第9章 : 残響
石炭産業科学館の重い自動ドアを出た瞬間、周囲の空気が一変した。
さっきまで僕たちの肺を、肌を、精神を圧迫していたあのじっとりとした湿度。
光を吸い尽くすような絶対の闇。
そして、鼻腔の奥にべっとりと張り付いていた石炭の粉塵と煤の匂い――。
それらが、突風で吹き飛ばされたみたいに一瞬で消え去った。
代わりに僕たちの五感に飛び込んできたのは、冷房の効いたロビーの消毒液の臭い。
遠くの幹線道路を走る車の無機質な排気音。
そして、ガラス越しに差し込む午後のぼんやりとした、あまりにも平凡な太陽の光。
世界が普通すぎて、逆に頭がおかしくなりそうだった。
あまりのギャップに、脳の平衡感覚がぐにゃりと歪む。
「……ほんとに、出てきたと?」
美琴が小さく、掠れた声で呟いた。
その声は、まだあの暗黒の坑道の奥深くに置いてけぼりにされているみたいに、酷く頼りなく、震えていた。
灯真は何も答えられなかった。
答えるための言葉が、喉の奥で煤の塊のようになって引っかかっていた。
ただ、無意識のうちに自分の両手を見つめていた。
手のひらを裏返し、何度も握りしめ、また開く。
黒く汚れてはいない。
爪の間に石炭の粉が挟まってもいない。
松丸太にしがみついたときの擦り傷も、炭車を避けたときの打撲の跡もない。
あの地底の、身体を押し潰すような圧倒的な気圧も、骨まで凍りつかせるような地下水の冷たさも、そこにはもう存在しなかった。
なのに。
身体の、もっと深い場所。細胞の、さらに奥にある記憶の層。
そこに、まだ消えずに残っている。
“あっち側”で過ごした、あの果てしない月日の感覚だけが、確かに僕の肉体に刻み込まれていた。
場所を移動しても、僕たちの間の沈黙は破られなかった。
気づけば僕たちは、イオンモールのフードコートにある、植栽に囲まれたベンチに座っていた。
手には、フードコートで買ったジュースのカップ。
氷が溶けて結露した水滴が、僕の指を濡らしていく。
けれど、その冷たささえ、さっきまで脳内で飲んでいた大正時代の井戸水の味や、親友の馬場と食べたあの洋食の脂っこい匂いにかき消されてしまいそうだった。
周囲は、夏休みを過ごす買い物客たちで溢れかえっている。
楽しそうに笑う家族連れ。
大きな買い物袋を提げた主婦。
スマホを見ながら歩く学生たち。
誰もが「普通」の令和を生き、誰もが「普通」の顔をして歩いている。
その、当たり前すぎる光景が、今の僕たちにはひどく狂気じみて見えた。
ほんの少し足元を踏み外せば、このアスファルトのすぐ下には、あの地獄のような大蛇の腹が広がっているというのに。
美琴がストローをくわえたまま、じっと自分の膝の上の紺色スカートを見つめていた。
「……灯真、さっきの」
言いかけて、言葉が止まる。
その先を口にするのが、あまりにも恐ろしいというように。
灯真は彼女の方を見ないまま、溶けかけたメロンソーダを睨みつけて答えた。
「夢じゃない。絶対に」
その一言を落とした瞬間、僕たちの間の空気が一気に重くなった。
美琴はきゅっと唇を噛み締め、小さく肩を震わせた。
「私も……そう思う。」
「だって、今もまだ、あんたの腕に引っ張られたときの痛みが、ここにあるもん……」
そう言って、彼女は自分の細い腰のあたりをさすった。
炭車が火花を散らして駆け抜けたあの瞬間。
僕が彼女を抱きすくめて壁に飛び込んだときの、あの生々しい衝撃。
実体を持たなかったはずの美琴に、僕の触覚だけは確かに触れていたのだ。
沈黙。
フードコートから流れてくるポップスと、子供の泣き声が遠くで鳴り響いている。
「でも、もう、やめよ」
美琴の口から出た言葉は、思ったよりもずっと静かで、そして重かった。
いつもの強気で、小生意気で、僕を引っ張り回す神崎美琴はそこにはいなかった。
お節介な幼馴染の仮面は完全に剥がれ落ち、ただ、未知の恐怖に怯える一人の女子高生としての生身の声だった。
「灯真が、もし……本当におらんごつなったら……」
途中で、また言葉がプツリと切れた。
それ以上を明確に言語化してしまったら、その瞬間に不吉な未来が本当に現実になってしまう――そんな予感に、彼女の防衛本能がブレーキをかけたのかもしれない。
美琴はストローを指先で強く握りしめたまま、顔を背けた。
その横顔を見て、灯真はそこで初めて、奇妙な違和感に気づいた。
自分は、怖かったはずだ。
あの息もできない坑道の暗闇も。
自分という存在がひいじいちゃんに塗りつぶされそうになった、あの上書きされていく恐怖も。
あの世界の裸婦たちの妖しい美しさも、親友の馬場と笑い合った眩しい青春の日々も、消えかけた美琴の姿も。
思い出すだけで心臓が跳ね上がるはずの恐怖。
なのに今、その「恐怖という感情」そのものが、なぜか綺麗にフィルターにかけられたように、うまく思い出せない。
代わりに、僕の心臓は驚くほど静かに脈打っている。
そして、脳裏に冷徹に残っているのは、恐怖ではなく、ただの**【やり方】**だった。
光のない、完全な暗闇の中で、どうやって足の裏の感覚だけで平衡を保ち、立つべきか。
ぬかるんだ泥や、崩れかけの斜面で、どうやって身体の重心を逃がし、滑落を防ぐべきか。
天井の松丸太が軋む音、悪水が流れる音の変化から、落盤やガスの噴出をどうやって予兆として聞き取るべきか。
理由もないのに、僕の肉体が、筋肉が、神経が、その「地底での生存技術」を完璧に記憶していた。
気持ち悪いほど自然に、まるで何十年もその穴の中で生きてきた熟練の坑夫のように。
(……なんだこれ。何が起きているんだ)
怖いのに、怖さが薄い。
僕の中の何かが、あの強制同期によって強制的に“整理されてしまった”みたいだった。
令和の高校生である境灯真の意識の下に、大正の過酷な環境を生き抜いた「もう一人の境灯真」の経験が、強固な土台として居座っている。
「もう、やめよう。お願いだから」
美琴がもう一度、今度は懇願するように言った。
今度は隠しきれないほど、その声がハッキリと震えていた。
「灯真が……どこか遠いところに行って、戻ってこんごつなったら、私……」
また途中で言葉を飲み込む。
いつもの強がりも消え、無理に笑おうとして、歪に失敗した顔を僕に向けた。
「……なんでもない。ちょっと弱気になっただけ。気にせんで」
灯真は無言でベンチから立ち上がった。
そこに座って、冷たいジュースを飲んで、普通のフリをし続けることに、耐えられなくなった。
理由はない。
でも、ここで立ち止まって、日常に埋没しようとするのも、何かが違う気がした。
僕たちの内側で始まってしまった崩壊は、もう、普通の日常を過ごすだけでは止められない。
「一回、帰ろう。」
それだけを静かに告げた。
美琴は少しだけ驚いたように目を見開いたが、すぐに諦めたように小さくうなずいた。
神崎神社へ大牟田の古い街並みを歩く。
夕方にはまだ少し早いはずなのに、なぜか今日の空は、不自然なほど低く、急角度に傾いて見えた。
まるであの地底の傾斜が、まだ視界に影響を及ぼしているかのように。
神崎神社の古い石造りの鳥居が近づくにつれて、周囲の空気がじわじわと冷たくなっていくのが分かった。
エアコンの冷気ではない。
もっと古く、湿った、大地の底から這い上がってくるような霊的な冷気。
ただの寂れた住宅街の真ん中にあるはずなのに、そこだけが世界から取り残され、ぽっかりと“切り離された空間”のようだった。
美琴が鳥居の手前で、ピタリと足を止めた。
「……ここでいい。ありがとう、灯真」
灯真は少し躊躇した。
彼女の左手首には、まだあの青白い紋様が薄く残っている。
だが、神社の境内へ一歩踏み出すことに、本能的な躊躇いもあった。
「……送るだけな。中まで行くよ」
鳥居をくぐり、一歩足を踏み入れた瞬間、周囲の雑音が一段、いや二段ほどガクンと落ちた。
遠くを走る車の音も、生活音も、すべてが厚い壁の向こう側に遮断されたように遠くなる。
静寂。
その境内の奥、古びた拝殿へと続く長い石段の上に、小さな人影がぽつんと立っていた。
美琴の祖母だった。
白髪を後ろで綺麗にまとめ、古い作務衣を着たその姿は、まるで最初からそこに置かれていた置物のようだった。
「帰ってきたね」
祖母は石段の上から、僕たちを見下ろしてそう言った。
驚きも、心配の表情もない。
まるで、僕たちがどこへ行き、そこで何を体験し、どうやって戻ってきたのか、そのすべてを最初から知っていたかのような、静かな声だった。
美琴が一瞬、息を呑んで言葉を失う。
「おばあちゃん……私、私たち……」
祖母はゆっくりと、一段ずつ石段を下りてきた。
その足取りは驚くほど静かで、足音が一切しない。
僕たちの目の前まで来ると、祖母は美琴の様子を一度確認し、それから、僕の顔をじっと見つめた。
その深いシワに刻まれた瞳が、僕の魂の奥底を見透かすように細められる。
美琴と僕は、おばあさんに全てを話した。
「怖かったやろ」
その一言に、灯真は何も答えられなかった。
怖かった。いや、今も怖いのかすら分からない。ただ、身体が拒絶反応のように硬直する。
沈黙する僕を見て、祖母は小さく息を吐き出し、穏やかな、けれど妙に確信に満ちた口調で続けた。
「でもね、灯真くん。それ、あんた達が思っとるような『呪い』とか『祟り』とは、多分違うとよ」
「違う……?」
美琴が横から、震える声で聞き返す。
祖母は、僕たちがくぐってきたばかりの、外の世界へと続く鳥居の向こうを一度見つめてから、静かに口を開いた。
「……私にも、本当のことは分からん」
その一言に、僕も美琴も顔を上げる。
「ばってんね。百年前の、もう一人の『境灯真』さんが、お前さん達に何かを託したかった――そう考えると、全部つじつまが合うとよ」
その名前が響いた瞬間、僕の背筋がピクリと跳ねた。
百年前の、十三歳の、僕と同姓同名のひいじいちゃん。
「あの人は、底の底で生き抜いた人やった。暗闇での足の置き方、崩れそうな場所での立ち方、生きるか死ぬかの場所で、自分を見失わんための知恵……。」
「そういう、生きて戻るための術だけは、誰よりも身体に染みついとったとやろ」
「知恵を……俺に?」
「そう。あの人は、口で伝えるような人やなかった。優しい言葉を並べるより、自分が味わった苦しみごと渡すしかできん、不器用な人やったんやろうね」
祖母は少しだけ目を細め、懐かしむように微笑んだ。
「『死ぬな』――その想いだけを、記憶の形にして、お前さん達へ託した。もしそうやったなら、恐ろしかった出来事も、意味が変わってくるたい。」
祖母の手が、僕の、煤の匂いが残る肩にそっと置かれた。
不思議なほど、温かかった。
「でもね、灯真くん。それは呪いじゃない。たぶん、これから先、あんたたちの役に立つばい。漆黒の闇の中に入って、生きて戻ってきた男の記憶やけんね。そんじょそこらの闇には、負けん強さになっとるはずたい」
灯真はその言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
科学館で起きたあの異常現象。
人格が消えかけ、歴史の濁流に呑まれそうになったあの恐怖が、ひいじいちゃんの「優しさ」だったなんて、到底信じられるものではなかった。
けれど。
祖母の言葉を聞いているうちに、さっきまで僕の胸の奥でドロドロとした“純粋な恐怖”として渦巻いていた冷たい塊が、少しずつ、別の形に変化していくような気がした。
あれは、僕を殺そうとしたんじゃない。
僕を、生かすために。
あの地底世界から、美琴を連れて絶対に生還させるために、ひいじいちゃんが僕の肉体に刻み込んだ「生存本能」だったのかもしれない。
美琴は下を向いたまま、小さな声で、何かを確かめるように呟いた。
「……じゃあ、灯真が消えんかったのは」
「そう。灯真くんが、現代の灯真くんであり続けたからたい」
祖母は美琴の頭を優しく撫でた。
灯真はもう一度、自分の両手を見た。
夕暮れの光に照らされた、普通の、高校生の白い手。
爪の中にも、皮膚のシワにも、黒いダイヤの破片なんてどこにもない。
なのに、確かに残っている。
この肉体に、ハッキリと馴染んでいる。
“世界がどれだけ暗くなっても、迷わずに歩き続けるためのやり方”だけが。
「……ありがとう、おばあちゃん」
灯真は小さく頭を下げた。
まだ、すべてが解決したわけじゃない。
視界の端に映ったあの「再侵入の可能性:極めて高」という赤文字の警告が、今も脳裏に焼き付いている。
僕の「同期」は、まだ終わっていないのだ。
鳥居の向こうで、大牟田の街にゆっくりと、けれど確実に、夜の闇が降りてこようとしていた。
かつて地下千尺の底で、人間たちの営みを見つめ続け、 今もなお、この街の底で眠り続ける巨大な大蛇の気配を孕んだ闇が――。
(第9章 終わり)




