ズレとズレは
第百二話 昨日と同じ命令
冬馬が、出撃できないと言った。
声は落ち着いていた。
だから最初、兵の補充が済んでいないのかと思った。
「数が足りない?」
宗吾が確認した。
冬馬は首を振った。
「兵はいる。武将も動ける」
「では、道か」
「違う」
机の下で、彼の膝が揺れていた。
冬馬は片手でそれを押さえた。
「怖いんだ」
その言葉が出るまで、部屋にはまだ、いつもの会議の空気が残っていた。
北の資源地で隣接争いが起きている。
念のため守備を厚くする。
戦争ではない。これまでも繰り返してきた配置だった。
「敵が見えているわけではないぞ」
宗吾の返事に悪気はなかった。
冬馬も、それは分かっているようだった。
「見えていないから、どこから来るのか考える。途中で切られたら戻せない。間に合わなかったら、また兵を失う」
「今回は退路を二本――」
「分かってる」
冬馬の声が大きくなった。
宗吾が口を閉じた。
冬馬は顔を伏せた。
「分かってるんだ。図は読める。前より安全なのも分かる。それでも、出撃の指示に触れようとすると、手が止まる」
俺は、あの二日間の防衛を思い出した。
冬馬は逃げなかった。
遅い部隊を何度も配置し直し、空いた道を塞いでくれた。
あの人が怖いと言っている。
以前できたことを理由に、今もできると言っていいのか。
「今日は外そう」
晴が言った。
冬馬はすぐに顔を上げた。
「だが、一騎当千の枠をもらっている」
「今日は外す。役職の話は、あとでしよう」
晴はそこで少し言葉に詰まった。
「……私も、昨日から変なんだ」
*
変化は、同じ形では現れなかった。
昂生は、同盟を抜けたいわけではないと言った。
ただし、これまでの出撃の引き受け方は変えたいと言った。
「頼まれたら行くのが普通だった。仲間が困っているなら、なおさらだ」
槍兵の配置図を前にして、彼は自分でも確かめるように話した。
「でも今は、自分の畑を後回しにしてまで行くのか、と先に思う」
「前は思わなかったの?」
杏が尋ねた。
「思っていたのかもしれない。思っても、気にならなかったのかもしれない」
昂生は眉を寄せた。
「そこが分からん」
千景は予定表から彼の名前を一つ消した。
責める者はいなかった。
ただ、消された場所は空欄になった。
誰かが引き受けなければ、仕事は残る。
その当たり前のことが、以前より重く見えた。
朱音は、恭介から渡された輸送経路の書類を、その場では受け取らなかった。
「午後にして」
「修正なら、ここで――」
「今、話すと余計なことを言う」
恭介が動きを止めた。
朱音の視線は、彼の顔ではなく書類に落ちていた。
「沢の道のことじゃない。あれは助かったと思ってる」
「……うん」
「でも今朝、前の戦争で落ちた土地を見た。そうしたら、急に腹が立った」
俺は口を開きかけた。
杏が、机の下で俺の袖を引いた。
朱音は続けた。
「今日のあなたに、全部言うべきじゃないと思う。だから午後にして」
恭介は書類を引いた。
「分かった。置いておく」
彼女が退出してから、恭介はしばらく扉を見ていた。
追いかけなかった。
謝罪の書簡も書かなかった。
それが精いっぱいの待ち方なのだと、俺には思えた。
*
昼を過ぎると、生活の相談も届き始めた。
人と同じ部屋で眠れなくなった者。
食事の匂いだけで吐き気がする者。
親しかった相手を急に異性として意識し、会いに行くのをためらう者。
性的な欲求が強まり、自分の身体に何が起きたのか分からないという相談もあった。
その一通を晴が読み、途中で紙を伏せた。
「これ、みんなで読まない方がいいね」
頬が赤かった。
杏が頷いた。
「本人が誰に相談したいか、先に聞こう」
千景は公開の報告欄を閉じ、個別の窓口を作った。
俺たちに解決できることばかりではない。
それでも、相談した内容が同盟中に広まらないようにすることはできた。
夕方、俺は東雲の旧領地について届いた書簡に返事を書いていた。
相手は以前も通行条件を変えたことのある同盟だった。
またかと思った。
こちらの混乱を見て、押せると考えている。
そう決めつけた途端、筆が速くなった。
「それ、送るの?」
葉に言われて、顔を上げた。
「向こうが先に条件を変えている」
「だから、その返事?」
読み返した。
約束を守る意思がないのであれば。
今後こちらも同様に扱う。
それがそちらの同盟の総意と理解する。
俺は筆を置いた。
確認していないことばかりだった。
「……少し置く」
「うん」
葉は紙を取り上げなかった。
俺自身が裏返すのを待っていた。
*
夜になり、晴が俺を廊下へ呼んだ。
昼の会議で、一人の城主と言い合いになったと聞いていた。
守備を断られ、思わず、今まで誰に守ってもらったと思っているのかと言ったらしい。
「言った時は、正しいと思った」
晴は窓の外を見た。
「その人が黙ったら、ちょっと、すっとした」
俺は何も言えなかった。
昼に書いた返事を思い出した。
「あとから怖くなった。謝ったけど、今日はもう話したくないって」
「……そうか」
「私、こんなだったのかな」
晴の声が小さくなった。
「みんなを好きだったのも、そうなるようにされてたのかな」
違う、と言えればよかった。
根拠が欲しかった。
晴がどの世界で、何をどこまで変えられていたのか。俺たちは、そのすべてを知っているわけではない。
好きだった記憶を見せても、その気持ちに触れられていたのなら証明にはならない。
「分からない」
俺が答えると、晴は目を伏せた。
その顔を見て、胸が痛んだ。
「でも、今日言いすぎたと思って、謝りに行ったんだろ」
「許してもらえなかったよ」
「ああ」
俺は窓枠に手を置いた。
「明日、相手が話せるなら、また聞こう。俺も今日、ひどい返事を送りかけた」
晴がこちらを見た。
「送った?」
「葉に止められた」
「……そっか」
少しだけ、息を吐いた。
晴はしばらく黙ってから言った。
「明日の会議、短くしてもいいかな」
「短くしよう」
「ちゃんと寝たい」
その言葉には、迷わず頷けた。




