた。
もう少し眠れそうだと思ったところで、庭から声がした。
「釣りに行こう!」
律が目を閉じ直した。
俺も、しばらく天井を見ていた。
「……決まったな」
「決まっちゃったね」
*
晴は、竿を四本持っていた。
カイがすでに一本を受け取り、しなりを確かめている。
レンは餌の入った小さな容器を覗いていた。
「釣れた魚で、夕飯にしようと思って」
晴が言った。
「何人分?」
「今いる分と、周の分。あと、正臣にも声をかけた」
「ずいぶん釣る必要があるな」
「大丈夫。よく釣れる場所、知ってるから」
自信のある声だった。
周が朝食を運んできた。
パンと卵、それから温かい汁物。
晴は勧められる前から空いている席を見つけ、嬉しそうに座った。
「正臣も来るのか?」
俺が尋ねると、晴は首を振った。
「料理をお願いした。奈緒と一緒に来てくれるって」
「先に夕飯だけ決まってるのか」
「うん。魚は、これから」
周が俺の前へ皿を置いた。
「では、念のため、ほかのおかずも用意しておきます」
晴が少し頬を膨らませた。
「釣れるよ」
「はい。楽しみにしております」
周の返事は穏やかだった。
俺は安心してパンを取った。
*
川辺には、先に着いていた人が一人いた。
弥平だった。
草の上に小さな箱を置き、じっと竿先を見ている。
「おはよう」
声をかけると、彼は指を唇へ当てた。
皆で足を止める。
竿先が、わずかに動いた。
弥平の手が上がる。
水が跳ねた。
小さな魚が一匹、朝の光の中で揺れた。
「釣れた」
晴が小声で言った。
弥平は魚を外し、こちらへ笑いかけた。
「おはようございます」
「今ので何匹目?」
「三匹目です」
晴が俺を見た。
ほら、という顔だった。
*
場所を決め、竿を出した。
晴は律に餌のつけ方を教えた。
俺はカイの隣へ座った。
少し離れたところで、レンがすでに糸を垂らしている。
「こういうのは、待てばいいんだろ」
カイが言った。
「たぶんな」
「得意だ」
そう言ってから、彼は三度、餌を引き上げて確かめた。
まだ魚は触っていなかった。
「待つんじゃないのか」
「いるかどうか、見てるだけだ」
四度目に上げた時、餌がなくなっていた。
カイが針を見つめた。
「……いるな」
レンが肩を揺らした。
*
晴は、釣れそうな場所をよく知っていた。
「あの石の横。流れが少し弱くなってるでしょ」
教わった律が、そこへ糸を入れた。
しばらくして、小さな魚が釣れた。
晴は手を叩いた。
「そう、それ!」
次に、俺へ岸際の影を教えてくれた。
そこでも、一匹釣れた。
大きくはなかったが、腹はふっくらしていた。
「食べられるかな」
「食べられるよ。よかったね」
晴は嬉しそうだった。
ただ、晴自身の桶は空だった。
「自分でも、そこへ投げたらどうだ」
俺が言うと、彼女は川の少し遠くを見た。
「あっちに、大きいのがいる気がする」
隣でカイも頷いた。
似たような顔をしていた。
*
レンは、一定の間隔で小魚を釣っていた。
上げる。
外す。
餌をつける。
また入れる。
大きさは、ほとんど変わらない。
カイがその桶を覗いた。
「同じやつじゃないのか」
「桶に入ってるだろ」
「仲間を呼んでるのかもしれない」
「じゃあ、お前も一匹釣って、頼んでみろ」
カイは無言で元の場所へ戻った。
俺は笑いを堪えながら、手元の竿を持ち直した。
その拍子に糸が岸の草へ引っかかった。
立ち上がって外そうとすると、晴が言った。
「強く引かないでね」
「分かってる」
「そこ、下に枝があるから」
「分かって――」
ほどけた糸が跳ね、針が俺の袖へ刺さった。
律がこちらを見た。
少し間があった。
「大物?」
「上着だ」
晴が声を出して笑った。
*
昼前、周が用意してくれた包みを開いた。
パンに肉と野菜が挟んである。
律が一つ取り、俺へ渡した。
「針は取れた?」
「ああ。小さな穴は残った」
「帰ったら縫うね」
「自分でやるよ」
「じゃあ、糸を選んでおく」
晴は川を眺めながら食べていた。
まだ釣れていない。
けれど、帰りたい様子はなかった。
「気持ちいいねえ」
靴を脱いで足を伸ばす。
風で草が揺れた。
カイは食べ終わると、すぐ竿へ戻った。
レンもついていく。
弥平は少し下流で、仕掛けを変えていた。
誰も急いでいなかった。
俺は残りのパンを食べ、隣の律を見た。
木漏れ日が、肩へ落ちている。
彼女はその下で、指についたパンくずを払っていた。
「何?」
「いや」
「口についてる?」
「ついてない」
律が少し首を傾げた。
何と答えようか考えた時、彼女の竿が大きくしなった。
*
「律!」
俺が声を上げるより早く、彼女は竿を掴んでいた。
糸が横へ走る。
水面が盛り上がった。
晴が立ち上がった。
「上げすぎないで。そのまま、少しこっち!」
律は両手で竿を支えた。
さっきまで釣っていた魚とは、明らかに違う。
俺は立ち上がり、網を探した。
「そこ、足元!」
晴に言われ、拾い上げる。
魚が水面で暴れた。
慌てて網を入れると、逃げられた。
「前から追わないで。律が寄せるから」
「ああ」
もう一度、しゃがむ。
律が少しずつ糸を引いた。
銀色の腹が見えた。
俺は今度こそ、その下へ網を入れた。
重さが腕へ乗る。
「入った!」
岸へ上げると、大きな魚が網の中で跳ねた。
皆が集まってきた。
カイが口を開けたまま見ている。
レンは律の竿と魚を見比べた。
「それ、同じ道具だよな?」
律はまだ少し息を弾ませながら頷いた。
「たぶん」
晴が彼女の肩へ触れた。
「すごい! 今日、一番だよ」
律は魚を見て、それから俺を見た。
嬉しそうに笑った。
「釣れた」
「ああ」
網を持つ俺まで、得意な気持ちになっていた。
*
帰る直前、晴にも一匹釣れた。
指で摘まめそうな小さな魚だった。
晴はそっと手を添えて、針を外した。
「これは、帰そう」
水へ戻すと、魚はすぐ見えなくなった。
カイが隣で見ていた。
「俺の餌を食ったやつかもしれない」
「だったら、大きくなって帰ってくるね」
晴が笑った。
カイの桶は、最後まで空だった。
だが帰り道では、次は違う場所から投げるという話をしていた。
*
城へ戻ると、正臣と奈緒が厨房で待っていた。
桶を見た正臣が、目を丸くした。
「ずいぶん釣ったな」
「小さいのは、ほとんどレンだ」
俺が言うと、レンが胸を張った。
正臣は大きな魚を見つけた。
「これは?」
「律」
答えると、彼は俺を見た。
「お前、何でそんなに嬉しそうなんだ」
律が笑った。
俺は桶を置いた。
「嬉しいだろ」
「そうかよ」
正臣は呆れた顔をしたが、すぐに魚へ向き直った。
*
厨房では、正臣が頼もしかった。
道具を並べ、魚を洗い、奈緒に確認しながら手を動かす。
危ないところでは、無理をしない。
教わったことを、そのまま丁寧に繰り返しているようだった。
「前より、きれいにできてます」
奈緒が言った。
正臣の肩が少し上がった。
「そうですか」
「はい。身が崩れてない」
彼は嬉しそうに頷いた。
そして、棚にある香草へ目を向けた。
「じゃあ、これも使ってみますか。香りがよくなるかも」
奈緒が手元を覗いた。
「それは、かなり強いですよ」
「少しなら」
「まず、今日の味を覚えましょう」
正臣は香草を戻した。
「……はい」
俺は顔を背けた。
笑うと、こちらへ仕事が飛んできそうだった。
「そこの皿、お願いします」
奈緒に言われた。
もう飛んできた。
*
夕飯には、焼いた魚と煮つけ、それから小魚を揚げたものが並んだ。
周の用意してくれた野菜もある。
弥平も残り、皆で卓を囲んだ。
カイは小魚を一口食べ、しばらく黙った。
レンが顔を寄せる。
「うまいか?」
「うまい」
「俺の魚だ」
「料理したのは、正臣たちだろ」
「釣ったのは俺だ」
晴が笑いながら、大きな魚を取り分けた。
「こっちは律の」
皿が回ってくる。
身は柔らかく、箸を入れると湯気が上がった。
律が一口食べ、目を細めた。
「おいしい」
正臣が、ほっとした顔をした。
奈緒も笑っている。
俺は黙って、もう一口食べた。
*
皆が帰ったあと、律と二人で皿を片づけた。
周は朝から動いてくれていたので、残りは俺たちでやると言って休んでもらった。
俺が洗い、律が拭く。
窓の外は暗くなっていた。
「楽しかったね」
「ああ」
魚を入れていた桶をすすぐ。
袖をまくった時、小さな穴が見えた。
律が気づいた。
「それ、忘れてた」
「明日でいいよ」
「じゃあ、上着を椅子へ置いておいて」
皿が一枚ずつ棚へ戻っていく。
最後の一枚を渡してから、俺は窓の外を見た。
「今日、何も進まなかったな」
律が手を止めた。
「魚は釣れたよ」
俺は少し考え、頷いた。
「そうだな」
「それに、おいしかった」
「ああ」
律が皿をしまい、棚を閉めた。
「明日、また忙しいんでしょ」
「たぶん」
「じゃあ、今日はもう寝よう」
俺は頷いた。
部屋へ戻る前に、机の方を見かけて、やめた。
律が差し出した手を取った。
指先から、まだ少しだけ石鹸の匂いがした。




