解除
第百一話 穏やかだった理由
玄から、次に集まるなら肉を多めに用意するという書簡が届いた。
朔がその余白に、人数が決まってから仕入れろと追記していた。どういう経路で二人の書簡が一枚になったのかは分からない。
俺は返事を書きかけて、窓の外を見た。
城門の向こうで荷車が止まっている。御者と門番が何か話し、それから一緒に笑った。
戦争が終わっても、仕事は減らない。
それでも、こういう朝が増えたことには意味があると思っていた。
「今日は晴の城へ?」
周が茶を置いた。
「ああ。倉庫の件で少し。それと、恭介に仕事が偏ってないか確認したい」
「では、昼のお食事は――」
周の声が途切れた。
俺たちの間に、白い表示が開いた。
触れていない。
閉じるための印もなかった。
『統合世界・比較観測段階終了』
最初は、次の統合の予告かと思った。
だが、その下に現れた文字は、土地も砦も資源も示していなかった。
『旧第三世界に適用されていた情動補正について開示します』
俺は茶から手を離した。
『闘争衝動および怒りの持続に対する抑制』
『観測項目――当該抑制下における集団間紛争の発生、継続、終息』
読み終えても、意味が頭に入ってこなかった。
同じ行を、もう一度読んだ。
闘争衝動。
怒りの持続。
抑制。
「……俺たちのことか」
周は答えなかった。
答えを知って黙っているのか、知らないのか。
その区別さえ、急に気になった。
『旧第四世界に適用されていた情動補正について開示します』
『所属集団に対する帰属意識および集団内連帯感の増幅』
『観測項目――当該増幅下における協力行動、対外攻撃性、集団間境界の形成』
千景の顔が浮かんだ。
昂生や朱音の顔も。
身近な仲間を守るためなら、少人数でもよく動く人たちだった。
それを、第四世界で身につけたやり方だと思っていた。
違ったのか。
いや、すべて違うと決まったわけではない。
考えようとしたところへ、次の表示が重なった。
『両集団の統合後における相互影響の観測を終了しました』
観測。
その言葉だけが、ひどく軽かった。
城を落とされた人がいた。
助けを求める書簡が間に合わなかった人がいた。
俺たちは何度も話し合い、腹を立て、折り合いをつけた。
それらを向こう側から眺めていた何かが、観測を終了したと言っている。
「誰が」
声に出したが、表示は答えなかった。
*
晴の城へ向かう道で、何台もの荷車が止まっていた。
人々は道端に立ち、誰もいない空間を見つめている。
同じものを読んでいるのだと分かった。
晴の執務室には、すでに千景と葉がいた。
晴は立ったままだった。
「みんなにも出てる?」
「ああ」
「消えないんだ」
晴は表示の端へ手を伸ばした。
何も起きない。
普段なら、動かないものに二度三度と触れる。今日は一度で手を下ろした。
続きが現れたのは、その時だった。
『城主応答の維持が困難となった一部の城において、城主機能を自動代行へ移行しています』
『該当城の表示を更新します』
葉が地図を開いた。
いくつかの城名の脇に、見慣れない印がついていた。
自動代行中。
北の川沿い。
西の林の向こう。
そして、南の道を借りたことのある城。
「この人」
晴が指を置いた。
「昨日、返事くれたよ」
誰も口を挟まなかった。
「通っていいって。いつもと同じだった」
俺も覚えていた。
倉庫へ資材を運ぶため、道の使用を打診した城だった。返事は短く、条件は明快だった。
こちらの事情に興味がない人なのだと思っていた。
晴は書簡を取り出した。
紙を開く手つきだけが、普段より慎重だった。
「これ、本人じゃないの?」
葉が表示を読み返した。
「……いつからかは、書いてない」
「今は、どこにいるの」
答えはなかった。
本人の意思が戻るのか。
そもそも戻る先があるのか。
説明は、そこに触れないまま先へ進んだ。
千景が机に手をついた。
指の節が白くなっていた。
「人の城を印ひとつで済ませるのね」
低い声だった。
晴が彼女を見た。
俺も見た。
千景自身が、少し驚いたように唇を結んだ。
『情動制限の解除を開始します』
『恐怖反応、性的欲求、その他制限対象となっていた情動を含みます』
晴が文字を追う。
途中で視線が止まった。
「待って」
初めて、表示に向けて声を上げた。
「まだ説明、終わってないよね」
白い文字は動き続けた。
「これからどうなるの。あの人たちはどうなるの」
返事はない。
代わりに、見慣れた登用画面の印が、小さく光った。
『地形に付随する登用排出補正を終了します』
大城の周囲に記録していた補正が消えた。
三日ごとの回復を数えていた欄も。
あの場所を守って二日間戦い、最後に譲り渡した時のことが浮かんだ。
晴が眠らずに書簡を読んでいた顔まで、妙にはっきり思い出した。
消えるのか。
こんな一行で。
腹の底が熱くなった。
言葉を選ぶ前に、机を殴りたいと思った。
その強さに、俺は手を引いた。
晴がこちらを見ていた。
何か言おうとして、やめた。
『解除完了』
窓の外で、陶器の割れる音がした。
そのあと、怒鳴り声が聞こえた。
誰かを呼ぶ声。
門の方から、馬のいななき。
部屋の中では、誰も動かなかった。
俺は自分の手を見ていた。
握り込んだ爪が、掌に食い込んでいた。




